リドウは白金の懐中時計を持ってこの世に生を受けた。
その時計は特別なものだったが、しかし彼の周りにそれをそうだと知る者はいなかった。
故にリドウは忌み子として疎んじられた。周りからは常に後ろ指を指され、時には暴力も受けた。
彼を守る筈の両親もリドウを気味悪がっており、リドウは親に笑いかけて貰った記憶もなければ、自身が心から笑った記憶もなかった。
そしてリドウが六歳の時、リドウは親に捨てられた。内臓の幾つかが病に侵されている事が判明し、その治療に莫大な金がかかるとわかったからだ。
暮らしていたディールから離れた大都市、トリグラフの街中でリドウは時計だけを手に放り出された。
ディールを出た事などなかったリドウにとって、トリグラフは巨大な迷路のような街だった。
闇雲に歩き回り、何とか家に帰ろうとした。だが金銭を持ち合わせていなかったリドウは駅に辿り着く事が出来ても列車に乗る事は出来なかった。
トリグラフの人間は一人途方に暮れている子供のリドウに冷たかった。人が多すぎて他人に余り興味を持たないのだろう。誰も彼もがリドウを気にする事無く歩いて行く。
リドウは白金色の時計をぎゅっと握りしめた。この時計さえ無ければこんな事にならなかったのだ。
手にしたそれを石畳に叩きつけようとして、しかし何故かそれをしてはいけないような気がしてリドウは振り上げた手を下ろした。
リドウがトリグラフの街を彷徨って三日。何も口にしていないリドウの体は常に飢えを訴えていた。
しかしリドウにはどうにもできない。このまま死ぬのかと思いながら路地裏でぼんやりと座り込んでいると目の前に立つ者がいた。
のろのろと見上げると、銀髪にアイスブルーの鋭い目を持つ男が値踏みをするようにリドウを見下ろしていた。
正確には、リドウの手の中の時計を、だった。
「その時計はお前の時計か」
「……だったら何だよ」
男の低い声にリドウが三日ぶりに声を発すると、酷く掠れた声が出た。
「生まれ落ちた時に持っていた物か」
「!何で、それを……」
目を見開いて驚くリドウに、だが男は気にした様子もなく、名は、と続けた。リドウが名乗ると男はふむ、と考え込んでいた。
「余り聞かない家名だな。隔世遺伝か……」
男が何を言っているのかわからなかったが、放っておいてほしかった。どうせ自分は死ぬのだ。
「親に捨てられたのか」
「あんたにゃ関係ないだろ」
掠れた声に、そうでもない、と男は唇の端を歪めて笑う。
「私はお前の様に時計を持って生まれてきた子供を探しているのだ」
私と来い、と男は言う。
「お前が私の役に立てるならば衣食住は面倒を見てやろう」
リドウは何で、と男を見上げる。すると男はその時計は特別な物だと言った。
「私と来るならその時計の正しい使い方も教えてやる」
この時計の使い方?リドウは己の手の中の白金の時計を見下ろす。
「お前はその時計に選ばれたのだ。お前には世界を変える力がある」
この手を取れ、と差し出された武骨な手をリドウは見上げ、恐る恐る己の手を重ねた。
それがビズリー・カルシ・バクーとの出会いだった。

 


ビズリーに拾われたリドウは病に侵された臓器を内臓黒匣へと入れ替えた。費用は全てビズリーが出した。
若くして大企業クランスピア社の社長に就任したビズリーにとって、その治療費も端金だったのだろう。
命を助けられたリドウはビズリーの役に立つための努力を惜しまなかった。
それは決してビズリーに感謝しての事ではない。また捨てられないために必要な事だった。
幸いにしてリドウは頭の回転が速く、要領も良かったのでめきめきとその才能を開花させていった。
リドウは十二歳を迎える頃には大人でも説くのが難しい様な問題をさらさらと説いて見せたし、体術も自分よりはるかに体格の良い男でも倒せるようになった。
ビズリーの覚えも良く、リドウは生き残る事に今の所は成功していた。
そんなある日、リドウはビズリーによって一人の子供と引き合わされた。ユリウス・ウィ・バクー。ビズリーの息子だった。
一つ年下だというユリウスは酷く暗い目でリドウを睨んでいたが、その頃には面の皮も厚くなっていたリドウはにこやかにあいさつをして手を差し出した。
だが一向にその手を握り返そうとしないユリウスに、リドウは内心で可愛くねえなと思いながら手を下げた。
「ユリウス、リドウ。今日はお前たちの時計の使い方を教えよう」
ビズリーの言葉にリドウは目を見張った。ビズリーは今までずっとお前にはまだ早い、と言って結局時計については何も教えてくれなかった。
それが漸く。ユリウスも聞かされていなかったらしく、驚いた様に父親を見上げていた。
そして二人はビズリーの後について地下にある訓練場へと連れて行かれた。
そこでリドウとユリウスは骸殻能力というものを知らされた。正史世界と分史世界、そしてクランスピア社の本当の目的。オリジンの審判。
思いがけない情報量が多くてリドウは混乱しそうだった。まさかこの世界の他にも世界が無数に存在して、クランスピア社がそれらを破壊して回っているなどと誰が思うものか。
だが傍らのユリウスは相変わらずきつい眼差しで父親を見ているだけだった。
時計を、と言われて二人はそれぞれ時計を取り出した。ユリウスの時計はリドウの物より白が強い銀色だった。
ビズリーに指示されるがままその蓋をぱちりと開き、赤い盤面を見下ろす。
言われたとおりに時計に意識を集中させると、ぱあっとその盤面が強い光を発して咄嗟に目を閉じた。
やがて光が収まり、リドウが目を開けると時計は何事もなかったように沈黙していた。
すると、とすんと腰にしがみ付かれる感触がしてリドウは見おろし、目を丸くした。
リドウの腰には四、五歳くらいの子供がしがみついてリドウを見上げていた。
黒い艶やかな髪に猫を思わせる釣り上がった蜂蜜色の瞳。ぱちぱちと瞬きをして見上げてくる幼子に、何処からこんな、とユリウスを見ると彼もまた固まっていた。
ユリウスの腰にも幼子がしがみ付いていた。銀の髪にアクアグリーンの瞳の子供はぐりぐりとユリウスの腹に頭を押し付けている。
唖然としながらビズリーを見ると、成功だ、とビズリーが満足げに頷いた。
「その子供はお前たちの時計の精霊だ。お前たちが骸殻を纏うには、その精霊と契約しなければならない」
「契約?」
初めてユリウスが言葉を発した。警戒に満ちた声だった。しかしビズリーは気にした様子もなくそうだ、と頷いた。
「契約は極めて簡単だ。名前を付けてやればいいい」
突然現れた子供に名前を付けろと言われても。リドウが戸惑う様に黒髪の子供を見下ろしていると、ユリウスが呟くように告げる。
「……お前の名はルドガーだ」
銀髪の子供はぱあっと表情を明るくし、満面の笑みを浮かべるとぶんぶんと何度も頷いた。
ルドガーと名付けられた子供は淡い光を放ち、ユリウスの纏うものが一瞬にして変化した。
「それがお前の骸殻だ」
ビズリーの言葉に、これが骸殻、とリドウは異様な出で立ちのユリウスを見る。
そんなリドウにビズリーはお前も名前を付けてやりなさい、と促した。
リドウは腰にしがみ付いてじっと見上げてくる幼子を見おろし、やがて浮かんだ単語を告げた。
「……ジュード。お前の名は、ジュードだ」
すると子供は嬉しそうに笑った。ルドガーの満面の笑みとは違い、控えめな柔らかい笑みだった。
そしてジュードもまた淡い光を放ち、リドウを異質なものへと変化させた。
「骸殻は強く念じる事によって纏い、解除する事が出来る」
その言葉通り、強く念じると元の姿に戻って内心でほっとする。戻れなくなったらどうしようという思いも少しだけあった。
「最初の内はクォーターしか扱えんが慣れれば次の段階へと進めるだろう」
尤も、才能のないものはクォーター止まりだがな、とビズリーは言う。
「時計の詳しい扱い方については自分の精霊に聞け」
これからも励むように、と告げるビズリーを、ユリウスは相変わらず悪意の籠った目つきで見上げていた。

 


