ジュードが自分の名前すら忘れてから、一年が過ぎた。
催眠療法は何度も試したし、彼女の実家のあるル・ロンドにも連れて行った。
ディラックには殴られたが、それでも少しでもジュードの記憶が戻るなら、と思っていた。
しかし、それでもジュードは何も思い出さなかった。
もう、このままジュードの記憶は一生戻らないのではないか。いや、寧ろ思い出さない方が良いのではないか。
一年が経つ頃にはアルヴィンはそう思うようになっていた。
思い出したところで、ジュードは苦しむだけだ。ならばいっそ、このままの方が良いのでは。
でも、とアルヴィンは窓辺に立ち、中庭を見下ろす。
様々な薔薇の咲き乱れる庭先で、ジュードが紅茶を飲んでいた。
ジュードは日の光を好み、晴れた昼下がりにはああして中庭のテーブルでティータイムを過ごす。
ここからでもジュードが穏やかな表情をしているのがわかる。
ふとジュードが視線に気付いたのか、アルヴィンの立つ窓を見上げた。
アルヴィンの姿を認めると、ジュードは笑って手を振ってきた。
その唇が、アルフレド、と動くのを見下ろしながら、アルヴィンは手を振りかえして窓辺を離れた。
記憶を失ったジュードは、アルヴィンの事をアルフレドと呼ぶ。
アルヴィンにとって、それが何よりも大きな違和感だった。
見上げてくる視線も、笑顔も、何もかも変わらないのに、あの優しい声がアルヴィン、と呼ぶ事は恐らくもう無い。
アルヴィンと呼んで欲しいのだと一言いえばジュードはそう呼んでくれるだろう。
けれどそれでは意味がないのだ。アルヴィンとして出会ったあの頃をジュードが覚えていないのであれば、その名には何の意味もない。
アルヴィンはソファにどっかと座り、天井を見上げた。
この一年、アルヴィンはジュードにろくに触れていない。
ベッドを共にする事は勿論、口付ける事も、抱きしめる事すら出来ないでいる。
ジュードはアルヴィンを夫だと認識はしているようだったが、それはそう教えられたからそう思っているだけだ。
アルヴィンを見上げるジュードの眼差しは、兄を尊敬する妹のような、そんな色を湛えていた。
「……」
アルヴィンは一つ深い溜息を吐く。どうすれば良いのだろう。
しかしいくら考えても答えは出ず、アルヴィンはもう一つ深い溜息を吐いて目を閉じた。

 


夫は手を振りかえすと窓から離れてしまい、ジュードは振っていた手を下ろして紅茶を啜った。
ジュードは一年前、頭を強く打ったのだと、だから記憶が無いのだと説明されていた。
己の名前すらわからないジュードに、名を教えてくれたのはジュードの夫だという男だった。
誰かもわからない男が夫だという事実に戸惑いはしたものの、優しく接してくる男にジュードは次第に心を開いていった。
男は、アルフレドと名乗った。だからそう呼んだのだが、呼ばれたアルフレドは少しだけ寂しそうな顔をした。
アルフレドが何故そんな切なげな表情をするのか、ジュードにはわからない。
彼はジュードの記憶を取り戻そうと必死だった。名医がいると聞けば呼び寄せ、催眠療法も何度も試した。
ジュードの故郷だというル・ロンドにも足を運んだ。両親だという夫婦に会い、幼馴染だと言う青年たちとも会ったが、ジュードには何の変化も訪れなかった。
父親はあんな男とは別れて帰ってきなさい、とジュードに言った。こんな事になるのならもっと強く反対すれば良かった、とも。
その言葉で、ジュードは自分とアルフレドとの結婚が決して祝福されたものでは無かったのだと察した。
どういう経緯で出会い、結婚に至ったのか。アルフレドは余り語ろうとしない。
アルフレドは以前とある屋敷で働いており、そこで出会ったのだ、という事くらいしかジュードには知らされていなかった。
それでも、ジュードは父親の言葉に首を横に振った。漠然とした感情ではあったがもっとアルフレドの傍にいたいと、そう思ったのだ。
けれどジュードにはずっと気になっている事があった。
夫婦であり、産んだ記憶はないが娘だという赤子までいるのであれば、ジュードはアルフレドと夜を共にしていたという事だ。
だが、アルフレドがジュードにそういった事を求めてくる事は無い。
口付けの一つも無かったので、ジュードはアルフレドと自分は恋愛の末に結婚したのではないのかしら、とすら思った。
もしかしたら自分たちは政略結婚か何かで、あまり仲が良くなかったのでは。そうとも思った。
しかしジュードにとっての初めての朝、目を覚ましたジュードに向けられたアルフレドの、酷く安堵した表情が忘れられない。
強く握りしめられていた手の温もりも、覚えている。
どうでも良い相手ならば、あんな顔はしないはずだ。それに、あの日アルフレドはジュードに愛していると囁いた。
だったら何故アルフレドは何もしてこないのだろう。それがずっと疑問だった。
だがこの日、ジュードはふと思い至った。
もしかして、アルフレドにとって今のジュードは仮初のものであり、本当のジュードではない、とそういう事なのだろうか。
ジュードが記憶を取り戻せば、アルフレドはあの何か言いたげで悲しげな微笑みではなく、心からの笑みを見せてくれるのだろうか。
それは、つまり。
アルフレドが愛しているのは記憶を失う前のジュードであり、今のジュードではないのだ。
「……」
ジュードは静かにティーカップを置くと、俯いて膝の上でぎゅっと拳を握った。

