空の名前・零






一番古い記憶の中の自分は、既に自分の体が普通とは違うのだと知っていた。
正しく理解できていたかどうかはともかくとして、そういう認識はあった。
だから人を見る時はまずその体つきをじろじろと見る癖があった。
今思えば随分失礼な事をしていたとは思うのだが、あの頃はただひたすらに好奇心の塊だったのだ。
親は俺が生まれた時、医者の勧めに従って女として届けを出した。
けれど育つにつれて男の子としての行動が目立ったために俺は戸籍は女のまま、男として育てられた。
親はこの体を恥じる事ではないと教えた。
俺自身もそう信じてきた。
けれど年を重ねて知識が増え、思考も複雑になっていくにつれて、次第にその言葉を盲目的に信じ続けることは難しくなっていった。
まず、プールなどで他の男子と混じって着替えるのが苦痛になった。
胸元を曝すのも嫌だった。けれど女子の水着を着るのも嫌だった。
まともにプールに入ったのは、小学一年生の頃までだった。それ以降は親に頼んで見学にしてもらった。
次に公の場でのトイレは人目を憚るようになった。
男なのに個室に入るところを見られたくなかった。
人と関わるのが不安で、友達は余り作らないようにした。けれど敵を作るのも嫌だったので広く浅く付き合った。
本当の自分を表に出せるのは、親の前でだけだった。
今はもう亡き祖父は俺の事を嫌悪していたし、祖母は凛とした自他共に厳しい人だったから可愛がってもらった記憶は薄い。
親戚に至っては興味本位か、何も知らないかで。
そうして俺は表面ヅラばかり良くなっていって、けれど親友と呼べるような相手は一人もいなかった。
…否、たった一人だけ、いた。そんな時期が、あった。
親の勧めで始めたテニス。そのスクールで知り合った、彼。
彼と出会って一気に世界が広がった。楽しかった。
彼ならば、秘密を打ち明けても良いとすら思った。
けれどそれを打ち明けようとした矢先、彼は俺の前から消えた。
そうして俺はまた独りになり、口を閉ざした。

それから一年が過ぎて、五年生の冬のある日。
道徳の授業で男女の違いを学んだ。
それはもう随分昔からうんざりするほど医者から説明を受けてきた事だったので、落ち着きのないクラスメイトを尻目にただ聞いていた。
けれど、性交の話に至って俺の興味は引き戻された。
子供は産めないだろう、そう言われた事はある。
だからそうなのだろうと思っていたのだけれど、それに至るまでの過程はどうなのか。
それは今まで一度も聞いた事がなかったし、自分自身その知識がなかったので訊ねようもなかった。
その日はその事ばかり考えていた。
だからと親に聞くことも出来ず、一人部屋でぐるぐると思考を空回らせていた。
興味があった。それは事実だ。
けれどそれ以上に不安があった。
愛を確かめ合う行為なのだと教師は言った。
ならばこの肉体は何だ。
男としても女としても不完全で、とてもそんな行為に及べるとは思えない。
いつか人を愛したとしても、この体を曝す勇気などない。
愛した相手だからこそ、こんな体を見せたくはない。
人を愛するという当たり前の事にすら、この足には枷が嵌っているのだ。
その夜、俺は初めて性的な意味を以って己の性器に触れた。
いけない事だと思ったのだろう、電気を消して布団に潜り込んで恐る恐るパジャマのズボンの中に手を差し入れた。
けれど結局の所よく分かっておらず、ただ指先で小さな男性器と女性器の表面を弄っただけだ。
中に指を入れるなんて怖くて出来なかった。
むず痒い様な、快楽にしては幼い感覚と後ろめたさ。
そして我に返ってから襲ってきた虚しさ。
自慰にしては中途半端な、けれど虚しさだけは多大に齎した行為だった。
ただ単に肉体的に幼かったという事もあったのだろう。
けれど、きっと自分は普通の人のように誰かを愛することは出来ないのだと、漠然とそう思ったのは確かだった。

初潮が訪れたのは、中学二年になってからだ。
一般的には遅い初潮だったが、自分の体からして来るかどうかすら分からなかったので両親はそれはもう喜んだ。
けれど当の俺はというと酷い頭痛と倦怠感、そして腹部の鈍痛に悶えながらベッドの中で呻くことしか出来ず、こんなに苦しいのならば生理など来なくていいと心底願った。
しかもその後の検査で分かった事だが、どうも卵巣が殆ど機能していないらしく所謂無排卵月経だったらしい。
卵巣が動いてないのなら生理など来なくても良いものを。
それは年に片手にも満たない回数ではあったが、その度にしっかり俺をベッドの住人にしてくれるものだから腹も立つというものだ。
中学に入ってから築いてきた大切な仲間たちは、突然数日に亘って休む俺を心配してくれた。けれど真実を話すわけにもいかず、いつも誤魔化すのに苦労した。
そう、大切な仲間たち。
きっと彼らにもこの体の事を話すことはないだろう。
そう思っていた。

けれど、中学最後の大会が終わって暫くして俺は出会った。
亜久津仁と。

彼の事は以前から知っていた。
対戦校という事もあったが、何より、彼に個人的に興味があったのだ。
その理由を考えた事は無かったけれど、今思えばある意味、彼に憧れにも似た感情を抱いていたのだろう。
その暴力的な強さを男らしいと勘違いしたのかもしれない。しかし男としても女としても中途半端に生きている俺にとって、亜久津の存在は圧倒的な存在感を以って俺の中にあった。
そしてあの日、偶然にも路地裏で喧嘩をしている彼を見つけた。
俺の脚は迷わずそちらへと向かっていた。
そうして俺は、亜久津と接触を果たしたのだ。




***
某IS漫画発売記念。(笑)




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