アパートに帰り、早速時計を取り出して強く念じる。するとジュードが時計からぴょこんと飛び出てきてリドウに抱き付いた。
「とりあえず、離れろ」
懐いてくる子供を引きはがし、しゅんとしているジュードにリドウは言う。
骸殻能力の事、分史世界の事、何でもいいからお前の知っている事を教えろ、と。
するとジュードはきょとんとした後、その小さな手をリドウの額に伸ばして触れてきた。
「!」
途端に膨大な量の情報が頭の中に入り込んできて、リドウは咄嗟にジュードの手を振り払う。
「何だ、今の……」
恐らくジュードは言われた通りに全ての情報をリドウに流し込んだのだろう。
だが膨大過ぎて殆ど理解できず、意味不明だった。しかしその中で一つだけ引っかかった単語があった。
「時歪の因子って何なんだ」
問えば、またジュードが手を伸ばしてくる。一瞬身構えたが、そういう伝達しか出来ないのだろう、仕方なく触れさせた。
それでも膨大な情報にくらくらとしながら駆け抜けて行った情報を整頓する。
時歪の因子とは分史世界を形作る核のようなもので、骸殻能力者がその力を使い過ぎると次第に時歪の因子と化していくらしい。
そしてその時歪の因子化のリスクを抑えるために各々時計の精霊が存在する。
彼らは力の媒介であると同時に、主に代わって時歪の因子化のリスクを請け負ってくれるのだ。
勿論、そのままでは主に代わって精霊が時歪の因子と化してしまう。
主が死んでも精霊は死なないし、精霊が死んでも主は死なないが時計が壊れれば精霊は死に、時歪の因子化しても死んでしまう。
だが時計の精霊は持ち主からマナを補給する事によって自身の時歪の因子化を止める事が出来る。
その方法が。
「……口腔粘膜吸収が尤も適している、ってつまりキスしろって事だろ……」
何だそれ。リドウはがくりと項垂れて、今頃ユリウスはどうしているだろうとふと思う。
彼もまた同じように子供を呼び出して情報を得ているのだろうか。
リドウは深い溜息を吐き、こちらを窺っているジュードを見た。
「次、骸殻能力について」
まずは知らねば何もできない。リドウは頭の中を掻き回されるような不快感に耐えながらもジュードに次々と質問をしていった。

 


それから二年が経った。十四歳を迎えたリドウの骸殻能力はクォーターの次の段階であるハーフで止まっていた。
骸殻はクォーター、ハーフ、スリークォーター、フルの四段階に分かれている。
一般の分史対策エージェントはクォーター止まりだったが、リドウはその上のハーフ骸殻を纏う事が出来た。
クォーターエージェントには行けない様な深々度の分史世界にも進入できる能力を備えていたが、それでもリドウは満足できなかった。
何故なら共に骸殻能力に目覚めたユリウスがスリークォーター骸殻を発動させる事が出来ていたからだ。
噂ではビズリーはフル骸殻を纏う事が出来るという。その息子なのだからそれくらいできて当然だろう、というのが周りの反応だった。
同時に、時計の重要さすら伝わっていない傍流の家の出のリドウがハーフを纏えることはそれだけで奇跡だと周りは言った。
そんな言葉は何の慰めにもならなかった。ユリウスに負けている。その事実がリドウには腹立たしい事だった。
俺の才能はこの程度なのか。何か能力を上げる方法はないのか。リドウは己の精霊にそう問い質した。
しかしジュードはそんな方法は無いと言いたいのか、教えたくないのかはわからなかったが、ふるふると首を横に振るだけだった。
ジュードは時が経つごとに少しずつ成長していった。髪や爪は伸びないのに体は成長していく。おかしなものだとリドウは思う。
成長と共に、ジュードは言葉も話す様になっていった。大抵はリドウと二人きりの時だけしか話さなかったが、日に日に語彙が豊富になっていっているようだった。
リドウは分史対策室にいる間は常にジュードを実体化させていた。いざという時にすぐ能力を発動できるからだ。
時計を持つ者たちで構成されている分史対策室内ではそれは当たり前の事で、他の一般エージェントもそれぞれの精霊を連れて歩いていた。
精霊の成長の度合いは持ち主の能力や、持ち主との関係の良し悪しによって変わってくるらしく、一般エージェントの連れている精霊は殆どが幼い子供の姿をしていた。
もう何年も己の精霊の姿が変わらないのが当たり前になっているエージェントたちの中で、少しずつ成長していくジュードにリドウは少なからず優越感を抱いていた。
そのジュードとは一日に一度だけキスをした。
エージェントとして有能だったリドウはその分、深々度の分史世界の破壊に駆り出される事が多い。
深々度の世界に進入するという事はそれだけで力を使う。その上で時歪の因子を破壊しなくてはならないのでより骸殻能力を使わねばならなかった。
骸殻能力の使い過ぎは時歪の因子化を呼ぶ。リスクをジュードに肩代わりさせている以上、それを取り除かねばならない。
ジュードが死ねばリドウ自身は無事でも骸殻能力は失われる。そうなったらお払い箱にされるのは目に見えていたからだ。
この頃にはリドウもマナの効率の良い与え方を経験で知っていた。
ただ唇を合わせるだけでは余り効率は良くない。深く重ねた方が良いのだと気付いてからは執拗にジュードの口内を犯した。
精霊にも羞恥心があるのか、ジュードが顔を赤くしてくたんとするまで唇を合わせ、舌を絡めた。
そのおかげか、リドウが遠慮なく力を揮ってもジュードに時歪の因子化は見られなかった。
これもお仕事の一環さ。リドウはそう割り切っていた。
だが、ユリウスの方はそうではないようだった。
最近は単独で仕事を任される事が多くなり、ユリウスと顔を合わせたのは一節ぶりだった。
相変わらずユリウスは荒んだ目をしていた。そして連れている子供を見た途端、リドウは目を見張った。
ルドガーの銀一色だった髪の前髪部分が部分的に黒く染まっていた。
まるでメッシュを入れたかのようなそれに、しかしリドウはそれが時歪の因子化が始まっている証だと知っていた。
ルドガーの顔色も冴えない。リドウは歩み寄るとおい、とユリウスに声を掛けた。
「ルドガー君のリスク解除してないのかよ御曹司」
「お前に関係ないだろ。あとその呼び方は止めろ」
「だけどお前、このままだと」
「それこそお前には関係のない事だ」
そう言い捨ててユリウスは去って行った。その後ろをルドガーが足早に追いかける。
そんな二人の後ろ姿を見送ってリドウが舌打ちすると、ジュードがくいっとその袖を引っ張った。
「ルドガー、寂しそう」
「俺が知るかっつーの」
勝手にしろ、と吐き捨ててリドウはユリウスたちに背を向けて歩き出した。

 

 


 

ユリウスがビズリーの家を出たらしいとエージェントの間では専らの噂だった。
会社の端末で調べてみると確かに今は母方の祖父の養子となっているらしく、名前もユリウス・ウィル・クルスニクへと変わっていた。
ユリウスは相変わらずルドガーのリスク解除は行っていないようで、ルドガーの前髪はじわじわと黒く染まっていっていた。
ルドガーの顔色も悪く、ジュード曰くユリウスからのマナが足りていないのだろうという事だった。
リドウはああもうと髪をがしがしと掻き廻し、ユリウスの腕を強引に引いて使われていない会議室に連れ込んだ。
「ジュード、ルドガー君押さえてろ」
ジュードは戸惑いながらも言われたとおりに不安そうに二人を見上げているルドガーの手を握る。
それは押さえるとは言わない、と思ったが取り敢えずユリウスに向き直るとその胸倉を掴んだ。
「お前いい加減にしろよ。骸殻能力がなくなれば普通の生活ができるとでも思ってるのかよ」
ユリウスは痛い所を突かれたと言う様に目を見張り、すぐに眉根を寄せるとぷいっと顔を背けた。
「お前だってルドガーから聞いてるだろ。例えルドガーが死んで骸殻能力が使えなくなっても他の誰かから時計を奪えばまた使えるようになるって」
骸殻能力自体は持ち主の才能によるものだ。それを時計に組み込まれた術式とその精霊が引き出しているわけであり、他人の時計でも原理としては骸殻を纏う事は可能だった。
だが大抵は精霊が新たな主に懐かない為、結果時歪の因子化を誘発して長くはもたないと言われている。
「お前はスリークォーター骸殻の持ち主だ。あのビズリーがお前を手放すとでも思っているのか」
「……」
「そうやってルドガーを殺してもビズリーは誰かから時計を奪ってお前に使わせるぞ。俺たちが時計を奪われるという事がどういう事か、お前だってわかるだろうが」
時計を失えば骸殻能力は発揮できない。役に立たない者は要らないというビズリーの元ではそれは良くて解雇を、下手をしたら死を意味する。
「お前の身勝手で他人の人生狂わせるのかよ」
ぎり、と胸倉を掴む力を強めると、息苦しさにユリウスの表情が歪む。するとリドウの腰にどすっと衝撃が走った。ルドガーが突進してきたのだ。
うーうー唸ってぽかぽかとリドウを叩いてくるルドガーの腕を掴み、おい、とジュードを見る。
「俺はルドガーを押さえとけって言ったぞ」
「ご、ごめんなさい……」
おろおろとしながら謝るジュードにユリウスが目を見張った。
「……喋れる、のか」
一般エージェントの精霊たちは能力が低い為か喋らないらしい。恐らくユリウスも喋らないものだと思い込んでいたのだろう。
「お前らと違って優秀なんでね、っておい、いい加減にしろよルドガー君」
腕を抑えられてしまったルドガーが今度はげしげしとリドウの脚を蹴り始めたので、リドウはげんなりとしてその腕を離した。
解放されたルドガーはユリウスに駆け寄ると、心配そうにその腰に抱き付いて見上げる。
「俺の所為で時歪の因子化が進んでるのに、それでも俺の心配をするのか……」
「リスク解除の仕方は知ってるんだろ?」
まさか知らないわけじゃないだろうな、と思って問えば、ユリウスは気まずそうに知っている、と告げた。
「お前は、その……解除をしているんだよな」
ちらりとジュードを見て言うユリウスに、当たり前だろ、とリドウは答える。
「俺はここで生き残ると決めてるんでね。お前みたいに甘ちゃんじゃないんだよ」
あくまで自分の為にジュードと良好な仲を築いているのだと言わんばかりのそれに、ユリウスは苦い顔をした。
「そういう考え方は、ジュードに悪いと思わないのか?」
何を言っているのかなユリウス君は、とリドウは小首を傾げながら言う。
「ジュードにとってキスなんて食事と同じだ。食事をさせるのに遠慮してどうする」
そもそもジュードの方だって何とも思っちゃいねえよ。ひょいと肩を竦めてリドウはそう言い切った。
「……食事と、同じ……」
「あれ、もしかしてルドガー君にキスするのが恥ずかしいなんて言わないよな、御曹司」
にやりと笑ったリドウに、その呼び方は止めろと言ってユリウスはそっぽを向いた。その表情がどこか決まり悪げなのをリドウは見逃さない。
「へー?ふーん?結構シャイなんだ?」
にやにやとしているリドウに、うるさい、と切り捨てる様に言ってユリウスは足早に会議室を出て行く。
その後をルドガーが慌てて追い、リドウはくつくつと喉を鳴らして笑った。
「苛めは良くないと思うんだけど……」
「何言ってんの。教育的指導ってやつだよ。あれくらい言わないとあいつはルドガー君のリスク解除しないだろ」
「ルドガーの為?」
小首を言傾げて見上げてくるジュードに、いいや、とリドウは笑う。
「俺は俺の為にしか動かないぜ?」
ルドガーが死んだらビズリーはスリークォーターのユリウスの為に誰の時計を奪うのか。可能性は低いだろうがそれでもリドウが選ばれる可能性は無いわけではない。
そんな事は真っ平御免だった。
「よくわかんないや」
「ジュードちゃんには難しかったか?」
「そうだね」
苦笑するジュードをちょいちょいと指で引き寄せ、折角人気のない所にいるんだからと抱き上げると意図を察したジュードがリドウにその小さな唇を寄せた。
唇を合わせ、その狭い口内を堪能しながらリドウは今日のノルマは終わり、と思った。