 


その夜、アルヴィンが寝室にあるソファで持ち込んだ書類に目を通していると、静かに扉が開いてジュードが入ってきた。
「どうした、ジュード」
夜着を纏ったジュードは、アルヴィンの前までやってくるとあのね、と言い難そうに告げた。
「僕、アルフレドの奥さんなのに、ずっと奥さんとしての役目を果たして無いなって思って……」
恥ずかしそうに頬を染め、もじもじと体を揺らしながらそう言うジュードに、アルヴィンは僅かに目を見開いた。
ジュードが何を言いたいのか、アルヴィンにはすぐに分かった。
だが。
「……」
アルヴィンはふっと表情を和らげると良いんだ、と首を横に振った。
「そんな気を遣わなくていい」
「でも……」
「大丈夫だから、おたくはゆっくり休め」
「……」
しかしアルヴィンの言葉にジュードは俯いてしまう。
「ジュード?」
「……僕に記憶がないから、何もしないの?」
低く吐き出されたその声に、アルヴィンは目を見張った。
ジュードがばっと顔を上げる。その表情は今にも泣きだしそうに歪んでいた。
「僕が偽物だから、そんな顔をするの?」
「ジュード?どうしたんだ」
アルヴィンが書類を置いて立ち上がる。しかし伸ばした手はジュードによって打ち払われた。
「あなたが愛しているのは記憶のあるジュードであって、僕じゃない!」
「ジュード」
「僕はあなたが愛したジュードじゃないんだから、もう、優しくなんてしないで!」
「ジュード、落ち着け、な?」
「僕だって、あなたの事が好きなのに!あなたが見ているのは僕であって僕じゃない!」
ぼろぼろと涙を零して睨み付けてくるジュードを、アルヴィンは半ば呆然として見つめていた。
ジュードがこんな風に感情をむき出しにするのは初めてだった。
自分の名前がわからなくても、それまでの記憶が全く無くてもジュードは取り乱さなかった。
現実を受け入れ、それでも穏やかに笑っていたから、アルヴィンはいつの間にか自分の事しか考えてなかった。
「ジュード……」
「僕を見てよ!今あなたの隣にいるのは僕なんだよ!僕を愛してよぉ……!」
その零れ落ちる涙で漸く気付いた。ジュードが記憶を失って悲しかったのは、寂しかったのは、自分だけではなかったのだと。
ジュード自身もまた、見えない所でずっと苦しんでいたのだ。
子供の様に声を上げて泣くジュードを、アルヴィンはそっと抱きしめる。
「悪い……ずっと独りにして、ごめんな」
「もうやだ、ル・ロンドに帰して……!」
アルヴィンの胸元にしがみ付いて泣くジュードを、アルヴィンは抱きしめる事しか出来ない。
「ジュード、ジュード……ごめんな」
その髪を優しく撫で続けると、次第にジュードは落ち着いて行った。
「それでも俺は、おたくを手放すなんて出来ないんだ……」
「……」
「記憶が戻らなくても、おたくが俺の愛したジュードである事に変わりはないよ」
アルヴィンはずっと逃げていたのだ。ジュードがもう記憶を取り戻さないのではないかという現実と、それでもアルヴィンを慕ってくるその笑顔から。
「アルフレド……」
もうジュードがアルヴィンと呼ぶ事は無い。それを、受け入れよう。
「ジュード……」
アルヴィンは僅かに体を離すとその涙で濡れた瞳を見下ろす。
「もう一度、俺の妻になってくれるか……?」
その問い掛けに、ジュードは微かに目を見開いた後、くしゃりと顔を歪ませてまた泣きそうな表情を浮かべた。
「……僕で、いいの……?」
「おたくが、良いんだ。どうか、俺の妻になってくれ」
アルヴィンの言葉にジュードは再び涙をぽろりと一粒零すと、嬉しそうに笑って小さく頷いた。
「はい……!」
アルヴィンは顔を寄せ、ジュードの唇にそっと口付ける。
今度こそ、ジュードを幸せにしよう。もう二度と、ジュードが泣かないで済む様に。
今ここに在るジュードを、愛していこう。
アルヴィンはジュードを抱く腕に力を込めた。

