アルジュエンド

 

ふらりとまるで操られるかのようにジュードの手がアルヴィンへと伸びた。
アルヴィンはにっと笑うと未だ迷うような素振りを見せるその手を掴みとり、引き寄せる。
突然引っ張られたジュードは段差のせいでぽすんとアルヴィンの腹部に顔を埋める事となった。
「アルヴィ……」
「ジュード君、捕まえた」
酷く優しげなその声と抱き寄せる腕に、ジュードは逆に不安を感じた。
本当にこれで良かったのか。その手を取ってしまって良かったのか。
しかしそんな不安を見抜いた様にアルヴィンが囁く。
「大丈夫だ。俺が絶対に幸せにしてみせるから」
「……うん」
「ジュード、愛してる」
その言葉にアルヴィンを見上げると、彼は穏やかに笑ってジュードを見下ろしていた。
「……僕も……アルヴィンが、好きだよ」
迷いながらの言葉に、けれどアルヴィンは心底嬉しそうに破顔した。
アルヴィンはジュードの手の甲に唇を寄せ、その滑らかな感触を楽しみながらどっちがいい?と問うた。
「このまま逃げるのと、旦那様に宣言するのと」
「それは……」
ジュードはどうしようと思案した。ガイアスと顔を合わせるのは怖い。だが黙って逃げだして両親に迷惑を掛けたくない。
「……旦那様には、全てを話した方が良いと思う」
ジュードの言葉に、アルヴィンは了解、と先程とはまた違った、挑戦的な笑みを浮かべた。
「それじゃあ、旦那様にご報告といきますか」
手を引いて階段を上がっていくアルヴィンの後に続きながら、本当にこれでいいのだろうかともう一度自らに問いかける。
しかしその答えは何処にもなく。ジュードは覚悟が決まらないまま主の執務室の前に立った。
フットマンを連れて現れたジュードに、ガイアスは訝しげな顔をした。
「旦那様にご報告させていただきます」
ガイアスと視線を合わす事が出来ず俯いてしまったジュードの傍らで、アルヴィンが滔々と喋りはじめた。
「イスラの検査によれば、ジュードは確かに身籠っているようです」
ただ、と一旦言葉を切り、勿体付けるようにして告げた。
「父親が旦那様では無い可能性がございます」
アルヴィンの言葉にガイアスが眉根を寄せる。
「真か、ジュード」
ガイアスの問いに、びくりと体を震わせたジュードは俯いたまま小さな声でそれを肯定した。
「胎の子は貴様の子であると言いたいのか」
きつい眼差しでガイアスがアルヴィンを見る。しかしアルヴィンはその視線を平然と受け止めながらそうです、と頷いた。
「しかしそれは生まれてみなければわからん事だろう」
「ですが不祥事を起こしたことに変わりはありません。故に、責任を取って私とジュードは辞めさせていただきます」
ガイアスは悪びれる様子もなくそう告げるアルヴィンからジュードへと視線を移す。
「ジュード」
「っ……はい」
「面を上げよ」
その言葉に恐る恐るジュードが顔を上げる。その蜂蜜色の瞳には困惑と怯えが入り混じって揺れていた。
「お前はそれで良いのか」
低い声に、ジュードは戸惑ったようにガイアスを見詰め、そして傍らのアルヴィンを見上げた。
「僕……」
ガイアスもアルヴィンも、じっとジュードの答えを待っている。
ジュードは二人から視線を逸らして再び俯くと、ぎゅっと手を握りしめて告げた。
「……お役にたてなくて、申し訳ございません」
「それが、お前の答えなのだな」
「……はい」
俯いたままのジュードをガイアスはじっと見つめていたが、やがて良かろう、と視線を伏せた。
「現時点を以てお前たち二人を解雇する」
何処へなりと行くが良い。そう低く告げるガイアスに、アルヴィンは優雅に一礼をして傍らのジュードを見下ろした。
「ジュード」
アルヴィンの声に促されるようにジュードも深く頭を下げた。
「……お世話になりました」
そうして二人が出ていくのを無言で見送ったガイアスは、深い溜息を吐いて背凭れに身を預けた。
「宜しいのですか」
ユリウスの問いに、構わん、とガイアスは疲れたように告げる。
ジュードは己がどうしたいのか、決めかねているようだった。自分の意思と言うよりはアルヴィンに流されているようにも見えた。
だが、流されているだけだったとしてもそれを選んだのはジュードだ。
「……」
ガイアスは執務机の上に重ねられたいくつもの書類の中から一枚の紙を取り出す。
「これはもう、不要となってしまったな」
婚姻届と書かれたそれをガイアスは真っ二つに破り、裂けたそれを何度か繰り返して破った。
初めは金で結ばれた関係だった。それ以上は必要ないと思っていた。
しかしジュードの控えめな笑顔は、気付けばガイアスのささやかな癒しとなっていた。
生涯妻を娶る事は無いだろうと思っていた自分が、初めて手に入れたいと思った少女。
義務感と愛情と、その間で揺れ動いていた歪んだ真珠。いつでも手が届くのだと思いあがっていた。
ガイアスは自嘲気味に笑うと、紙屑となったそれを執務机の上に散らした。

