「愛してるよ、手塚」
そう言って、お前は少し困ったような、泣いているような微笑みを浮かべた。


「ごめんね」




小さなガラスの空







最近、乾からの連絡が無い。
高校を卒業してからはお互い多忙で、最初の頃など月に一度逢えれば良い方だった。それでも年月を重ねる内に余裕も出て来て、それなりに食事をしたり、出掛けたりしていた。
だが、ここ数ヶ月ほどはどうも慌ただしく、二人はまともに逢っていなかった。
それでも二、三日に一度は乾から連絡があり、逢えない事もさして気にならなかった。
今日はこんな事があったんだとか、同僚がこんな事を言っていたんだとか取り止めの無いものであったが、それだけで毎日の疲れなど忘れれそうだった。
その乾からの連絡が、ここ一ヶ月以上、ぱたりと止まってしまった。
最初の内は乾も忙しいのだろうと思い、特に気に留めていなかった。
だが、それが二週間、半月、一ヶ月を過ぎる頃には、手塚が電話の前で悩むのは癖になっていた。
「……」
今日も帰宅するなり電話の前で立ち竦む。
掛けるべきか、掛けまいか。
だが、未だかつて私用で電話を掛けた事など皆無に等しい手塚にとって、それはとてつもない決心を要するものであり、掛ける事で乾の邪魔になってしまったら、という思いからなかなか踏ん切りが付かなかった。
「…………明日は掛かって来るかもしれないしな」
結局はいつもと同じように、溜息を吐いて電話の前から離れたのだった。


そうこうしている内にどんどん日は過ぎてしまう。
連絡が途絶えて一ヶ月半を迎えたある日、漸く手塚は受話器を手にした。
「………」
知ってはいても掛けた事の無かった乾の携帯電話の番号を一つ一つ押し、コール音に耳を傾ける。
「………………」
だが、幾ら鳴らしても行きつく先は留守番電話サービスで、手塚の脳裏にはやはり忙しいのだろうか、それとも何かあったのかと様々な思いが駆け巡る。
「…手塚だ。その…暇な時で良い。連絡をくれないか…それだけだ」
仕方なく留守電にメッセージを吹き込み、機械的なアナウンスの後受話器を置いた。
「………乾………」
いつもはこの受話器から流れて来ていた彼の声を思い出し、そっと受話器の背を撫でる。
長い間逢えなくとも、身体を合わせなくとも平気だったというのに、電話一つ無いだけでここまで不安になるとは思わなかった。
「今、何をしている……?」
その日も電話が鳴る事はなかった。




(良い天気だな…)
一人駅までの歩道を歩きながら手塚は空を見上げた。
今日は日曜で、会社は休みで。
散歩などした事が無かったが、冬の寒さを和らげるこの陽射しを浴びながらのんびりと歩くのは悪く無いと思う。
元来出不精の手塚が、自分の住む街から幾つか離れた街まで出向いたのは、自分の好きな写真家の展示会があったからだ。
本当なら自分の隣には乾がいる筈だった。
だが、やはり彼と連絡は取れず、仕方なく手塚は一人で来ていたのだ。
(……え…?)
丁度公園に差し掛かった時、手塚は足を止めて己が目を疑った。
(乾?!)
視線の先、公園のベンチに座っているのは紛れも無く乾だった。
こちらには気付いていない様子で、組んだ脚の上に片肘を突いて顎を乗せ、砂場で遊ぶ子供たちを眺めていた。
「………」
一歩、また一歩と手塚は乾へと歩み寄る。考え事でもしているのだろうか、乾はまだ気付かない。
どこか翳りのある横顔に、手塚の胸が騒ぐ。
「……乾」
「え……」
乾の前で立ち止まると、彼は漸く気付いて顔を上げた。
「……手塚……」
その瞳が大きく見開かれる。
「久し振り、だな」
「どうしてここに…?」
久し振りに聞く彼の声に、ほっとしながら手塚は小さく微笑した。
「ちょっと私用でな。お前こそ、こんな所でどうしたんだ?散歩か?」
手塚の問いに、乾は「そんな所かな」、と曖昧に笑った。
「ねえ手塚、時間、ある?良かったらウチにおいでよ」
いつまでもここにいると風邪を引くからとベンチから腰を上げた乾は相変わらずの長身で、手塚を優しく見下ろして来た。
「ああ、大丈夫だ」
手塚の返答に「そう、良かった」と乾は笑うと砂場を振り返った。
「ハル!」
ハルと呼ばれた少年はくるっと乾を振り返ると、慌てて周りの友達にバイバイと告げてこちらへ駆け寄って来た。
親戚の子でも預かっているのだろうかと手塚がその少年を見ていると、少年も手塚が気になったらしく手塚を見上げていた。
「このお兄ちゃん、だぁれ?お父さん」
手塚の表情は凍り付き、切れ長の目は大きく見開かれる。
乾の、子供?
「お父さんの大切な人だよ」
父と呼ばれた事を否定しない乾の、少し困ったような声。
「全部、話すよ」
呆然と乾を見ている手塚に、彼は苦笑して手塚の手を取った。
「あ、ハルもお父さんと繋ぐの!」
「じゃあこっちの手ね」
無邪気な子供の甲高い声。
その一つ一つが、鋭い刃のように手塚に突き刺さる。
「行こう」
抗う気も、問い質す事もできず、手塚はただ引かれるまま呆然と足を進めていった。




