ガイジュエンド

 

差し出された手を見詰めていたジュードは、やがてふるふると首を横に振った。
「全てを旦那様に話すよ」
アルヴィンが意外なものを見るような目でジュードを見下ろす。
「でもアルヴィンの名前は言わないから、安心して」
微かに笑みを浮かべたジュードに、アルヴィンは差し出した手を下ろして本当にそれでいいのか、と問う。
「うん。きっと解雇されるし、親には怒られると思う。でも、それでも旦那様を裏切り続けるよりはずっと良い」
「ジュード……」
どこか呆然とジュードを見下ろすアルヴィンに、ごめんね、とジュードは微笑む。
「今まで優しくしてくれてありがとう。その手を取れなくて、ごめんなさい」
ジュードがアルヴィンの傍らをすり抜けて二階へと向かう。それを背中で感じながらアルヴィンはじっと階段を見下ろしていた。
「……見誤ったか」
ちっと舌打ちして、撫でつけられた髪をくしゃりと乱す。あと少しで手に入ると思ったのに。
ジュードの心の強さを見誤ってしまったらしい。
「手に入れ損ねたか……」
ぎりっと奥歯を噛み締め、アルヴィンは強く拳を握りしめた。

 


ジュードはガイアスの執務室の前に立つと、意を決してその扉をノックした。
入室を許可する低い声に、ジュードは扉を開く。
執務机で書類に目を通していたガイアスはそれを傍らに立つユリウスに渡すとどうだった、と聞いてきた。
「妊娠しているそうです」
そう告げたジュードに、ガイアスはそうか、と表情を僅かに和らげた。
「よくやった、ジュード」
「……いえ、僕は旦那様に謝らなければいけません」
「どういう事だ」
訝しげに顔を顰めたガイアスにジュードは視線を落とし、しかし再びガイアスを真っ直ぐに見て告げた。
「お腹の子の父親は、旦那様ではない可能性があります」
ジュードの言葉にガイアスが不快げに眉根を寄せる。
「説明しろ」
ガイアスの低い声に震えそうになる手をぎゅっと握りしめ、ジュードは答える。
「一度だけ、旦那様以外の男性と関係を結びました。妊娠した時期を計算してみても、ちょうどその頃です」
「相手の名は」
「言えません」
何を言われてもその名を口にする気がないという意思を込めてガイアスを見つめ返すと、不意にガイアスが溜息を吐いた。
「……どちらの子かは産まれてみなければわからない、という事か」
「はい」
暫し考え込んだガイアスは、やがて良かろう、と告げた。
「産まれてくる子がどちらの子であっても我が子として引き取ろう」
え、とジュードは目を見開いてガイアスを見る。
「でも……」
それではもしアルヴィンとの子だった場合、ガイアスは血の繋がらない子を養わなくてはならなくなる。
本当に良いのだろうか、と思っているとガイアスが椅子から立ち上がってジュードの前に立った。
「だが、お前の専属メイドとしての契約は破棄させてもらう」
「……はい」
それは当然だろう。ジュードがそう思っていると、その代わり、とガイアスが続ける。
「お前には新たに契約を結んでもらう」
「え?」
ガイアスがちらりと背後に視線を向けると、控えていたユリウスが執務机の上から一枚の書類をガイアスに差し出した。
「これにサインしてもらう」
それを受け取って目を通したジュードは、目を真ん丸にしてガイアスを見上げた。
「あの、これって……婚姻届じゃ……」
しかも既に夫の欄にはガイアスの名が記されている。これにサインをしろ、という事は。
「そうだ。お前は俺の妻となるのだ」
「どうして……」
「俺がお前を愛しているからだ」
困惑するジュードに、ガイアスは事もなげに言う。
「生涯妻を娶る気はなかったのだが、お前と出会ってその考えを改めたのだ」
「でも、僕は……」
本意ではなかったとはいえ、アルヴィンとも関係を結んでしまった。
躊躇うジュードに、構わぬ、とガイアスは言う。
「確かにお前が他の男と寝た事は業腹だが、お前が俺のものになると契約するのであればそれは水に流そう」
「あの……それって、少しずるい言い方、ですよね……」
おずおずと告げたジュードに、何を言う、とガイアスは心外そうな顔をした。
「全ては愛する者をこの手にする為だ」
「本当に、僕なんかを……?」
「自分を卑下するのは止めろ。お前は俺が愛するに値する女だ」
すっとガイアスの手がジュードの頬に添えられ、優しく撫でた。
「……旦那様……!」
慰撫するかのようなその手に、くしゃりとジュードの顔が歪んでその蜂蜜色の瞳からぽろりと涙が零れ落ちる。
「一生解けぬ契約を、俺と交わしてくれるか、ジュード」
穏やかさを滲ませたガイアスの言葉に、ジュードはぽろぽろと涙を零しながらこくりと頷いた。
「はい……!」
優しく抱きしめてくる男の背に、ジュードは婚姻届を持った手をそっと回した。