 


十五歳を迎えたその日、リドウは正式にクランスピア社の社員となった。
その翌年、今度はユリウスが正式なクランスピア社の社員となった。
二人は改めて分史対策室に配属になり、相変わらず分史世界の破壊を繰り返していた。
リドウ達の目的は分史世界の破壊が主だったが、この正史世界では失われたとされているカナンの地への道標を探す事も任務の内だった。
だがたとえ見つけてもそれを正史世界に持ち帰るには特別な力が必要だ。それがクルスニクの鍵だ。
鍵の力を持った者は滅多に生まれる事は無く、現在この正史世界では鍵は見つかっていない。
ならば分史世界で鍵の力を持つ者を見つけて連れて来れば良いというのがビズリーの考えだった。
ビズリーはオリジンの審判で勝ち、全ての分史世界の消去を願う為にユリウスたちに道標とその道標を持ち帰るための鍵の捜索を命じていた。
だがいくつ分史世界に進入しても、鍵も道標も見つからず、ただ破壊を繰り返した。
最近ではユリウスもルドガーと良好な関係を築いているらしく、ルドガーの時歪の因子化は止まり、ユリウスに笑顔を向ける事が多くなった。
ユリウスはそのきつい眼差しを少しでも和らげようとするかのように伊達眼鏡をかけるようになり、まだぎこちないがルドガーに笑いかける姿も時折見かけた。
ルドガーの身長は少しずつ伸びて行き、言葉も喋る様になったという。
ジュードはというと、今は十歳くらいの少年といった雰囲気だった。
最近のジュードは料理に興味を持ち、キッチンに立つ事が増えた。だが、ジュードに人間のような食事は必要ない。その為、食べるのはリドウの役目だった。
しかし持ち主に似たのか手先は器用で飲み込みも良く、食べれない様な代物を作る事は無かった。
そしてリドウが二十歳を迎える頃にはジュードの料理の腕は格段に上手くなっており、リドウは自分で作る事を止めた。ジュードの作る食事の方が美味かったからだ。
毎日のキスは相変わらず続けている。今では十五歳程度にまで育っていたジュードは、深いその口づけに甘い声を漏らす様になった。
その声がもっと聞きたくて、リドウは必要以上にジュードの口内を貪った。
それがどんな感情からくるものなのか、リドウは考えないようにしていた。多分この想いは認めたら面倒な事になる、と自覚していたからだ。
そしてユリウスは今ではあの頃と別人のようになっていた。人付き合いもそつ無くこなし、自然に笑えるようになった。
何より、ユリウスはルドガーを溺愛していた。拒絶していたのが嘘の様に優しく接している。
ルドガーも今やジュードと同じくらいにまで育っていたが、それでも甘えたがりなのは変わりないようで。
どうやらユリウスはルドガーに自分の事を兄と呼ばせているらしく、兄さんと呼ばれるたびにでれでれとしていた。
正直な所、あそこまでの変化は望んでなかったのだが。人間、変わる時は変わるもんだな、とリドウは思う。
そしてその翌年、ユリウスの分史世界破壊数が百を超し、分史対策室室長になった。リドウは副室長だった。
何で俺がユリウスの下に就かなくちゃならないんだ。悔しかったが受け入れるしかなかった。
ジュードの成長は止まったようだったが、スリークォーターのユリウスを主に持つルドガーの成長は続いていた。
その成長が止まったのはユリウスが二十五歳の時だった。ルドガーは二十歳くらいの青年、といった風体まで育った。
ユリウスとリドウの仲は良くなかったが、ルドガーとジュードの仲は良かった。
社内で出会うたびにハグを交わす姿は何となくいらっとして、そのたびにリドウはジュードの首根っこを掴んで引き剥がした。
ジュードの影響で料理を始めたルドガーも、今ではプロ顔負けの料理を作るらしい。
凄いんだよ、とルドガーを褒めるジュードに、はいはいとリドウはどうでも良さげに手をひらひらさせた。
「俺はジュードちゃんの家庭的な手料理が好きなんだから、ルドガー君の料理の腕なんてどうでも良いんだよ」
すると静かになったジュードに訝しんだリドウが新聞から視線を上げると、そこには顔を赤くして俯くジュードがいた。
「あ、ありがと……」
そんなに恥ずかしがられるとこっちまで恥ずかしくなってくる。リドウは痒くもない頭をかりかりと掻いて再び新聞に視線を落とした。
ジュードは感情豊かだった。大人びているルドガーはその外見に見合った落ち着きも備えていたが、ジュードは素直に自分の感情を表した。
普段はそれなりに落ち着いているのに、ちょっとからかったりするだけでこうして感情を露わにする。
それを可愛いと思う様になったのはいつの頃からだろう。ジュードの少し恥ずかしそうな笑顔を見るたびに湧き上がってくるこの感情。
そして唇を合わせた時に湧き上がってくるそれ。もっと深く重なり合いたいという欲求。
何を考えているんだ。相手は精霊だぞ。リドウはその考えを振り払い、紙面に集中した。

 


道標も鍵も見つからぬまま月日だけが流れて行った。
そしてリドウが二十九の歳を迎えたその年、漸く道標の存在確率が高い分史世界を発見できた。
深度は今までにない深さだった。だがリドウとユリウスなら進入できる。すぐさま向かうように命じられた。
久々のツーマンセルだ。足引っ張るなよ、お前こそ、なんて言葉を交わしながらそれぞれの相棒である精霊と手を繋ぐ。
「さあ、行くぞ」
意識を集中させ、独特な感覚で教えられた進入点を探していくと確かにそれはそこに存在していた。
こりゃ深いわ。リドウはそう思いながらそこへと進入を果たす。辿り着いたのは、ディールだった。
リドウにとって、ディールは特別な街だ。自分の生まれた街。自分を捨てた親が住んでいた街。
だが今は仕事で来ているだけだったし、何よりここは分史世界。リドウの知るディールとは違っていた。
このディールは自然に溢れていた。観光客のふりをして聞き込みをすると、どうやら源霊匣と呼ばれる黒匣に代わる精霊を殺さない装置が開発され、それによって自然が回復しているらしい。
ディールは特に自然が回復しつつある街で、自然特区に指定されているとの事だった。
正史世界では干上がってしまったウプサーラ湖も今では水量を回復させているという。
すると新聞を購入してきたユリウスがこれを見ろ、と日付を指差した。どうやら正史世界より十年先の世界らしかった。
聞き込みをして回った結果、どうやらこの世界ではビズリーは八年前に行方不明になっているようだった。
そしてヴィクトルと名乗る男が社長の座に就いているという。
一度トリグラフのクランスピア社を訪れてみようかという話も出たが、駅に向かうとジュードとルドガーが気付いた。偏差が低くなっている、と。
偏差が大きければ大きい程そこに時歪の因子がある可能性も高まる。つまり偏差の低い場所を探しても無駄というわけだ。
時計の精霊であるジュードとルドガーにはそれを何となく察知する事が出来る。ではトリグラフではないのだ。
ならば、とリドウ達はウプサーラ湖へと向かう事にした。偏差はそちらの方が大きいようだった。
自然の回復しつつあるカタマルカ高地を抜け、ウプサーラ湖へと辿り着く。
湖は確かに回復していた。日の光を受けて輝く湖面を見渡し、湖畔に一軒の家がある事に気付いた。
こんな辺境地に家が?リドウとユリウスは視線を交わし合うとそこへと向かう。
すると視線の先で扉が開き、一人の少女が飛び出してきた。
「パパ!早く行こう!」
十にも届かないだろう年頃の少女は家の中に向かって声を上げる。すると家の中から父親だろう男が現れた。
黒髪に黒服、そして顔の殆どを覆う黒い仮面。パステルカラーの服に身を包んだ少女とは正反対のその出で立ち。
ふと男の視線がリドウ達を捉えた。長い前髪が右眼を隠していたが、アクアグリーンの左眼が驚いた様に見開かれる。
そしてすぐに視線を和らげると、ようこそ、と男は告げた。
「君たちを待っていたよ。リドウ、ジュード、ユリウス、ルドガー」
「!」
咄嗟に武器に手をやったリドウ達に少女が怯えて父親の背後に隠れる。そんな少女の帽子に手を置き、大丈夫だよ、と微笑んだ。
「この人はパパのお客さんだ。エル、今日のお出かけはまた今度にしよう」
エルと呼ばれた少女は不満げに父親を見上げたが、しかし場の空気に押されたのだろう、渋々と頷いた。
男はリドウ達を見ると、構えなくていい、と優しい声音で言う。
「君たちが何を探しているのか、私は知っている。私は君たちの力になりたいんだ」
「どういう意味だ」
ユリウスの言葉に、男はふっと懐かしいものを見るような目でユリウスを見た。
「長い話になるだろう。中へどうぞ。……エル」
男は少女の手を引いて家の中へと戻っていってしまう。四人は視線を交わすと、仕方ないと頷いて男の後に続いた。