 


ふ、と意識が浮上してアルヴィンは目を覚ました。
そこは、自分のベッドの中。腕の中ではジュードが穏やかな寝顔を覗かせている。
少し、無理をさせてしまった。アルヴィンは少しだけ反省する。
久方ぶりのジュードの体に、ついがっついてしまった。
「……ん……」
腕の中でジュードが微かに身じろぎしてその瞼を震わせた。
ゆっくりとその蜂蜜色の瞳が姿を現し、アルヴィンを見上げた。
「……おはよう、ジュード」
微笑みかけると、まるでジュードは思わぬ人物に遭遇したと言う様にきょとんとしてアルヴィンを見上げた。
「……アルヴィン?」
「!」
小さく呟かれたそれは、この一年、聞く事の無かった呼び名で。
アルヴィンが驚きに目を見張っていると、あれ、とジュードは小首を傾げる。
「どうして僕、アルヴィンと一緒に寝てるの?」
ここ、どこ?そう問いかけてくるジュードに、アルヴィンは震える声で問う。
「……ジュード、昨日の事、覚えているか」
それにジュードは考え込み、ええと、と答えた。
「昨日はお屋敷を出て、シャン・ドゥに泊まったんだよね?でもここ、宿屋じゃないよね?」
アルヴィンはがばっと身を起こすと、メイドを呼び出した。
やってきたメイドに医者を呼べ、と告げてぽかんとしているジュードを見下ろす。
「ジュード」
「どうしたの?」
状況が把握できなくてきょとんとしたまま身を起こしたジュードを、アルヴィンはきつく抱き寄せる。
「ジュード、ジュード……!」
「苦しいよ、アルヴィン」
怖い夢でも見たの?優しくアルヴィンを抱き返してくる腕に、アルヴィンは堪えきれず涙を零した。
やがてやって来た医者の診察を受けたジュードは、自分が記憶を失っていた事を知った。
最初は戸惑っていたが、だが傍らにアルヴィンがいた事で落ち着きを取り戻したのだろう、記憶を失った時と同じ様に静かにそれを受け入れていた。
ジュードの甦った記憶がガイアスの屋敷を出た日までしか無いのだと知った時、アルヴィンは丁度良いじゃないか、と囁く声を聴いた。
今のジュードはそれまでの記憶はあるが、それからの記憶、つまりアルヴィンがジランドールを暗殺した記憶は失われたままだ。
ジュードはもう苦しむ事は無いのだ。万々歳じゃないか。
ただ、ジュードは記憶を失っていた間の記憶もまた失っていた。
ずっとジュードの記憶が戻る事を望んでいた。願っていた。祈っていた。それが漸く叶ったのだ。
けれど、僕を愛してと泣き叫んだあの少女はもういない。
いや、違う。アルヴィンは首を横に振る。あの少女もまた、ジュードなのだ。
ジュードと記憶を失っていたジュード、どちらも愛しい少女に変わりはない。
アルヴィンは傍らのジュードの頬にそっと口付けると、愛してる、と囁いてその名を呼んだ。
嬉しそうに笑うジュードに、アルヴィンもまた、笑っていた。