 


ジュードの妊娠が発覚して数日後、アルヴィンはガイアスに呼び出されてその執務室にやって来た。
呼び出された用件はわかっていたものの、ガイアスの背後に青い顔をしたイスラが控えている事でそれを確信した。
「何故呼び出されたか、わかっているようだな」
お互いに冷え切った視線を交わしながらのそれにアルヴィンはええ、と頷いた。
「ジュードの事ですね」
「そうだ。全てはイスラから聞いた。ナハティガルの企みも、お前の企みも」
だろうな、とアルヴィンはちらりと俯いたままのイスラを見る。
恐らく身の安全と引き換えに全てを吐いたのだろう。イスラは権力に弱い女だ。ジュードがアルヴィンの手を取らなかった時点でこの事態は予測できていた。
「お前も知っての通り、使用人が同じ屋敷の使用人を孕ませる事は禁じている」
「旦那様はジュードの胎の子は私の子だと思っているのですね?」
「確率は五分と五分だと思っている」
「私の子であった場合、どうなさるおつもりで?」
「どちらの子であっても俺の子である事に変わりはない」
ガイアスの言葉にアルヴィンが微かに訝しげな顔をする。するとガイアスがそれに答えるように告げた。
「ジュードは我が妻となった」
「!」
アルヴィンが目を見開く。まさかガイアスがどちらの子かわからない子を宿したジュードを娶るとは思っていなかった。
「この国の法では、籍を入れた後に妻が産んだ子はその夫婦の実子という扱いを取られる」
明らかに実父が違っていてもな、とガイアスは続ける。
「先日提出した婚姻届が受理された旨が今朝通達された。これでもうジュードは我が妻であり、胎の子も我が子となる」
「……つまり、私の出る幕はない、とおっしゃりたいのですね」
「お前には二つの選択肢を与えよう」
自主的に辞職するか、解雇か。
「辞職するのであれば、これまでの勤続年数に見合っただけの退職金も出そう」
退職金は手切れ金。そしてこれ以上ジュードに拘るのであれば解雇する、とそういう事か。アルヴィンは内心で暗く嗤う。
「では、辞させて頂きたく存じます」
ただ、とアルヴィンは言葉を続ける。
「退職金は要りません」
ガイアスの眼がアルヴィンの真意を探る様に細められる。そんなガイアスに、アルヴィンは今度こそ笑みを浮かべた。
アルヴィンはジュードの強さを見誤った。ガイアスの器の広さを測り損ねた。
だが、それでもこれだけは確信していた。
「産まれてくる子は、俺の子でしょうから」
「……大した自信だな」
「運は良い方なので」
それでも、一番欲しかったものは手に入らなかったが。
アルヴィンは自嘲気味に笑うと、優雅に一礼してガイアスの前から立ち去った。

 


アルヴィンはそれから一か月後に屋敷を去った。ジュードはそれをガイアスの口から知らされた。
今ではガイアスの妻となったジュードはガイアスの部屋に一番近い客間を改装し、そこで暮らしている。
服装も制服からドレスへと変わり、身の回りの世話はジュードの推薦でレイアが侍女となって行っていた。
イスラもまたこの屋敷を出入りする事が無くなり、代わりにカーティスという医者が出入りするようになった。
イスラがした事も、ジュードはガイアスから聞き及んでいた。それでもジュードはイスラを恨む気にはなれなかった。
胎の子は順調に育って行き、半年を過ぎる頃にはその腹部の膨らみも大分目立つようになってきた。
夫であるガイアスに守られ、立場は変わってしまったけれどレイアやミラ達といった大切な仲間たちに囲まれて。
実家の治療院の経営もガイアスのおかげで一先ず立て直しが叶った。
全ては順調に進んでいるようだった。しかしジュードの心には常に不安が付きまとっていた。
この胎の子が、もしガイアスの子でなかったら。それが常に心のどこかにあった。
ガイアスはどちらの子でも構わないと言ったが、それでもジュードの心は晴れない。
そして月は満ち、ジュードは苦しみの末に女の子を産み落とした。
女児でございます、との助産師の声に、跡継ぎでは無い事は少しだけ残念だったが、無事に生まれてきてくれただけで十分だった。
しかし産声を上げたばかりの赤子を抱いたジュードは、その薄く生えた髪色を見て絶望した。
赤子の髪色は、どうみても茶色だった。
ガイアスもジュードも漆黒の髪だ。隔世遺伝でもしない限り茶色の髪の子が生まれる事は無い。
恐れていた事が現実となってしまった。
ジュードが呆然としていると、ガイアスが部屋に入ってきた。
そしてジュードと腕の中の赤子を見下ろし、その髪色に気付いたであろうに穏やかに笑ってよくやった、とジュードの髪を撫でた。
その優しさに耐えきれず、ジュードは俯くとはらりと涙を零した。
「……ごめんなさい」
「何を謝る」
「だって、この子は……」
ガイアスは手を伸ばすと涙を零すジュードの目尻に触れ、その涙を拭った。
「お前と、俺の子だ」
「ガイアス……」
涙で濡れた瞳で見上げてくるジュードに、ガイアスは身を屈めてその頬に唇を落とした。