 

 

 

男はリドウ達に紅茶を振舞ったが、誰一人としてそれに手を付けなかった。
ジュードとルドガーは飲めなかったし、ユリウスとリドウもこの状況でこの男の淹れた茶を飲むなどという間抜けな事はしない。
だが男は気にした様子もなく一人紅茶を口にしていた。
男はヴィクトルと名乗った。ヴィクトルと言えばクランスピア社の現社長の名前だ。それを問い質せば、そうだとヴィクトルは頷いた。
「私は八年前、ビズリーを殺してクラン社の全権を手に入れた」
何でもない事の様に告げられたそれに四人は目を見開く。
「フル骸殻の能力者であるビズリーをどうやって……」
驚きの声を上げるユリウスの隣で、ルドガーが何か考え込むようにして視線を落とした。
そんなルドガーを見詰めていたジュードは、ヴィクトルへと視線を移すと貴方は、と口を開いた。
「その……」
言葉を詰まらせたジュードに君の言いたい事は分かっている、とヴィクトルは頷いた。
「私も君たちと同じ、時計の精霊だ」
「は?今普通に紅茶飲んでただろ」
「人と同じものを口にする事は可能だ。ただその必要が無いという事と、味を感じられないというだけで。まあ、気分の問題だ」
リドウの指摘にヴィクトルは何でもない事のように言う。
本当なのか、とそれぞれの片割れを見ると、ごめん、とジュードとルドガーは気まずげに視線を逸らした。
「僕たちには人間に言って良い事と言わなくて良いっていうか、言わない方が良いって事があって……」
リドウは舌打ちすると取り敢えずその件は後で聞く、と言ってヴィクトルを見た。
「お前が時計の精霊なら、主は誰だ。で、その娘は何だ」
ヴィクトルは視線を伏せ、自嘲気味に微笑む。
「私の主は十年前にビズリーに殺された。仲間も殺され、あの戦いで生き残ったのは私だけだった」
そして、とヴィクトルは窓際の棚の上に置かれた写真立てへと視線を移して言った。
「エルは正真正銘、私の娘だ。八年前に私と人間の女性の間に生まれた」
その写真には、ヴィクトルと幼いエル、そしてそんなエルの母親だろう女性が写っている。
「精霊と人のハーフだと?」
リドウが説明を求める様にジュードを見ると、ジュードはそれを肯定するように頷いた。
「僕たちが人間と子を成す事は可能なんだ。それに、その子からも精霊の力を少しだけど感じる。その人の言っている事は本当だよ」
それと、とジュードは言葉を続けようとして言い淀む。ここに来てからジュードもルドガーも何かに迷っているようだった。
しかしその迷いを全て理解していると言う様にヴィクトルはそう、と大人しく座って見詰めてくる娘を見て言う。
「エルはクルスニクの鍵だ」
「鍵だと!」
リドウが思わず声を上げる。ユリウスも驚きに目を見張っていた。
「この子ならば分史世界で見つけた道標を正史世界に持ち込む事が出来る」
この子を君たちに託しても良い、とヴィクトルは言った。
「十年前、私たちは別の分史世界からやってきた鍵の能力者と共に道標を全て揃えた。だが、カナンの地へは辿り着けなかった」
「カナンの地は正史世界にしかないから……」
ルドガーの言葉にそうだ、とヴィクトルは頷く。
「そこでビズリーが考えたのが鍵の能力者と共に自らが正史世界へ赴き、カナンの地へ向かうという事だった」
「でも正史世界では同一の存在は同時に存在できないはずじゃなかったか」
ユリウスの問いに、それは人間に限っての話だ、とヴィクトルは言った。
「人間に限って、って……」
「ビズリーもまた、私と同じ時計の精霊なのだよ」
「!」
ユリウスが反射的にルドガーを見る。ルドガーは唇を噛み締めて俯いていた。精霊同士は気配のようなもので同族を探知できる。
ルドガーもジュードも初めから知っていたのだ。ビズリーが時計の精霊であるという事を。
「だけどさ、社長ってフル骸殻纏えるんだろ?あれは何なんだよ」
「時計の持ち主に精霊の血が混じっていた場合、精霊自身も骸殻を纏う事が出来る。つまり、ルドガーも骸殻を纏う事は可能だ」
待ってくれ、とユリウスがヴィクトルの言葉を止めた。
「俺がスリークォーター骸殻を纏えるのは……」
「そう、君の父親は精霊、そして母親は人間と精霊のハーフ。君は人間より精霊に近い存在だ。普通の人間ならどんなに才能があってもハーフまでしか纏えない」
ビズリーの主は彼の妻でありユリウスの母であるコーネリアだった。コーネリアは自らの時計の精霊であるビズリーと交わり、ユリウスを産んだのだった。
「だが精霊との間にできた子を産むという事はすなわち死を意味する。力の大きさに母体が耐えられないのだ」
そしてコーネリアはユリウスを産み落として亡くなり、ヴィクトルの妻もまた、エルを産んでその命を落とした。
「主を失い、失意の底にいた私は妻と出会って漸く僅かな安らぎを得たが再び絶望の底に落ち込んだ。そこにビズリーがやってきて言ったのだ」
お前の娘を渡せ、と。
「エルが鍵である事は精霊である私やビズリーには一目でわかっていた。ビズリーはこの子を使って正史世界へ行こうとしたのだ」
「でもビズリーさんのやり方だと正史世界に渡ったビズリーさん自身は生き残れるけど、分史世界の破壊を願ったらこの世界は消えてしまう……」
ジュードの言葉にそういう事だ、とヴィクトルは言う。
「だが他の分史世界から来たという鍵の能力者がいたんじゃないのか」
「ビズリーのやり方には当然反発が起きた。その結果、鍵はビズリーに反発した者たちの手によって殺されてしまったのだよ。鍵さえ死んでしまえばビズリーが正史世界へ進入する事は出来ないからね」
そしてヴィクトルとビズリーの間でエルを巡っての争いが起きた。
「運よくビズリーの時計を破壊できた私はクラン社を乗っ取り、どうにかしてこれ以上分史世界が増えないようにできないかを探った」
だがもう手遅れだった。分史世界はもう九十万以上に上っていた。
この世界が疾うに終わりの見えた世界だと思い知らされた。それでもヴィクトルはそれを認めるわけにはいかなかった。
「この子の、エルの未来を潰すわけにはいかない」
「だから俺らに託すって?自分の娘さえ助かればそれで良いってわけか。それじゃあお前もビズリーと同じだろ」
リドウの低い声音に、そうかもしれないな、とヴィクトルは視線を伏せる。
「だが君たちが来た以上、どちらにしても私はもうこの子の成長を見守れない」
「精霊ならば正史世界で同一の存在は存在できるのだろう?」
矛盾しないか、と言うユリウスにヴィクトルは苦笑する。
「そう、確かに私がエルと共に正史世界へ行くことは可能だ。だが、君たちがそれを許さないだろう」
「どういう事だ」
ヴィクトルは自らの仮面に手を当て、ゆっくりとそれを外した。
現れたのは、右半分を漆黒に染めた肌、赤い眼。その瞬間にヴィクトルの体から立ち上る靄のような闇。時歪の因子の証。
だがそれよりも。
「……ルドガー……?」
仮面の下の顔は、どう見てもルドガーだった。
「ルドガー、ジュード、今まで黙っていてくれてありがとう」
俯いている二人にヴィクトルは優しく言って再び仮面をつけた。途端に時歪の因子反応が消える。
「この仮面には時歪の因子が私であると悟らせないための術式が組み込んであってね」
「お前は十年後のルドガー、なのか……?」
ではビズリーに殺されたという彼の主とその仲間というのは。
「私の主はこの世界のあなただ、ユリウス。そしてリドウとジュード、三人ともビズリーに殺された」
「だけどさあ、何で殺されたわけ?八年前にその子を争って、ってんならわかるけど十年前なんだろ?」
リドウの問いに、ヴィクトルは視線を逸らして言った。
「……あの頃、私たちとビズリーはある事で対立していた。その結果、邪魔になると判断され殺されたのだ」
そこまで語ると、ヴィクトルは優しい目で娘を見た。
「エル、パパはもう少しこの人たちとお話があるからジュードとルドガーとお外で遊んできなさい」
詰まらなそうに座っていたエルが父親と同じアクアグリーンの瞳を輝かせる。
「良いの?」
「ああ、お話が終わったら呼ぶから、それまではお外にいなさい」