 


ジュードとアルヴィンはその日の内に屋敷を出た。
レイア達には何も告げなかった。何を言えばいいのか、わからなかったのだ。
厚手の外套を羽織ったジュードはアルヴィンに連れられて辻馬車に揺られた。
丸一日かけてラコルム海停へ行き、そこから船に乗ってエレンピオス国に向かった。
そこで初めてジュードはアルヴィンがエレンピオスのトリグラフ地方前領主の息子なのだと知った。
初めて踏んだ異国の地の見慣れない街並みに、ジュードは物珍しげに視線を彷徨わせた。
そこでまた辻馬車に乗り、郊外の墓地に連れて行かれたジュードは不思議そうにアルヴィンを見上げた。
広い墓地の中でも一際大きな墓碑の前に立つと、俺の両親の墓だよ、とアルヴィンは小さく笑った。
アルヴィンの母親もまた、一年ほど前に父親と同じ病で亡くなったのだと言う。
父さん、母さん、ただいま。そう呟いたアルヴィンの手を、ジュードはそっと握った。
墓地を出ると今度はアルヴィンの従兄の家だという屋敷に連れて行かれた。
バランと名乗ったその青年は、にこやかな笑みを浮かべて二人を歓迎した。
ジュードとアルヴィンは数日の間、バランの屋敷に世話になった。
だがいつまでもバランの世話になっているわけにもいかない。
ジュードがそう思っていたある日、アルヴィンはジュードを屋敷に残して一人で出かけて行った。
そして夕方になって帰って来たアルヴィンはとても上機嫌だった。何か良い事があったの、と聞いても、まあね、としか答えてくれなかった。
何だろう、と思いながらも然して気にせずジュードは翌日を迎えた。
バランと三人で朝食を取っていると、執事がバランに何事か耳打ちした。
それにバランは目を見開き、アルヴィンを見た。
「……アルフレド、昨日は何処へ行っていたんだい」
アルヴィンはブリオッシュをちぎって口に放り込みながらん?と小首を傾げた。
「ジランドール叔父さんにちょっと挨拶をな」
「……そのジランドール叔父さんが亡くなったそうだよ」
バランの言葉にジュードは目を見開く。ジランドールといえばアルヴィンの叔父であり、現領主である男の筈だ。
しかしアルヴィンは驚いた様子もなくへえ、と言った。
「今朝執事が部屋に行ったら亡くなっていたそうだ」
「叔父さん、どっか悪かったのか?」
「いや、至って健康だった。アルフレド、昨日叔父さんは何か言ってなかったか」
「別に?相変わらずの嫌味を言われただけだぜ」
バランはそんなアルヴィンをじっと見ていたが、やがて溜息を吐くとそうか、と言った。
「……それが、お前の覚悟なんだな」
その言葉の意味が分からず首を傾げるジュードを尻目に、アルヴィンは薄らと笑った。
その後、ジュードの周りは慌ただしくなった。正確には、アルヴィンの周りが、だったが。
領主であったジランドールは後継者を残さぬまま亡くなった。しかしそこに現れたのが前領主の息子であるアルヴィンだ。
元々ジランドールはアルヴィンが成人するまでの暫定的な領主であると世間には知られていた。
しかしそのアルヴィンが出奔してしまったためにそのままその座についているのだと、そういう認識だった。