 


ディエームと名付けられた赤子は父と母、そしてナースメイドに見守られ、元気いっぱいに育った。
そしてディエーム誕生の翌年には弟であるフラックスが生まれた。茶髪に鳶色の眼をした姉とは違い、フラックスは漆黒の髪に蜂蜜色の瞳を持って生まれてきた。
姉弟仲は決して悪くなかった。年も近い事から二人は一緒に行動する事が多かった。
しかしディエームが四歳、そしてフラックスが三歳のある日、ジュードは困り果てた表情のナースメイドに促されて子供たちが過ごしているナーサリールームへと向かった。
部屋に入ると、ディエームが飛びついてきた。
「母様!フラックスがいじわるいうの!」
涙を浮かべて見上げてくるディエームの頬にはひっかき傷がある。部屋を見渡せば絵本や人形が散らばり、もう一人のナースメイドがフラックスを慰めていた。
「どうして喧嘩したの?」
ディエームの乱れた髪を優しく整えながらナースメイドに問うと、彼女たちは戸惑ったように顔を見合わせて言葉を濁した。
「それが……」
「フラックスがわたしはもらわれっ子だっていうの!」
するとフラックスがだって、と叫んだ。
「ねえさまの髪も目も茶色だもん!ぼくたちとちがうんだもん!」
子供たちの訴えにジュードは言葉を失った。ナースメイドたちが言葉を濁したのはこういう事か。
ディエームがガイアスの血を引いていない事は使用人たちも察している。
「ディエーム」
ジュードは自分とも夫とも似ていない顔立ちの娘の前で膝をつくと、その体を抱き寄せた。
「ディエームはちゃんと父様と母様の娘だよ」
「母様……」
勿論、とジュードはフラックスを見やりフラックスもだよ、と微笑む。
「かあさま!」
おいで、と手を差し伸べればフラックスもまたジュードの腕の中に飛び込んでくる。
「二人とも、父様と母様の大事な大事な子だよ」
腕の中でディエームとフラックスが泣きだし、ジュードは泣き止むまで優しく二人を抱きしめ続けた。
その夜、ジュードは夫の寝室を訪れると昼間の事を打ち明けた。
ガイアスは一言、そうかと返しただけだった。
「いつか、本当の事を言わなくちゃ駄目だよね……」
そう俯く妻を抱き寄せ、ガイアスは言わずとも良い、とその薄く色づいた唇に口付けた。
優しく啄むだけの口づけを何度か繰り返した後、でも、とジュードは言う。
それを遮る様にガイアスは深く口付け、その舌を絡め取る。
「ん……」
「……ディエームが我らの子である事に変わりはない」
「うん……」
ベッドの上に優しく押し倒され、ジュードは待って、とガイアスを制した。
「まだ何かあるのか」
むっとしたような夫に、ジュードはあのね、と恥ずかしそうに続けた。
「もう一つ、報告があるんだ」
「何だ」
「あの……先月から月のものが来てないじゃない?それで今日診てもらったんだけど……」
フラックスが産まれてからはガイアスは避妊具を着けるようにしていた。
しかしコントンは耐久性はそれほど高くない。
最中に破損し、そのまま気付かず達して意味を成していなかった、という事が時折あった。
「おめでとうございます、って……」
ぼそぼそと言うジュードを見下ろしていたガイアスは、そうか、と表情を和らげた。
ガイアスが避妊具を着けていたのは単に出産がジュードの体の負担になるからだ。
しかし新たに子が出来たのであればそれが嬉しくないわけがない。
「次も男が良い」
「どうして?」
小首を傾げるジュードにガイアスはむすりとして告げた。
「娘はいつかどこぞの男の元に嫁いで行ってしまうからな」
夫の言葉にジュードはきょとんとした後、くすくすと笑みを零した。
「じゃあ、男の子が生まれるように祈っておくね」
楽しげに笑うジュードに再び口づけ、ガイアスはその細い体を抱きしめた。

 


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