ヴィクトルがちらりとジュードを見る。ジュードは何か痛みに耐える様な顔をして、こくりと頷いて席を立った。
「行こう、ルドガー」
「でも……」
「ヴィクトルさんが決めた事だ」
「……」
やがてルドガーも席を立ち、エルの前で身を屈めて優しく手を差し出した。
「俺はルドガー。こっちはジュード。一緒に遊んでくれるか?」
エルはじっと二人を見上げた後、にこっと笑っていいよ、とその手を掴んだ。
「一緒に遊んであげる!」
ルドガーが繋いだ手とは反対側の手をジュードが繋ぎ、二人の間でエルが楽しそうに話しながら出ていく。
ぱたりと扉が閉まり、その後ろ姿を見送っていたヴィクトルがユリウスとリドウを見る。
「さっき見せたとおり私がこの世界の時歪の因子だ。そして、道標でもある」
「お前が集めたっていう道標はどうしたんだよ」
「あれはもうカナンの地へ行こうとした時に消費してしまった」
リドウがちっと舌打ちをする。まだ残っていれば楽だったのに、とでも思っているのだろう。
「君たちは道標を集めなければならない。そして、オリジンに全ての分史世界の消去を願ってほしい」
決してビズリーに行かせてはならない、とヴィクトルは強く言った。
「ビズリーは分史世界の消去なんてどうでも良いのだ。人の魂の循環が滞った所で精霊であるビズリーには関係のない話だからな」
「でもさあ人間が死ぬと精霊になって精霊が死ぬと人間になるって話じゃなかったか?」
「今の循環はそうなっている。だが人間がその輪から外れた所で精霊は精霊に生まれ変わるだけで何も問題はない」
「なら、ビズリーの本当の目的は何だ」
「全ての人間を消去し、精霊だけの世界を築く事」
ヴィクトルの言葉に二人は目を見開く。はあ?とリドウが声を上げ、ユリウスは言葉を失った。
「ビズリーが人間を憎むに至った理由までは私は知らない。だが私たちは偶然にもあの男の目的を知ってしまった」
その為にヴィクトル達はビズリーと対立し、争いになった。
それを聞いていたリドウがなあ、とヴィクトルに聞いた。
「ビズリーを止める為に鍵を殺したのってさあ」
「……私たちだ」
初めはヴィクトル達もビズリーが分史世界の消去を願うのだとばかり思っていた。
だから他の道を探そうとした。違う願い方をすれば自分たちも正史世界も助かる道があるのではと。
しかしビズリーの本当の狙いは人間を消し去り、精霊だけの世界を作る事だった。それでは正史世界すら救われない。
思い詰めた結果、鍵の能力者を殺してしまった。そしてそれを知ったビズリーと戦いになった。そしてユリウスとリドウ、ジュードが殺された。
「主を失い、仲間を失い、自分自身すら見失った私をビズリーは捨て置いた。放っておいても自滅すると思ったのだろう」
だがそこでヴィクトルは妻となる女性と出会った。
「もう審判には関わるまいと誓った。ただの人として生きようと。だが生まれてきた娘は鍵の力を持っていた」
そしてそれがビズリーに知られてしまい、再び争いとなった。
「時計を破壊し、ビズリーを消滅に追いやった私はこの世界の時歪の因子となり、道標を宿した」
だから私では駄目なのだ、とヴィクトルは言う。
「エルを正史世界の君たちに託し、分史世界の消去を願ってもらいたい」
「……この世界はもう良いんだな?」
「主を失い、仲間を失い、妻も失った。私にはもう娘しかいないのだよ」
あの子が無事成長していく事が、私の唯一の望みだ。ヴィクトルはそう言ってユリウスを穏やかな目で見た。
「エルを、君たちに頼みたい」
「……ルドガー……」
「ビズリーは強い。ハーフ骸殻しか纏えなかった私が勝てたのは奇跡だった。だが君たちはまだ間に合う」
フル骸殻能力を手に入れなさい、とヴィクトルは言う。
「フル骸殻になる方法があるのか?」
ユリウスの懐疑的な目にヴィクトルは力強く頷いた。
「ある。ハーフ以上の骸殻能力者なら纏う事は可能だ」
「どうすればいい」
「フル骸殻を纏うには己の精霊との関係が重要だ」
「関係?仲良くしろってやつ?」
ヴィクトルはくすりと笑って突き詰めればそういう事だ、と言った。
「……なあ、まさか」
「そう、ビズリーがフル骸殻を纏えるのは主であるコーネリアと交わったからだ」
ユリウスが目を見開き、リドウはマジでか、とテーブルに突っ伏して呻く。
「君たちがそれぞれ自分の精霊と交わる事が出来れば、君たちはフル骸殻を手に入れられる。ルドガーも同じだ」
「ジュードは?」
「主と交わるという事は能力を共有するという事だ。交わればジュードもまた骸殻を纏えるようになるが主が人間である分、その能力は下がる」
恐らくハーフか、良くてスリークォーターだろうとヴィクトルは言った。
「さっきお前は自分はハーフ骸殻しか纏えなかったって言ったよな」
「私とこの世界のユリウスは残念ながら一線を越えることは出来なかった。それはこの世界のリドウとジュードも同じだった」
そういえば、とリドウは思い出す。
「前にジュードに能力の底上げは出来ないのかって聞いたら黙ってたんだけど、あれって知ってて黙ってたわけ」
リドウの問いにそうだろうな、とヴィクトルは言った。
「通常は言うべき事ではないとされているからね。だから言わなかったのだろう。私たちの防衛本能のようなものだ。許してやってくれ」
さて、とヴィクトルは立ち上がると窓辺に立った。エルたちが湖のほとりでしゃがみこんで何かしている。絵を描いているのだろうか、それとも貝殻を探しているのだろうか。
それを穏やかな目で見つめ、やがてヴィクトルは二人を振り返った。
「私を殺しなさい」
「っ」
「……覚悟は決まっているようだね」
リドウが骸殻を纏い、武器を手にするとすっとユリウスの腕がそれを遮った。
「おい、まさか止めろとか言うんじゃないだろうな」
ヴィクトルは未来のルドガーだ。ルドガーに甘いユリウスが情に流される可能性は十分にあった。
だがユリウスはそうじゃない、と首を横に振って自らも骸殻を纏った。
「俺にやらせてくれ」
「……」
じっとユリウスを見ていたリドウはちっと舌打ちして骸殻を解いた。
「……すまない」
「おーっと、お前の口から謝罪の言葉を聞く日が来るなんてな」
茶化したように言いながらも、リドウは出来るんだな、とユリウスに問う。
「ああ……」
ヴィクトルが仮面を外し、時歪の因子反応が溢れ出す。ユリウスはヴィクトルと視線を合わせたままその胸元へ剣を突き立てた。
血塗られたその剣を引き抜くと、そこには闇を纏った歯車が突き刺さっていた。
歯車が澄んだ音を立てて砕け散り、その中から光り輝く歯車が現れる。
これが、道標。ユリウスがそれを手にすると同時にヴィクトルの体がぐらりと傾いた。
「ルドガー!」
ユリウスが骸殻を解いてその体を抱き留める。その腕の中でヴィクトルはどこか安堵した様な表情で見上げてきた。
「……エル、を……」
「ああ、約束する」
力強く頷いたユリウスに、ヴィクトルは穏やかに微笑んでユリウスの頬に手を添えた。
「ありが、とう……にい、さ……ん……」
「ルド……」
ふわっとルドガーの体は闇に溶け込むようにして霧散した。ユリウスの手の中には光り輝く道標だけが残される。
「……さあ、行こうぜ。この世界はもう終わる」
「……」
ユリウスは無言で立ち上がるとその家を出た。
二人が振り返る事は無かった。

 

 

 

生まれ育った世界が壊れ、正史世界にやってきてもエルには当然状況の理解など出来なかった。
家に帰る、と言うエルをルドガーとジュードが何とか宥めては言い包め、一先ずディールへと戻ってきた。
大部屋しか空いてない、と言われリドウが舌打ちする。だが今はその方が都合が良いのは確かだ。
部屋でこれからの事を話しあう。ジュードとルドガーもビズリーの真の目的まではさすがに知らなかったらしく、目を見開いていた。
「で、フル骸殻に至るための方法があるって聞いたんだけど?」
リドウがじとっと座った眼でジュードを見る。ジュードはそれは、その、と俯いて言い難そうに言った。
「ある、けど……」
「何で言わなかった」

