偶然立ち寄った本屋で、こんな本を見つけた。

『置いてけぼりの人生』

まるで自分のようだと思い、小さく笑ってしまった。



ガラスの空の向こうに




時は止まる事無く過ぎて行く。
彼が居なくなってからの十年間。
応えのない問い掛けを続け、それでも彼を愛して、愛して。
漸く逢えたと思ったその日に、彼は自分を置いて逝ってしまった。
そして、彼が死んで五年の時を経た。
この想いだけが、遠い遠い昔から、止まったままだった。






「手塚、あとどれくらい?」
乾の声に手塚はペンを止め、部誌から視線を上げた。
「あと二行だ」
そして再び視線を部誌に戻し、ペンを走らせる。
ペン先と紙の擦れる音だけが、静まり返った部室内に微かに響く。
「…終わったぞ」
「お疲れ」
ぱたりと部誌を閉じると、ふわりとコートが肩にかけられた。
「じゃあ、帰ろうか」
コートを着込むと乾がそのボタンを丁寧に留め、はい、と鞄を手渡される。
「手は?」
無言で手を差し出すと、左手に温まったカイロが渡される。
「右手はこっちね」
乾は己の手で手塚の手を覆うように繋ぎ、小さく笑った。
「さ、行こうか」
手を引かれて部室を出る。
手塚は空いた手で鍵を掛け、それをポケットにねじ込んだ。
いつもは大石の役目である鍵当番も、今日は遅くなるからと変わってもらったのだ。
「そういえばね、今日、桃が言ってたんだけど…」
耳に心地良い乾の声に耳を傾けながら、手塚は小さく微笑む。
乾は決して手塚の左手を繋ごうとはしない。
左手は手塚の利き手だからだ。
いつも利き手は使えるようにと乾は気配ってくれる。
だから彼が左手を繋ぐ事はまず無いし、左側に立つ事も無い。
そんな小さな事にも、毎回嬉しく思ってしまう自分に手塚は苦笑する。
「あ、」
不意に立ち止まった乾に手塚は何だと顔を上げる。
何時の間にか分かれ道まで辿り着いてしまったらしい。
「…それじゃあ」
乾は少し残念そうに笑い、手塚の手を放した。
「ああ…」
右手に残った彼の体温は瞬く間に乾いた冷たい空気に奪われてしまう。
「いいよ、手塚にあげる」
カイロを返そうとした手塚を制し、乾はそのカイロを再度手塚に握らせる。
「じゃあ、またね」
乾はにこっと笑うとY路地の右手に入っていく。
(あ……)
その後姿が急に不安になり、手塚は彼を呼び止めようと唇を開く。
「…っ…!」
だが、喉は手塚の意に反して音を紡いではくれなかった。
それが余計不安を掻き立て手塚は必死に声を出そうとする。
(乾…!)
ヒューヒューと空気の鳴る音しかしない喉を押さえ、手塚は乾の背に呼びかける。
「手塚」
必死の思いが通じたのか、乾がふと足を止め、こちらを振り返った。
「手塚、愛してる」
そして彼は少し、悲しそうに微笑った。

「ごめんね」





「………」
薄らと瞼を開け、手塚はぼうっと天井を見つめる。
半ば寝ぼけた思考で、ああ、またか、と未だ暗い天井を眺めた。
彼と過ごした学生時代。
あの頃は、先の事を考えているようで、本当は何も考えていなかった。
ただ毎日を勉強とテニスで埋め尽くし、将来の事など夢程度にしか認識していなかった頃。
傍らには常に乾の姿があり、それが当たり前の生活となっていた。
彼の気配は空気と同じ、自分の周りに在るのが当たり前の存在で、視線を上げれば、彼は手塚を見下ろして小さく笑った。
さほど所持しているわけでもない小遣いで遠くへ出かけたり、街を宛てなくぶらついたり。
真夏の暑い日々でも、文句を言いつつも抱き締め合っては笑い合う。
真冬の凍えるような日々でも、二人で身を寄せ合って小さく微笑んだ。
あの頃が、一番幸せだった。
「……乾……」
彼が姿を消して、何度その名を呼んだだろう。
「乾」
そして彼が死に、何度その名を。
「いぬい」
それは彼の名ではなく、苗字だったけれど、手塚にとって彼とはその名より、その三つの音が「彼」そのものだった。
「乾」

――なに?手塚。

そんな応えが今でも聞えてきそうな気がして手塚は視線を天井から室内へと移す。
だが、そこに乾がいる筈もなく、手塚は再び瞼を閉じる。
あれから、何年経ったのだろう。
初めて乾と出会ったのは、中学一年の時。
途惑いながらも乾と付き合い始めたのが、中学二年の始め。
あれから、何年。
あの頃の年齢の倍以上は疾うに生きた。
友人や知人も増えては減り、地位も変わっていった。
彼の息子も成人し、結婚を考えている一つ年下の恋人もいる。小柄で活発な少女だ。
なのに、彼との思い出や、彼への想いだけは、未だあの頃と何ら変わりないのだ。
「………」
眼を閉じていても眠気は一向に訪れる気配がなく、手塚は仕方なく起き上がり、ベッドから降りた。
暖房の付いていない部屋は冷え切っていて、素足の触れる床は冷え冷えとしている。
手塚は窓辺に近付くと、そのカーテンを開けた。
しゃらり、とカーテンレールを金具が走る音と共に視界が変わる。
まだ辺りは暗い。隣家を見分けるのも、ぼんやりとしか叶わないくらいだ。
道路や家屋から視線を上げると、そこにはガラスに遮られた夜空が広がっていた。