アルヴィンが戻ってきたのであればジランドールの死は問題ではない。周りはそう考え、アルヴィンを領主の座に担ぎ上げた。
そしてアルヴィンはトリグラフ地方の新たな領主となり、ジュードはその妻として領主邸に住むことになった。
時折バランが何か言いたげにしていたが、その理由をジュードは知らぬままアルヴィンの傍らに在った。
やがてジュードは一人の女の子を産んだ。濃いめの茶髪に鳶色の眼を持った子だった。
産まれてきた子はアルヴィンの子だった。それにどこかほっとしながらジュードは日々を過ごしていた。
そんなある日、ジュードがアルヴィンの執務室を訪れると、そこにアルヴィンの姿はなかった。
しかしジュードは構わず壁際に向かうと、本棚から数冊の本を手に取った。
ジランドールは読書家だったらしく、多数の本を揃えていた。書庫は勿論の事、執務室にも多数の本を置いていた。
アルヴィンは片づけるのが面倒だからとそれらをそのままにしており、読書が好きなジュードはいつもそれを借り出しては読んでいた。
メイドにあの本を取ってきて、と一言命令すれば済む事なのだが、命令し慣れないジュードは出来得る限り自分の事は自分でやりたがった。
エレンピオスの歴史について書かれた本を手に取ったジュードは、ふと飾り棚の上に置かれた小瓶に目を留める。
細やかな細工のされた香水瓶だった。アルヴィンは軽く香水をつけていたが、いつも使っている瓶とは違うデザインのそれにジュードは手を伸ばした。
何気なくその蓋を開け、鼻を寄せたジュードはえ、と思う。
中に入っていた液体は、香水ではなかった。
微かに漂う木の実のような匂い。薬学を学んでいた事もあるジュードには、それが何なのかわかってしまった。
「メディシニア……」
リーゼ・マクシアで密かに流通している毒薬だ。
ほんの少量であれば薬ともなるので、ジュードの実家であるマティス診療所にもそれはあった。
量を調節すれば効き目の表れる時間も調整できると言われている毒薬。
それが何故こんな所に。ジュードが困惑していると、馬車がやってくる音が聞こえた。アルヴィンが帰って来たのだ。
ジュードはその小瓶をそっと手で包み込むと、足早に執務室を出た。
その翌日、ジュードはバランの元を訪れていた。
アルヴィンの執務室に毒薬があった事を打ち明けると、バランはやっぱりね、と溜息を吐いた。
「ジュード君には辛いかもしれないけれど、知りたい?」
その問いにジュードが頷くと、仕方ない、とバランが肩を竦めた。
「アルフレドはそれを叔父さんに使ったんだろう。これは予想でしかないけれど、限りなく真実に近い予想だと思っている」
「どうして、そんな事を……」
愕然とするジュードに、バランは君の為だろうね、と告げた。
「アルフレドが手っ取り早く地位と財力を手に入れるには、叔父さんを亡き者にしてしまうのが一番だ」
君に何一つ不自由のない生活をさせたかったんだろう。そう言うバランに、ジュードは震える手で口元を覆った。
「そんなの……」
「アルフレドを責めないでやってほしい。あいつは昔から不器用だった。そういう方法でしか、君への愛を示せれないんだ」
「……」
ジュードは俯いたまま、バランの言葉を聞いていた。