「それは、その……」
ジュードは視線を上げるとルドガーをちらりと見た。仕方ないと言う様にルドガーが頷き、ジュードが口を開く。
「フル骸殻になるにはそれだけのマナが必要だし、力が強い分、時歪の因子化のリスクが高まるからフル骸殻を使おうと思うなら、その……」
「そのたびに交わる必要がある、という事か」
「……そう、です。それぞれの負担も大きいから僕たちの間では言わなくていいって事になってて……」
それに、その、とジュードは見る間に頬を朱に染めると消え入りそうな声で続けた。
「持ち主と精霊がするのって、その、凄くいい、らしくて……持ち主がそれに溺れちゃうのを防ぐっていうのもあって……」
ぼそぼそと恥ずかしそうに言うジュードに、リドウとユリウスは顔を見合わせる。
「もう!僕ばっかり恥ずかしいんだからその事に関してはルドガーに聞いて!」
「ええ!お、俺だって恥ずかしいんだけど……」
知らない、と顔を背けてしまったジュードに、リドウはそれについては後でじっくり聞かせてもらうとして、と話を切り替える。
「ビズリーが精霊だって何で言わなかった」
「それは……俺たちは本人が自分は精霊だと宣言しない限りはそれを言ってはならない事になってるから……」
「精霊を守るための暗黙のルールみたいなものなんだ。僕らは生まれた時からそう刷り込まれてる」
するとリドウが面倒臭え、と呻いてベッドに倒れ込んだ。
「どうするんだよ。このままじゃビズリーの思惑通りに進んじまうぞ」
すると考え込んでいたユリウスが視線を上げる。
「今はビズリーに従っておこう。何であれ道標を揃えるまでは知らないふりをしていた方が良い」
そしてビズリーより先にカナンの地へ向かい、全ての分史世界の消去を願うのだ。
「今の所はそれしか方法が無いだろう。俺たちは最初の道標と鍵を手に入れた。今はそれで良しとするしかない」
ユリウスの視線が一番奥のベッドを見る。そこには歩き疲れてぐっすりと眠るエルがいた。
「……あの子には、酷な事だとは思うが……」
いっそあの世界と共に消滅していた方が良かったと思う日が来るかもしれない。しかしそれでも自分たちには彼女の能力が必要なのだ。
全てはこの正史世界を、否、自分たちの世界を守るために。
人間は本当に身勝手で傲慢だな。ユリウスはそう思いながらも、それしか方法はないのだと知っていた。
「で、フル骸殻の件はどうするんだよ」
ベッドに寝そべったリドウの指摘にうっと言葉に詰まる。
「その……ルドガー、それしか方法は無い、のか?」
ルドガーは気まずそうにしながらふるふると首を横に振った。
「骸殻を纏う為に時計が必要なように、フル骸殻を纏う為には精霊と持ち主の心身の強い結びつきが必要で……」
「だからただ交わればいいってわけじゃなくて、気持ちが通じ合っているって事が大前提としてあるわけでして……」
では少なくともビズリーとコーネリアはお互いに愛し合っていたという事だ。
ならば自分たちはどうなのか。ユリウスとリドウはちらりと視線を交わし、ふいっとそっぽを向く。
リドウは今までジュードは自分が生き残るための道具だと自らに言い聞かせてきた。
一方のユリウスはルドガーを本当の弟の様に思ってきた。
抱けるのか、と言われればリドウは抱ける。それも仕事だと割り切れる。だがそれではきっとフル骸殻には至れないだろう。
どれだけ体を交えても、心が伴っていなければ意味がないのだとジュードは言った。
ルドガーを心から大切にしているユリウスならばきっとフル骸殻を纏う事も可能だろうが、しかしユリウスの場合ルドガーを抱けるのかという所が問題だった。
家族として愛してきたのに、その相手に突然肉欲を抱けと言われても戸惑うばかりだ。
「……それに関してはもう少し考えさせてくれ」
「……俺も」
今夜に限っては二人きりじゃなくて良かった、と大部屋である事に感謝してその話は打ち切った。

 


エルはビズリーの保護下に入り、一先ずユリウスのマンションで一緒に暮らす事になった。
エルには世界を救う特別な力があり、だから目的が達成されるまではヴィクトルの元へは帰れないのだと説明してあった。
最初は文句を言っていたエルも、子供らしい正義感と世界を救えば父親も助かるのだという言葉を信じて協力する事にしたらしかった。
世界が救われれば父親が迎えに来てくれるのだと、健気に信じるその姿に胸が痛んだ。
エルはクルスニクの鍵だったが、時計は持っていないようだった。
鍵である以上、時計を持って生まれたはずなのだが、エルは白銀の時計しか見た覚えがないという。
パパの宝物なんだよ、とエルは言った。恐らくそれはユリウスの時計であり、ヴィクトル自身だ。エルの物ではない。
ならばヴィクトルが何処かへ隠したのだろうか。もしかしたら疾うに壊してしまったのかもしれない。
何にせよ、あの世界はもう消えてしまった。考えた所で仕方のない事だった。
そしてリドウ達は立て続けに道標を手に入れた。まるで道標同士が呼び合う様に、今まで全く見つからなかったものがとんとん拍子に見つかっていく。
これで道標は三つ。あと二つ道標を見つければカナンの地へと向かえる。
だが、ユリウスもリドウも、未だにフル骸殻能力には目覚めてはいなかった。
力を手に入れなくてはならないという思いはある。だがリドウは今の自分がジュードと交わった所で力を手に入れられるとは思えなかった。
ユリウスも二の足を踏んでいるようで、リドウからすればお前はやる事やれば力が手に入るんだからさっさとしろ、と思う。
そしてそんなある日、新たな分史世界が発見された。深々度に加え、道標の存在確率が高いとの事でリドウとユリウスが向かう事になった。
進入した先はリーゼ・マクシアのキジル海瀑だった。
初めてリーゼ・マクシアを訪れた時はその自然の雄大さに驚いたものだったが、今ではもう然したる感慨もない。
街道方面よりキジル海瀑の奥へ進んだ方が偏差が大きいようだった。辺りを警戒しながらニ・アケリア方面へと向かう。
開けた場所に出た途端、ルドガーが足を止めてふと遠くを見つめた。そちらを見詰めたままルドガーが双剣に手をやるのと同時に三人が身構え、エルが下がる。
水面が盛り上がり、中から巨大な魔物が現れた。そのおぞましい外見に背後でエルが引き攣った声を上げる。
「これは……まさか海瀑幻魔!」
魔物の体から時歪の因子反応が溢れ出す。おいおい、とリドウが骸殻を纏いながら武器を構えた。
「伝説の魔物のお出ましかよ」
ユリウスとルドガーも骸殻を纏い、ジュードは拳を構える。魔物の触手がリドウ達の居た所を目指して振り下ろされた。
「エル、もっと下がって!」
ジュードが叫ぶように声を掛けるとエルは大きな岩まで駆けて行くとその陰に隠れた。
魔物は巨体を揺らして触手で絡め取ろうとしてくる。それを避けながら厄介だな、とリドウは思う。
これが海瀑幻魔なら呪霊術を使う筈だ。呪霊術は命を腐らせると言われており、その為に全身に激痛が走る。そしてそれは術者を倒さない限り解呪されない。
魔物はその巨体に見合った強さを持ち合わせており、四人がかりでも苦戦した。
長期戦にもつれ込み、それぞれに疲労が目立ち始めた頃、ぐわっと魔物の口が開いてそこから闇色の術が放たれた。その先にいたのは。
「ジュード!」
リドウの声にばっとジュードが飛び退き、今までジュードがいた場所を闇色が焼いた。まずい、とリドウは思う。
ジュードは先程触手に囚われた際に足を痛めていた。ルドガーの様に骸殻を纏えればそれくらいの傷は骸殻の治癒能力によって瞬時に治る。
だがジュードは違う。主であるリドウが精霊の血を引ていないが為に、今の時点で骸殻を纏うことは出来ない。
拳を武器とするジュードはルドガーに引けを取らぬ程の十分な強さを持っていたが、しかしそれは万全の状態での事だ。
魔物もそれをわかっているのだろう、先程から執拗にジュードを狙っている。
立て続けに闇色の術が放たれる。あれは恐らく呪霊術だ。精霊であるジュードにも有効なのかはわからない。
だが、もし有効なら?
「!」
視界の端でジュードががくんと吊り糸が切れた人形のように膝をついた。そこに闇が迫る。
リドウは反射的に地を蹴り、ジュードの前に飛び出していた。
衝撃が全身を襲う。全身を激痛が走り、リドウは倒れ込んだ。
「リドウ!」
ジュードの悲鳴じみた声が響く。蝕まれていく激痛に意識が遠のき、しかしそのまま気を失う事は許されずリドウは低く呻いた。
何度もジュードがリドウを呼ぶ声を聴いた気がする。どれくらいの時間が流れたのかもわからない。
ふっと痛みが消えて、リドウはやっと倒したのかよ、と薄れゆく意識の中で思った。

 