「まあ、所謂政略結婚ってやつに近いね」
お互い、目の前に置かれたコーヒーには手を付けず、ただ乾の声だけがリビングに響く。
連れてこられたのは、見た事も無い家だった。
乾は四年も前からこの家に住んでいたという。ずっとあのマンションで暮らしているものだと思っていたが、よく考えるとこの四年間、一度も彼の家に行った事が無かった事に今更ながら手塚は気付いた。
「断る積もりだったんだけど、母さんが倒れてね」
元々身体の弱かった母だ。もう長くはないという事は薄々感付いていた。
「せめて、死ぬ前に孫が見たかったって泣かれちゃってさ」
病院での入院生活が彼女を気弱にしたのだろう。
乾が母を安心させようとその言葉に頷いたのが悪かった。
丁度見舞いに来ていた乾の上司であり、母の友人である男がそれを聞いてしまい、前々から乾に見合いを勧めて来た彼はここぞとばかりに乗り気になった。
紹介されたのは、受付嬢をしている朗らかな女性だった。
当然、乾の内にはいつでも手塚が居たし、誰とも結婚する気など無かった。
だが、やはり母の名を出されては引く事も叶わず、後はとんとん拍子に事は運んだ。
結婚が正式に決まった時、手塚にも全てを話すつもりだった。
「何度も、言おうと思ったんだ」
電話を掛けていたのは、勿論君の声を聴きたいからだったけれど。
愛しい君の声を聞きながらずっと咽喉の奥に引っ掛かっていたのは、君への謝罪の言葉。
「手塚を想う反面で、彼女の事も、愛していたんだと思う」
でなければ五年も一緒に居られなかっただろうし、子供も産まれなかったかもしれない。
「御免ね。騙す積もりじゃあなかったんだけど、結果としては同じ事だよね」
言えなかった。
婚約を経て結婚し、住居を変え、子供が産まれても尚、言う事など出来なかった。
「…息子の名前ね、国治って言うんだ」
「国、治…?」
「うん、御免ね。どうしても付けたくて、一字貰っちゃった」

――良いのよ。私、知ってたもの。
お義母さんに、幸せに逝って貰いたかっただけなんでしょう?

手塚を愛しているのだと、全てを話した乾に彼女はそう笑った。

――ねえ貞治さん。心の整理が済んだら、その人に会わせて頂戴な。
大丈夫、分かってくれるわよ。お義母さんのために私なんかと結婚するほど優しい貞治さんが愛している方だもの。分かってくれるわ。

――「手塚さん」ってどんな方かしら。ねえ、貞治さん、写真は無いの?
あら、この方?やだわ、とっても綺麗じゃないの。いつか絶対に連れて来て頂戴ね。

「…俺には勿体無いくらい良い娘だっだよ」
過去形の台詞に手塚が視線を上げる。
「…「だった」?」
「一ヶ月半前にね、亡くなったんだ」
「一ヶ月半、前…」
彼からの連絡が途絶えたのも丁度その頃。
「事故でね。スリップした車に跳ねられたんだ」
即死だったらしいよ、と彼はまるで他人事のように告げる。
「俺が駆けつけた時はもう霊安室に運ばれててね。本当、眠っている様だった」
その表情には微かな微笑さえ湛え、乾は淡々と告げる。
本当は口にするのも辛いだろうに、彼の口調はそれを微塵も感じさせない。
暫くの沈黙の後、乾はぽつりと呟いた。
女の子だったんだ、と。
「本当なら今ごろ、二人目の子供が産まれている筈だったんだ。あの日は定期検診の日でね。その帰りの事だったらしい」
罰が当たったんだ、と乾は苦笑した。
「電話で彼女が死んだと聞いた時、手塚も彼女も、二人共を手に入れようとしたから、彼女は死んでしまったんだと思ったよ」
神様っているんだねえ、と彼は戯れ言のように言う。
「…乾……」
そんな乾がとても痛ましく、哀れで手塚は席を立ち、乾の傍らに廻る。
「見損なった?」
最低でしょうと微笑むその両頬に手を当て、どうして泣かないんだと見下ろす。
「俺が悪いのに、俺が泣けるわけ無いでしょう?」
手塚が自分を見つけた時、ああそうかと、隠し通す事は許されないのだと思った。
「御免ね。もっと早く言えていれば、」
「もう良い。自分が情けなくなった」
言葉を遮り、手塚は乾の頬を軽く抓った。
「手塚?」
「お前が結婚するくらいで俺の気持ちが離れるとお前に思わせていた自分が情けない」
「は?」
「そりゃあお前が相手が好きで、俺の事などどうでも良くなったのなら仕方ない。けれど、そうじゃなく、俺の事を愛しているのならそれで良い」
手塚の拗ねたようなその呟きに乾は暫く沈黙していたが、小さく吹き出して笑った。
「凄いね、手塚は」
「それは誉めているのか?」
唇を尖らせた手塚に、「誉めてるって」と乾は笑う。
「……ねえ、愛してるよ、手塚」
そう言って乾は困ったような、泣いているような微笑みを浮かべた。
「ごめんね」
「もう、良いんだ…」
「……」
乾は無言で手塚をきつく抱きしめる。
手塚はそんな乾の髪をそっと撫で、その額に小さな口付けを落した。




