こんなに空は青いのに






愛してる。手塚国光と言う存在の全てを。
ごめんね。


たった一通の手紙と、一着のセーターを残して、彼は俺の前から姿を消した。



もう、十年も昔の事だ。





『手塚課長、お客様です』
電話越しに聞こえてきた受付嬢の声に、手塚の眉が微かに跳ね上がる。
「今日は来客予定は無かったはずだが?」
『それが、課長の御知り合いだと…中学生ぐらいの子なんですが…』
中学生、と聞いてますます手塚の顔は訝しげになる。この年で中学生の知人を持った覚えは無い。
「名は」
『乾国治様です』
「!!」
がたりと手塚は立ち上がる。その音に周りの社員達の視線が集まるがそれ所ではない。
「すぐに行く。ロビーに待たせておいてくれ」
がちゃんっと彼らしくも無い、荒々しい音を立てて受話器を置くと手塚は足早に部屋を出ていった。
(乾……)
手紙にあった通り、あれ以来手塚が乾の姿を見る事はなかった。
今更、という思いと、何故彼の息子がという思いが攻めぎ合いながら手塚はエレベーターを降りる。
「……ぁ……」
受付へ向かった手塚は、そこに佇む少年の姿に足を止めた。
「……い、ぬい……」
手塚に気付いた少年がこちらへ視線を向ける。
眼鏡こそ無いものの、柔らかげな目元。歳の割に高い身長。
まるで、中学時代に戻ったような錯覚が手塚を襲う。
多少の相違点はあるものの、それでも手塚が言葉を失う程度には、彼は父親に似ていた。
「…手塚、国光さんですね?」
ああ、声も良く似ている。
「……ああ」
泣きたい様な感覚に、手塚は視線を彷徨わせる。
「その…」
一瞬、彼は躊躇う様に視線を伏せたが、それでも決意したようにじっと手塚を見据えた。

「父さんに、逢って頂けませんか」

瞬間、手塚の表情が凍り付いた。
「乾、に…?」
何を今更、と言葉を紡ごうとしたけれど、放心したように立ち尽くしたまま、言葉が出ない。
「俺は、つい最近まで手塚さんの事を忘れていました」
彼と良く似た声で「手塚さん」と言われるのが妙にくすぐったい。
たった数回、片手に余る程度しかあった事が無かった彼の息子。
あの頃はまだ乾に手を引いて貰わないとすぐ駄々を捏ねていた。
一度だけ、頭を撫でてやった事があった。
きょとんとした後、とても嬉しそうに笑ったのを今でも覚えている。
「先日、父さんの部屋を掃除していたら写真や日記が出て来て…」
ああ、そう言えばあいつは部での写真とか、一枚一枚ちゃんとアルバムに挟んでいたな、と思い出す。
日記もちゃんと毎日書いていて、高校になってからも、卒業してからも書いていたな、とも思う。
「……乾は……」
「…父さんは俺がここに来ている事、知りません。知っていたら、止められたと思います」
けれど、どうしても逢ってやって欲しいと国治は視線を落した。
「これ、ウチの住所です」
差し出したメモを手塚はじっと見下ろす。




――御免ね。俺はもう手塚に逢う事は出来ない。




手紙の一文が蘇る。
彼は、自分に逢わない事を決めたのだ。
受け取るわけには行かない、とそれを突っぱねようとした手塚の手に国治は無理矢理そのメモを握らせる。
「お願いします。…父さんを、」
そこで言葉が詰り、国治は踵を返すと逃げるように社を駆け去っていった。


――お願いします。…父さんを、


その続きは、何だったんだろう。
乾に、ではなく乾を、と彼は言った。
「………」
くしゃりと形の歪んでしまったメモに書かれた住所をじっと見下ろす。
北海道だとか九州だとかそんなかけ離れた所でなく、同じ本州内だという事が、どこか可笑しかった。