温かい光に包み込まれる様な、そんな感覚の中、リドウはふっと意識を取り戻した。
「リドウ!」
視線の先には、ぼろぼろと涙を流して治癒術を掛けるジュードがいた。
「……酷い顔してるねえジュードちゃん」
薄く笑って見上げると、だって、とジュードがまた大粒の涙を零した。
「なんで僕を庇ったの!僕は時計さえ無事なら何とかなるんだから!」
「折角庇ってやったのにそういう事言う?」
「だってリドウ、死んじゃうかと思っ……!」
言葉を詰まらせて涙を零し続けるジュードに、馬鹿か、とリドウは微かに笑う。
あの瞬間、地を蹴ったのは本当に反射的なものだった。自らが術にかかろうが、それでもジュードを守りたいと思った。
リドウがどれだけ自分らしくないと蓋をし、目を背けていてもそれが本当の想いなのだろう。
「なんでお前を庇ったのかだって?それくらい、分かれよバーカ」
「なっ……」
くつくつと笑いながらゆっくりと身を起こす。倦怠感はあったがそれ以外は問題ないようだった。
「あーあ、砂まみれ。嫌になるね」
服を叩き、髪にまで入り込んだ砂粒に舌打ちする。すぐにでもシャワーを浴びたい気分だ。
「で、ユリウスたちはどうしたんだよ」
「向こうの方でエルと一緒に貝殻探ししてるよ」
「……俺の心配はしないわけね」
何とも言えない微妙な表情をしたリドウに、そうじゃなくて、とジュードが座り込んだまま俯いて言う。
「リドウは僕が見るからって、僕が行かせたっていうか……」
見下ろした先のジュードの耳が赤く染まっていて、ふうん、とリドウはにやりと笑って手を差し伸べた。
「何それ、独占欲?」
「ち、違っ、ただ、ユリウスさんもルドガーも治癒術使えないから……っ!」
リドウの手を取って立ち上がったジュードがかくんと再び座り込む。
「……お前ねえ、俺の治療ばっかりで自分の治療忘れてたろ」
「だ、大丈夫だから……」
右の足首に当てられたジュードの掌が淡く光る。その優しい緑の光を見下ろしながらリドウは思う。
今までずっと自分ではジュードを抱いてもフル骸殻には到達できないと思っていた。だから交わろうとしなかった。
だがそれはただ単に怖かっただけなのだ。ユリウスと違って自分はただの人間だ。
ジュードを抱いて、それでもフル骸殻に到達できなかったらと思うと前に進めなかった。
だけどもう認めよう、受け入れよう。自分はジュードが好きなのだ。
力を手に入れる為だとかそんなのではなく、ただ傍にいてほしいのだ。
ジュードに触れたい。
リドウは初めてリスク解除だとか能力向上だとか、そんな肩書きも無く心からそう思った。

 

 


その日はGHSで報告を済ませ、イラート海停で宿をとった。
エルをユリウスとルドガーに押し付け、リドウはさっさとジュードを連れて部屋に向かうとシャワーを浴びて埃っぽくなっていた体を清めた。
「あーもうほんと気持ち悪かった」
タオルで濡れ髪を押さえながら言うと、ジュードがくすりと笑う。
「リドウは綺麗好きだものね」
「ジュードちゃんも入っておいで。出てきたら食事、させてやるよ」
ふざけてちゅっと投げキッスと飛ばすリドウに、ジュードはもう、と頬を赤くしながらも足取り軽くシャワールームへと向かった。
リドウが報告書を纏めているとやがてジュードが戻ってきた。髪の先からは拭いきれていない雫が肩に落ち、染みを作っている。
リドウは手を止めるとベッドに座り、ぽんと隣を叩いた。
「ジュードちゃんさあ、それわざと?」
隣に座ったジュードの髪をタオルで丁寧に拭ってやるとふふっとジュードが笑う。
「だってリドウが拭いてくれるから」
「……」
するとリドウの手がぴたりと止まり、ジュードがどうしたの?とリドウを見上げると口付けられた。
「んっ……」
ぬるりと入り込んでくる舌におずおずと自分の舌を絡めていく。もうずっとこうして毎日口付けを交わしてきているのに毎回緊張してしまう。
「……は……」
今日もたっぷりとマナを分け与えられ、とろんとした瞳でリドウを見上げるとリドウは再び口付けてきた。
え、と思う。いつもは一回キスしたらそれで終わりだ。それはリドウが十二歳の時にジュードが目覚めて以来変わらなかった。
なのに、どうして。ジュードが戸惑いながら二度目の口付けを受けているとそのままベッドに押し倒される。
「ん……ふ……」
漸く唇が離れ、どうしたのだろうとリドウを見上げると、ジュード、と静かにその名を呼んだ。
「な、に……?」
いつにない真剣な声音にどきりとしながら見上げていると、お前を抱きたい、とリドウは告げる。
「え……?」
「力はそりゃあ欲しいけど、そうじゃなくて、俺がお前に触れたいんだよ」
かあっとジュードの頬に朱が上っていく。それって、と恥ずかしそうにジュードは言った。
「僕の事が……好き、って事……?」
頬を朱に染めながらもどこか期待するように見上げてくる視線に、何て言って欲しいんだ?とリドウは問い、ジュードの耳元に唇を寄せて低く囁いた。
「お前が好きだ」
「!」
「愛してる」
「ちょ、リドウ……!」
「抱きたい」
「は、恥ずかしいから……!」
顔を真っ赤にしているジュードの頬に口付けながら恥ずかしいだけなのかな、とリドウは笑う。
「本当は?」
意地悪く見下ろすリドウに、ジュードはぼそぼそと小さな声で嬉しい、と言った。
「僕も、リドウが好き、だよ……」
「オーケィ、良い子だ」
ちゅっちゅと音を立ててジュードの額や頬、目尻と顔中に口付けて、最後にリドウはその唇をまた味わう。
戸惑いながらも背に回される腕に、リドウは胸の内が温かなものに満たされていくのを感じた。

 


ジュードの体は普通の人間と変わらないように思えた。
けれど肌は手に吸い付くような肌理の細かさだったし、シミ一つないその白い肌は極上のアンティーク・ドールのようだった。
そもそもジュードの肉体は時計を媒介にしてリドウのマナで実体化している。
見た目こそ人間そのものだがあくまで彼らは精霊だ。何も知らない人から奇異の目で見られぬよう歩かせているが本人たち曰く浮いている方が楽だという。
なのに生殖能力はあるというのはおかしな話だった。クルスニク一族に骸殻能力と時計の精霊を与えたのは大精霊クロノスらしいが、どういうつもりだったのか聞いてみたいところだ。
「あ、んっ……あっ」
つらつらとそんな事を考えながらリドウはジュードの熱を舐っていた。その長い指は更にその奥の蕾を貫いている。
じゅぷじゅぷと卑猥な音を立てて吸われ、その音に隠れる様に粘膜を擦る微かな音が聞こえてきてジュードは赤くなりながらもそれを受け入れる。
「ん、あ、だめ、もう出ちゃ……!」
だから離して、と続けようとしたがリドウが吐精を促す様に強く吸ったので、ジュードは背を撓らせてリドウの口内に熱を放った。
「ん、んんっ……!」
ぴゅくぴゅくと吐き出されるそれを飲み下し、唾液で濡れた唇をちろりと舐めるとリドウはその奥を貫く指を引き抜いて身を起こした。
ズボンの前を寛げ、硬く勃ち上がった自身の熱を取り出すとジュードがのそりと身を起こして僕もする、と言った。
「僕ばっかり気持ち良いのは、やだ」
ジュードがリドウの勃ち上がった熱に手を添えそっとそれに舌を這わせる。リドウがしてくれたように、と思いだしながら銜え込み、舌で裏筋を擦る。
それはぎこちなく拙かったが、それでもジュードが懸命に愛撫してくれているのだと思うとそれは一層熱を孕んだし、視覚的効果も抜群だった。
幼い顔立ちのジュードが口元を唾液でべたべたにしながら自分の性器を舐っている光景は、リドウを酷く興奮させた。
「……もういい」
「ん……気持ち良く、なかった……?」
不安げに見上げてくるジュードを押し倒し、そうじゃないと笑ってその細い脚を抱え上げた。
「俺がもう我慢できないの」
リドウがジュードの奥まった場所に熱を押し当てるとふるりとジュードの体が震えた。
「怖い?」
ジュードはふるふると首を横に振り、嬉しいんだ、と微笑んだ。
「リドウと一つになれるのが、嬉しい」
「……あんまり煽らないでくれる?我慢するの大変だから」
リドウはそう苦笑してからぐっと腰を進めた。
「んっ……」
念入りに解したそこはゆっくりとリドウの熱を飲み込んでいく。太い部分が飲み込まれると後は思っていたより簡単に入り込んでいった。
「あ、あっ……!」
「っ……」
その内壁の熱さと締め付けにリドウは奥歯を噛み締めて射精感をやり過ごそうとする。今までにない強い快感がリドウの全身を駆け巡った。
内壁自体に意思があるかの様に、きつすぎない程度にリドウを締め付けてひくひくと蠢いている。
リドウは熱を孕んだ息を漏らして駄目だ、と囁くように告げた。
「挿れただけなのにもうイキたい。マジでヤバイ」
「や……まだリドウを感じていたいから、イッちゃだめ……」
熱と涙で潤んだ瞳で見上げてくるジュードに、だから、とリドウはその唇にちゅっと口付けて言う。
「そうやってほいほい煽ると、後で泣きを見るぜ」
リドウの言葉に、良いよ、とジュードは微かに笑う。
「リドウになら、泣かされたって良い……」
「っ……ああもう!」
「ひあっ」
ぐいっと奥を突き、ジュードの体がびくんと跳ねる。抜け落ちるギリギリまで引き抜いて再び奥を突くとジュードが甲高い声を漏らした。
だがリドウの方も強い快感が全身を貫き、耐えねばならなかった。
「あっ、あっ、んっ、あんっ」
動くたびに繋がったそこがくぷくぷと音を立てる。一度動いてしまうともう止まらなかった。
「あ、あっ、あっ、んっ」
「……っは、ぁ……」
やばい、何だこれ、気持ちいい。リドウは腰が溶けそうな感覚に陥りながらひたすらジュードの奥を抉った。
繋がったそこから溶けて行くような、細胞の一つ一つから溶け合っていくような感覚にリドウも喘いだ。
「ジュード、ジュード……!」
「あっ、んんっ、ふ、あっ、リド、リドウ……!」
もう駄目だ、何も考えられない。リドウは白く快感に染まっていく思考の中で達した。
「……っ……」
一気に脱力してジュードの上に伸し掛かる。ジュードも荒い息を吐きながらリドウに頬を寄せた。
「……フル骸殻、なれるといいね……」
その言葉にリドウが顔を上げ、じっとジュードを見下ろしてくる。
「……なれなくても、お前は一生俺の、俺だけの精霊だ」
微かに目を見張ったジュードは、次の瞬間心底幸せそうに笑って頷いた。