あれから一週間が経った。
乾と自分の関係も何事も無かったかのように、だが確実に以前とは違った何かを感じていた。
カトン、と郵便受けに投函される音に手塚は席を立った。
玄関口から投函された幾つかの封筒の宛名を一つずつ確認していると、思わぬ差出人に手塚の手が止まる。
『乾貞治』
他の郵便物を居間のテーブルに置き、手塚は不審げに乾からの封筒の封を開けた。
昨日の電話では何も言ってなかった筈だが。
かさりと薄水色の便箋を開き、彼の少し右上がりの文字を追う。
「……なっ…!」
派手な音を立てて手塚は立ち上がった。彼の表情や便箋を持つ手は見る間に熱を失い、蒼白になっていった。
「…っ乾!!」
ぐしゃりと手紙を握り締め、手塚はコートを引っ掴んで外へと飛び出した。
まだ冬の明けていない冷気は容赦無く手塚の頬や手を打ち付けたが、一向に気にならなかった。



――…こうやって手塚に手紙を出すのって、初めてだね。



何故。



――……彼女が言った通り、君は俺を許してくれた。本当に有り難う。



電車の待ち時間に舌打ちした手塚はタクシーに乗り込み、縺れそうになる舌を動かして行き先を告げる。


――………リビングにおいてあるから、貰ってくれると有り難い。


「お客さん、着きましたよ」
「有り難う」
金を渡して慌ただしくタクシーを降りる。
「乾!」
インターフォンを鳴らすが返答は無い。


――…………彼女がね、俺と違って毛糸が少なく済むって笑っていたよ。手塚、細いから。


鍵は掛かっていなかった。
手塚はまだ見慣れぬ、だが見覚えのある廊下を進み、リビングの曇り硝子の勢い良く扉を開けた。








――御免ね。俺はもう手塚に逢う事は出来ない。








がらんとしたリビング。
テーブルも、その上においてあった花瓶も、壁に飾ってあった森の風景画も、全て無くなっていて。
「乾…!」
ただ、ぽつんと部屋の真ん中に置かれた紙袋が、いやにその存在を放っていた。
ふらふらと歩み寄り、その紙袋を開けてみる。


――俺が持ってても、仕方ないから。


そこには、一着の白いセーター。
乾が着ていたものと、同じデザインの。


――手塚には、白が似合うと思って。


「乾…!」
きつくそのセーターを抱きしめ、手塚はその場に崩れ落ちて項垂れる。
そのセーターに染み込んだ、微かな甘い香いと、彼の空気。
「どうしてお前は……!」
こんな物があれば期待してしまう。
これは何かの冗談で、またからかっているんだろうと。
きっと、自分の元に戻って来てくれるのだと。



――ねえ、手塚……。



だが、もう彼が戻ってくる事はない。
唇の端を少しだけ持ち上げた笑い方をする事も、大きな手で頬に触れてくる事も。
「乾…!」
低いその声が、名を呼ぶ事も。





――愛してる。





「追う事も、忘れる事すらお前はさせてくれないのか!」





――……ごめんね。





「どこまでも、ずるい…!」













(終)
*―*◇*―*
尻切れトンボで御免遊ばせ……しかも後半、会話が浮かばなくてかなり無理矢理こじつけました……(脱魂)
テニスのテの字も出てきませんでしたね…。そして何だろう、この話…。ありきたりでドボン。
これを書いている間、ずっとシャ乱●の「ズルイ女」が流れていました。この話のテーマソング決定。(爆)
そして書きながら、「こんな出来た女いねえよ、ケッ」と一人やさぐれていました。いやホント、こんな出来た女子が居たら是非会ってみたいです。むしろ嫁に欲しいくらい。(爆)
それにしても今回、乾さんの周りには物分かりの良い出来た方ばかりでした。と言っても二人しか居ないけど。あと息子。(爆)
本当はこれを書く前に違うネタが有ったんですがあれはあれで乾さんの頭がかなりイカレてたので没りました。タイトルまで決まってたのに。「うさぎの子」って。(爆)
何でこうも乾塚書こうとすると暗い悲恋ネタばかり浮かぶんでしょうね。
(2001/12/08/天月堂)

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