 


ル・ロンド地方の領主邸の門を一人の少年が潜った。
今年十二の歳を迎えた少年は、今日からこの屋敷でペイジ・ボーイとして働く事になっていた。
フットマンの後に続いて使用人用の出入り口から中へと入り、部屋へと案内される。
そこで用意されていた制服に着替えると、旦那様にご挨拶に行くように、と言われて少年はやっぱりな、と思う。
普通ならば雇われたからと言ってもわざわざ主人の元へ挨拶に行く事は無い。
これが使用人に無関心な主だと、辞めるまでまともに顔を合わせた事も無い、なんて事もよくあると聞く。ペイジ・ボーイという下っ端なら尚更だ。
それでも呼ばれたのは、母親のおかげだと少年は理解していた。
このル・ロンド地方を治める領主は二年前に代変わりした。後を継いだのは双子の兄弟で、二人共が領主という異例のツートップ体制を取っている。
彼らは母より二つ年上だと聞いている。ならば今年で三十七か。
彼らは母の幼馴染であり、今でも交流を持っていた。その為に少年はこの屋敷で行儀見習いとして奉公に出されたのだ。
フットマンに案内されて執務室へと向かう。入室すると、二つ並んだ執務机にぞれぞれ兄と弟が座っていた。
しかめっ面をした深紅の長い髪の男が兄で、その隣の興味深そうに目を輝かせている鮮やかな焔色の短い髪の男が弟だ。
その背後にはヴァレットだろう、金髪碧眼に柔和な眼差しをした男が控えていた。
「お前がジュードの息子か」
兄の言葉に、はい、と少年は頭を下げる。
「スヴェント家が第六子、エルバート・Q・スヴェントです」
すると今度は弟の方が口を開いた。
「ジュードは元気にしているか?」
「はい、今日に関しましてもついて行きたいと駄々を捏ねる程には元気です」
エルバートの応えに、弟が喉を鳴らして笑う。
「連れてこればよかったのに。ジュードの焼いたアップルパイが久し振りに食いたいしな」
「母にはそのように伝えておきます」
それから幾つか言葉を交わし、兄の方が職務に励む様にと締めくくってエルバートは退室した。
何もかもが初めての事だらけのエルバートにとって、一日はとても短く感じた。
あっという間に夜になり、エルバートはベッドに潜ると本を下敷きにして手紙を認めた。
領主兄弟と話した事、仕事の事、同室のペイジ達の事。あっという間に便箋は文字で埋まっていく。
日記の様になってしまったそれを、でもまあいいかと折りたたんで封筒に入れた。
この手紙をきっと父と母はソファに並んで座って読むのだろう。
きっと母が幸せそうに笑い、それに父もまた穏やかに笑うのだ。
灯り消すよ、と同室のペイジの声にどうぞ、と返してエルバートは筆記用具などを片づけた。
ふっと室内が暗闇に包まれる。エルバートは目を閉じておやすみなさい、父様、母様、と心の中で囁いた。
この手紙が届いたら、きっと母は父を連れてこの館を訪れるだろう。
その日までに、少しでも成長しておかないと。エルバートはそう思いながら眠りに落ちていく。
きっと夢の中でも、父と母がエルバートを迎えてくれる。そう、確信していた。

 

 


戻る