 


アルヴィンは焦っていた。メディシニアの瓶が無いのだ。
一見しただけではただの香水に見えるだろうし、香水ではないと気付いたとしてもそれが何なのか、普通ならば気付かれる事は無いだろう。そう思って油断していた。
だが誰が持ち去ったのだ。アルヴィンが執務室の中でうろうろとしていると、扉が開いてジュードが入ってきた。
「ジュー……」
愛しい妻の姿にぱっと喜色を浮かべかけたアルヴィンは、その手に探していた香水瓶が握られている事に気付いて表情を凍らせた。
ジュードは医者の娘だ。自身もかつては医者になるための勉強をしていたと言っていた。
気付かれたのだとアルヴィンは即座に理解した。
それを肯定するように、ジュードはどこか思いつめたような表情をしている。
「……これ、メディシニアだよね」
ジュードの問いに、アルヴィンは気まずげに視線を逸らす。
「どうして、こんなものがここにあるの」
「……ア・ジュールを出る前に、シャン・ドゥに寄っただろ。その時にイスラから貰ったんだ」
「これで、ジランドールさんを殺したの?」
嘘は許さないと言わんばかりのジュードの視線に、アルヴィンは苦々しくそうだ、と告げた。
「……ねえ、アルヴィン。僕の事、愛してる?」
「?当たり前だろ。何よりおたくを愛してる。だから俺は……」
「アルヴィン」
アルヴィンの言葉を遮る様にその名を呼び、ジュードは悲しげな笑みを浮かべた。
「アルヴィンが僕の為に罪を犯したのならば、その報いは僕が受けないとダメだよね」
ジュードは不意に手にしていた小瓶の蓋を取ると、その中身を一気に呷った。
「ジュード!」
アルヴィンが駆け寄ってジュードの体を抱える。そしてその口を指で無理矢理こじ開けると指を喉に突っ込んだ。
「ぐ……!」
ジュードが嘔吐いて胃の中身を吐き出す。吐瀉物が床を汚したが、それでもアルヴィンは吐かせるのを止めなかった。
「ジュード、ジュード!」
「げほっ、げほっ」
吐く物が無くなって、ジュードが荒い息を繰り返す。
「……ごめんね、アルヴィン……」
あの時、アルヴィンが手を差し伸べてきた時、その手を取らなければこんな事にはならなかったのだろうか。
僕の選択は、間違っていたのかな。薄れていく意識の中でジュードは思う。
でも、それでも僕はアルヴィンと一緒になれて、幸せだったんだ。
「ジュード、しっかりしろ、ジュード!」
ああ、アルヴィン、アルヴィン。
「……ぼくも、あいしてる、よ……」
そこでジュードの意識は闇に塗り潰された。

 


ジュードは三日三晩意識を失ったままだった。
アルヴィンがすぐ吐かせたとはいえ、致死量を遥かに超えた量を一度に呷ったのだ。多少の毒は吸収してしまっていたのだ。
そして四日目の朝。ずっとジュードに付き添っていたアルヴィンは椅子に座ったままうとうととしていた。
しかしすぐにはっとして目を覚ます。アルヴィンはジュードの手を握り、祈る様に自らの額に押し付けた。
どれくらいの間そうしていただろう。不意にぴくりとその指が動いてアルヴィンは顔を上げた。
「……ぅ……」
「ジュード!」
ジュードの瞼が震え、蜂蜜色の瞳が姿を現す。
「ジュード、ジュード!」
アルヴィンが呼びかけると、ジュードのぼんやりとした目がアルヴィンに向けられた。
「ジュード、良かった……今、医者を呼んでくる」
そう言って椅子から立ち上がろうとしたアルヴィンは、ジュードが小さく呟いたのを確かに聞いた。
「あなた、だあれ」
「……ジュード?」
「ジュードって、ぼくのこと?」
アルヴィンは信じられないものを見るかのような目でジュードを見下ろし、俺がわからないのか、と震える声で聞いた。
ジュードは考え込む素振りを見せたが、やはりわからないと言う様に頷いた。
「うん、だあれ?」
アルヴィンはふらりと一歩下がると、足音荒く部屋を出て行った。
控えていた医者は、一通りの診察を終えると全生活史健忘のようです、とアルヴィンに告げた。
枕を背に宛がって身を起こしたジュードは、きょとりとして二人を見ている。
「……記憶は戻るのか」
アルヴィンの問いに、医者はわかりません、と首を横に振った。
「催眠療法で想起を促す方法はありますが、その効き目も人それぞれです」
「……そうか。下がっていい」
医者は一礼すると静かに退室していった。
じっとアルヴィンを見詰める蜂蜜色を見詰め返し、アルヴィンはシーツの上に置かれたその手に己の手を重ねた。
「……おたくの名前はジュードだ。ジュード・M・スヴェント」
ジュード、とジュードは教えられた名を小さく繰り返す。
「じゃあ、あなたは?」
愛らしく小首を傾げる仕草に、アルヴィンは泣きそうな笑みを浮かべて告げた。
「……俺の名はアルフレド。アルフレド・ヴィント・スヴェント」
「スヴェント……同じ……あなたは僕のお兄さん?」
無邪気にそう問いかけてくるジュードに、アルヴィンは笑みを浮かべたまま緩やかに首を横に振った。
大切にしていたバロックの卵は割れてしまった。
けれど、その中から生まれたのは。
「俺は、ジュードを誰より愛している、ただの男だよ」
歪んでいるけれど何よりも美しい、一粒の愛だった。

 

 

 


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