「……この辺りの筈だが…」
悩みに悩んだ末、結局手塚は記された住所へとやってきていた。
さすがに北上しただけあって寒さが増した気がする。
それでもあと一ヶ月もすれば桜は咲くだろうか。冷たい空気の中、蕾を大きく膨らませた木々があちこちで見られた。
「……」
この数日間、ずっと悩んでいた。
仕事もろくに手が付かず、同僚や上司にこれでもかというほど心配された。
休養を薦める同僚の言葉に乗り、入社以来始めての有給休暇で手塚は乾の元へとやってきたのだ。
「手塚さん!」
聞き覚えのある声に呼ばれて手塚は振り返る。
「来てくれたんですね」
学校の帰りなのだろう、国治が駆け寄ってきた。
「………」
青学と同じ黒の詰襟。
せめて思い出さないようにとしていた乾との記憶が蘇って来る。
「…あの、無理をお願いして、すみません……」
手塚の沈黙を、ここへ来させた自分への怒りだと勘違いした国治が慌てて頭を下げる。
「いや……」
そこで始めて国治がスーパーの袋を下げているのに気が付いた。
白いビニル袋の口からは大根や魚の切り身のパックやらと食材が覗いており、その生活感を感じさせるビニル袋に、ちゃんとここに住んでいるのだな、と妙に納得してしまった。
「……どうしても、父さんに逢わせてあげたかったんです」
そう言ってくしゃりと国治の顔が泣きそうに歪む。
「お願いです、手塚さん…父さんを、」
そこで言葉は震えて詰まり、国治は俯いて袖で目元を拭った。
白いビニル袋がカサリと音を立てる。

「父さんを、幸せに、してあげて……」





「あれ、手塚じゃない。どうしたの?」
彼の部屋を訪れた自分への反応は、十年離れていたのを感じさせないほど平然としたものだった。
「肺を、患ったと聞いた…」
手塚の呟きに近いそれに、「国治だな」と寝たままの彼は小さく笑った。
敷布の上に投げ出された腕は、中学、高校とテニスをしていた体とは思えないほどに痩せこけている。
「国治が四歳の頃ね、分かったんだ」
会社の健康診断で引っかかって、ああやっぱり、とぼんやり思ったのを覚えているよと彼は笑う。
「母さんも同じ病気だった。祖父さんも」
そういう因子を持った家系らしいから、と。
「御免ね。突然消えて。俺、凄く痩せたでしょう。今は一日の殆どをこうやって過ごしてる。……妻が死んだ時ね、正直な話、これは手塚の元を離れろって言ってるんじゃあないだろうか、とも思ったんだ」
酷い人間だよね、と笑みを絶やさず彼は呟く。
「それでも俺は、手塚に俺の死ぬトコなんて、見せたくなかったから」
死、の言葉に手塚の顔がますます強張った。
そんな手塚の表情に、乾は御免ね、と微笑む。
「何とか騙し騙しでここまで来れたんだけど、そろそろちょっと無理かなって」
こんな姿見せたくなかったな、と彼は呟く。
「知らなければ良かったのに。国治のヤツ、あとでペナル茶だね」
「……何故、言ってくれなかった…」
おどけてそう言う乾から視線を逸らし唇を噛むと、不意に真顔になって手塚を見上げてきた。
「手塚が生きて苦しんでいるのに、俺だけ死んで楽になるなんて出来ないよ」
そう言う乾の顔をじっと見下ろした後、手塚は乾の頬をぺちんと軽く叩いた。
「お前は馬鹿だ。大馬鹿者だ。言っただろう。お前が俺の事を愛しているならそれで良いと。お前が病気だろうと何だろうと、最期まで、傍に居たいんだ」
「手塚……まだ俺の事、愛してくれているのかい」
「当たり前だっ…!」
きょとんとした声音に手塚の語調が荒くなる。
「恨まれているとばかり思ってたよ」
「そんな事、出来るわけないだろう…!」
手塚の怒鳴り声に、乾はそっか、と呟いてふんわりと笑った。
「嗚呼…俺、今凄く、幸せだよ。ここに来てから、国治と二人でやって来て、それで十分幸せだと思ってた。けど、やっぱり手塚が居ると全然違う。幸せなんて言葉で表すのが勿体無いくらい、凄く、幸せだよ」
「なら、始めから俺の元を去ったりするなっ」
「うん、でも、あれは俺なりのけじめだったから。…御免ね」
そう言って彼は微笑み、すっとその両の眼を閉じた。
「……乾…?」
「………」
目を閉じ、動かなくなった乾に手塚は慌ててその手を取る。
ざっと血の気が引くのが分かった。
「乾!!いぬ……」
はっとして手塚は言葉を止めた。
「………オイ、乾」
怒りを含んだ低い声音で呼ぶと、彼はくつくつと笑い出した。
「〜〜〜!お前というヤツは!!」
掴んだままだった彼の手をばしんっと敷布に叩き落す。
「あっはは、御免、御免、手塚」
「御免で済まん!」
それでも彼は笑うのを止めず、手塚は憤慨する。
「あー笑った笑った。いや、一度はやってみたかったんだよね」
ゆっくりと起き上がりながら、彼はあっけらかんとそう言った。
「質が悪い!」
そう怒鳴る手塚の腕を引き、乾は手塚を柔らかく抱きしめた。
「大丈夫だよ。こんな冗談言う気力が残っているくらいだ。早々簡単には死なないよ」
「………」
「手塚、来てくれて、本当に有り難う」
先程までの冗談めいた笑いは失せ、彼の顔には優しげな、手塚を慰めるような微笑が浮かんでいた。
「愛してる」