「あ、手塚さん、いらっしゃい」
そう笑って突然訪れた手塚を、国治は快く迎え入れた。
「今日はどうしたんです?あ、上がって下さいよ。紅茶で良いですよね」
キッチンへ引っ込もうとする国治に、ここで良い、と呼びとめる。


「乾に、逢いに行こうと思う」


手塚の言葉に国治は大きく目を見開き、言葉を失った。
「………そうですか」
どうしてか、否定や制止の言葉は出なかった。
「いってらっしゃい」
薄く笑ってそう言うと、手塚は小さく微笑んだ。
「有り難う」
それは、本当に小さな微笑だったけれど、乾が死んで以来、国治が始めて見た彼の笑顔だった。
ああ、この人は本当に父を愛しているんだ。
そう、全身で感じた。
「手塚さん」
そしてそのまま踵を返し、出て行こうとする手塚の背中に問いかける。
「幸せ、ですか?」
手塚は振り返り、ふうわりと微笑んだ。
先程の小さな微笑などとは比べ物にならないほど暖かく、綺麗だった。
ぱたりと扉は閉まり、手塚の姿が遮られる。
「……さようなら」
小さく呟くと、背後から声を掛けられる。
「ハル、どうしたの?手塚さんは?」
リビングの扉が開き、そこから恋人が顔を覗かせていた。
事情を知らない彼女はただきょとんとして国治を見ている。
「大した用じゃあ、なかったから」
そう言って笑おうとしたがそれは適わず、声は震え、視界は涙でぼやけてしまった。
「ハル?!どうしたの、ねえ、国治?」
突然泣き出した国治に驚いた少女は慌てて駆け寄るが彼の涙を止める術を知らずただ慌てるしかない。
「大丈夫…大丈夫だよ……」
まるで自分に言い聞かせるように恋人にそう告げ、国治は両の手で顔を覆う。
最後に見た彼の笑顔が余りにも幸せそうで、幸せそうで。
父と二人でいる時、手塚はいつもあんな穏かな表情をしていたのだろうか。
そして、そんな表情を手塚にさせることができるのは父だけで。
幼い頃はたった数回しか会った事の無かった手塚。
けれど、一度だけ頭を撫でてもらった事だけは今でも覚えている。
父が何か彼の耳元で囁き、すると手塚は途惑ったように父と自分を交互に見た。
大丈夫だから、という父の声に押されるように彼の手はそっと自分の頭に載せられ、軽く撫でられた。
何だか良くは分からなかったけれど、父の好きな人が自分の事を好きになってくれたんだと、喜んだ。
「…っ……父さん……」
きっと、手塚を今までこちらに引き止めていたのは自分だ。
父はこれ以上に無いくらい自分に愛情を注いでくれた。
母がいなくとも、幼稚園で仲の良かった友達と離れてこの地へ越して来た時も、寂しいなどと思わないくらい、父は自分を大切にしてくれた。
手塚はそれを知っているから、自分が成人し、独り立ちするまで待ったのだろう。
そして、それを見届けた今、手塚をこちらに引き止めるものは無い。
父が死ぬまで書き続けた日記に手塚国光の名が出ない日が無かったのと同じように、彼も父を想い続けて来たのだろう、ずっと。
「ハル…?」
恋人の細い体を抱きしめ、国治は震える声で囁いた。
「ねえ、ずっと一緒にいようね」
父が手塚を抱き寄せ、その前髪に口付けを落す。
それを手塚は擽ったそうに受け入れ、小さく微笑する。
幼い頃、見ただろうか。そんな情景が、不意に脳裏に浮かんだ。

ああ、二人は幸せなんだ。

心から、そう思った。











(完)
*―*◇*―*
また書いてしまったよ。あっはっは……はあ…(溜息)
えーっと、これは「お母さん、もう、死んでも良いですか」というセリフが何気なく浮かび、そこから派生した話です。そのわりに梃子摺ったよこのセリフ。そして結局使わなかったし。
国治君は乾が死んでからは祖父さん(乾方の。つまり乾さんの父)が一緒に住んでくれてました。そして成人して可愛い彼女までいます。手塚は四十路一歩、または二歩手前……ある意味犯罪の気がしてなりません。(爆)
そしてまたもや出てこなかったセーター…。本当は上記の「〜もう死んでも〜」の所で使うはずだったんですが無理でした。もうあきらめました。(爆)
乾の妻が編んだセーターは、「手塚の知らない乾さんのもう一人の理解者の存在」を現わしたかったんです。乾は「こんなに空は青いのに」で一度だけ細君を「妻」呼びましたが、それ以外はずっと手塚には「妻」と言わず「彼女」、と言っていました。セーターはそれについての事と、手塚の、乾の妻に対する思いなどを書くための布石だったんですが…手塚母の存在が意外にも扱い難くて没りました。
これで完結です、本当に。(苦笑)これ以上は浮かばないと思うので…ていうか浮かんで欲しくない…とか言いつつもまだネタはあるんですけどね。(をい)あ、でもこれは余りにも短くて、話的にも書く必要無いかな、と。乾さんが発病してからの乾さんと国治の話。手塚一切出てこねえ…。
なんでこうも読みきり予定ものだったはずが延々と続編書いてるんだろう…。まあおそらく一作目で書きたいこと書ききってないからなんでしょうが。(自業自得)
(2001/12/18/高槻桂)

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