その夜、泊まっていたホテルに国治から電話が入った。

『父さんが、』

取り落としそうになる受話器を握りなおし、手塚は笑いたいような衝動に駆られた。
嗚呼、あの時と同じだ。
十年前、お前が俺の元から去って行ってしまった時と同じ。
あの時も、お前との蟠りが解けて…。


――御免ね。俺はもう手塚に逢う事は出来ない。


これから、また一緒に…そう思った矢先の事で。
『…あの、手塚さん?』
彼に良く似た声が、余計滑稽に感じて手塚はその場にがくりと膝を付く。
「は、は…あははっ……」
別に何も可笑しくなどないのに、むしろ泣き叫んでしまいたいくらいなのに、己の咽喉の奥から溢れてくるのは、乾いた笑いばかりで。
『手塚さん?!』
「あっはははは…は……っ……」






何故、自分は生きているのだろう。






十年前と同じだ。
彼が居なくなったら、きっと自分は死んでしまう。
そう思っていたのに、実際は十年も生きて過ごして来た。
彼が死んでしまったら、きっと自分は死んでしまう。
そう思っていたのに、今自分はこうやって生きている。



嗚呼。



「乾……!!」
追う事も、忘れる事すらさせてくれなかった乾。
それでもお前を愛して、愛して、愛していて。
憎む事も、恨む事も出来ず、ただ毎日、ひたすらお前を想うしか出来ない日々を強いておいて。

お前は、連れて逝っても、くれないのか。











また、置き去りにされた。




「お前は、最期まで俺を置いて逝くんだな…」










(了)
*―*◇*―*
何だかんだ言いつつも、結局書いてしまいました。「小さなガラスの空」の約十年後です。手塚も乾も三十代か…(遠い目)
はっきり言って難産でした。投げ出しまくり。何度ボツにしてやろうかと思った事か。矛盾点が消えてくれなくて結局「もう知るか!」と投げ出す始末。(爆)
それにしてもこのシリーズ、最初から最後まで悲恋モノに近い物となってしまいましたね。乾さんが逃げる逃げる。オイこらちょい待てって感じですね、私が。(爆)乾さんが死ぬのは「小さな空の下で」を書いた時から決まってました。
まだ言うならセーターの話を出すのを忘れてました、というか面倒でした。セーターの事は、この話の後に手塚が自宅であれこれと、というシーンが有ったんですが、話をここで終わらせたので自動的にセーターに関しての事は削除されてしまいました。あらあら。(爆)
それにしても乾さん、何の病気なんでしょうね。(爆)感じからして胸腺腫みたいなモンでしょうか?それか急性骨髄性白血病とか。あ、これはリンパ系か。肺ガン?いや、この話の乾さん、煙草吸わないし職場もそんな伏流煙溢れるような場所ではないだろうし…。ま、パロに良くある都合の良い病気という事でv(最悪)
とにかく、一段落着いたので漸く他の作品に取り組めます。リョ受やら浅瀬やらあれやこれやと書きたいのが溜まっているのでさっさと解消していきたいと思います。(苦笑)
(2001/12/15/高槻桂)

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