 


フル骸殻を纏うにはまずは通常の骸殻を纏い、その状態で更に能力を開放する必要があるという。
翌朝、リドウが骸殻を纏ってみると確かにいつもと変わらぬハーフ骸殻だった。
意識を集中して、気を高めて。そう言われてリドウは目を閉じて意識を研ぎ澄ませていく。
ふっと何かを突き抜けたような感覚があって、リドウは目を開けた。
視界は何も変わっていないように見える。だが己を見下ろすと、下肢にまで骸殻が及んでいた。
ひたりと顔に手を当てると、見えないがそこには顔と頭部全体を覆う様に何かが確かにあった。
ジュードへ視線を移すと、彼はおめでとう、と涙を浮かべて笑っていた。
骸殻を解くと一気に強い倦怠感が襲ってきてリドウはその場に崩れ落ちそうになる。
「リドウ!」
その体をジュードが支え、ベッドに座らせた。
「大丈夫?」
「確かに負担は大きい、か……」
だが。リドウは己の手を見おろし、ぎゅっと握る。確かに得た力に、リドウは薄く笑った。
そして傍らの相棒であり、伴侶となったジュードを抱き寄せるとその額に口付けを落とす。
「これからは超濃厚な食事を摂らせてやるから、楽しみにしていろよ」
さっと頬に朱を上らせたジュードは恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑って頷いた。
そして二人で部屋を出て、食堂へと向かうとそこには既にユリウスとルドガー、そしてエルがいた。
ユリウスとエルは既に朝食を食べ始めており、エルは遅れてやって来た二人に遅ーい!と声を上げた。
それを軽く受け流して席に座り、適当に朝食を頼んだリドウはにやにやとしながらユリウスを見る。
「何だ気持ち悪い」
「いやあユリウス君に報告しなきゃならない事があってさあ」
「勿体ぶるな。さっさと言え」
「俺、フル骸殻に到達しちゃった」
「!」
「え!」
ユリウスが固まり、ルドガーが声を上げてリドウを見てジュードを見た。顔を赤くして視線を落としているジュードに、リドウの言葉が真実なのだと知る。
「俺の足ひっぱんなよ?ユリウス君?」
にやにやと勝ち誇った笑みを浮かべるリドウにユリウスがぐっと言葉を詰まらせ、その隣でルドガーが拗ねたように唇を尖らせる。
「……兄さんのヘタレ」
「うっ」
何も言い返せないユリウスに、リドウは声を上げて笑った。

 


リドウがフル骸殻に至ってから遅れる事一旬。ユリウスも何とかフル骸殻に達した。
決まり悪げにしているユリウスとにこにこと上機嫌なルドガーに、リドウは思う存分笑った。
これによってルドガーもフル骸殻を纏えるようになり、ジュードもスリークォーター骸殻を纏えるようになった。
ルドガーはハーフの時は黒いボディに黄色の差し色だったが、フルに至ると差し色は白に変わっていた。
ジュードの差し色はユリウスより濃い青で、幅広の翅飾りのようなものが背から垂れていた。
リドウはずっと気になってたんだけどさあ、とユリウスを見て言う。
「お前らの背中のひらひらって何なの?」
「そういうお前だって背中からなんか角みたいなの生えてるだろ」
「……」
「……」
二人は睨み合った後にそれぞれの伴侶を見るが、しかし僕らだって知らないよ、とジュードがふるふると首を横に振った。
フル骸殻に至った事はビズリーは勿論周りにも隠して日々を過ごした。分史世界の破壊もフルに至らなくても達成できたので隠す事は容易だった。
そんなある日、最後の道標があると予測される分史世界が発見された。
早速ユリウスとリドウが派遣され、二人は周りの期待に応える様に最後の道標を手に帰還した。
分史世界の破壊と道標の回収完了の報告の連絡を入れると、そのままマクスバード・リーゼ港へ向かうように言われる。
リーゼ港へと向かうと、そこにはビズリーが待っていた。
ビズリーは四つの道標をユリウスに渡すと、五つ揃ったそれを五芒星に並べなさい、と告げた。
訝しげにビズリーを見るが、何も答えないビズリーにユリウスはそれをエルに渡した。
「これはエルのお陰で手に入れる事が出来たものだ」
「エルの、お陰……」
エルの言葉にそうだ、とユリウスは頷く。
「だからエルが並べてごらん」
道標を受け取ったエルは、手の中のそれをじっと見下ろした後、再びユリウスを見上げた。
「ゴボーセーってどんな形?」
ユリウスはくすりと笑うと指先で五芒星を示した。
「星の形だよ」
エルはこくりと頷くとそれを石畳の上に並べる。すると道標がより強い光を発し、舞い上がった。
カチカチと音を立てながら一つになっていくそれを見上げていたエルが振り返り、ルドガーを見る。
「……ねえ、ルドガー」
「うん?」
「ルドガーは……」
エルが言い淀むと、ジュードが何かに気付いてはっと空を見上げた。
一同の視線が空に向かう。見る間に空が暗くなり、割れた。そこから現れた胎児を抱いた巨大な球体に、ユリウスがまさか、と声を上げる。
「あれが、カナンの地……?」
「冗談にしちゃ笑えないね」
「でも、現実だよ」
ビズリーがふん、と鼻を鳴らしてそれを見上げた。
「オリジンめ、あんな所に隠していたとはな」
「でもどうやってあそこへ行くんです?空中戦艦でも飛ばすんですか」
リドウの問いに、いや、とビズリーは首を横に振る。
「それでは近づく事も出来ん。時計の力が必要だ」
では、と問うと頭上から声が降ってきて振り返った。
「まさか本当に道標を揃えるとはな」
銀の長い髪と金の眼、褐色の肌を持つ精霊が空に浮かんでいた。
「クロノスか」
ユリウスとリドウがビズリーをちらりと見てそして再び精霊を見上げる。これがクロノス。クルスニク一族に骸殻能力と時計を授けた大精霊。
「分史世界の総数はあと僅かで百万に達する。どちらにしろ人間は滅びるのだ。何故カナンの地を出現させた」
そうだ、とリドウは思う。ヴィクトルはビズリーの目的は人間を消し去って精霊だけの世界を作る事だと言っていた。
それは分史世界の増殖を放置しておけば自然と達成される事だ。わざわざ道標を集めてカナンの地を出現させる必要などなかったはず。
するとビズリーはふっと微かに笑みを浮かべた。
「オリジンは最初にその座に辿り着いた者の願いを一つだけ叶える」
それがどんな願いであろうと叶えなくてはならない。それがオリジンが自ら作り上げた絶対のルールだ。
「私にも、願いがあるのだよ」
その言葉にクロノスがふんと鼻を鳴らす。
「人間として生きる内に我欲を生んだか」
「好きに言うが良い」
「どうあがいた所で審判が我らの勝利で終わる事は目に見えている。好きにするがいい」
クロノスはそういうと空高く舞い上がり、消えて行った。
それを見送ったビズリーはユリウスを見ると、お前は社に帰れ、と告げた。
「後は私に任せればいい」
「待て、お前の目的とは何だ。オリジンに何を願うつもりだ」
「お前は知らなくて良い」
切り捨てる様なそれに、ユリウスがかっとなる。
「あんたはいつもそうやって……!」
「落ち着いて、兄さん」
寄り添うルドガーにビズリーはほう、と微かに目を見開いた。
「兄と呼ばせているのか。己の下僕に」
「ルドガーは俺の家族だ!たった一人の、俺の家族だ」
ビズリーは何処か懐かしいものを見るような目をした後、まあいいと告げてカナンの地を見上げた。
「私はカナンの地へと渡る。お前たちは社で大人しくしていろ」
「そうは行きませんねえ、社長?」
リドウが一歩前に出てユリウスと並び立つ。
「社長が分史世界の消去を願ってくれないなら、俺たちが行くしかないでしょう?」
「お前たちが私に勝てるとでも?」
「それがねえ、社長」
言いながらリドウはハーフ骸殻を纏う。
「俺らって優秀だから、社長にも勝てちゃうんじゃないかって」
ぶわっとリドウの気が高まり、骸殻が変化していく。
「これは……!」
「……思っちゃうわけですよ」
フル骸殻を纏ったリドウに、ビズリーが目を見張る。その傍らでジュードもまたスリークォーター骸殻を纏う。
「交わったのか、自らの精霊と……!」
「おっと、俺だけじゃないですよ?」
なあ、ユリウス。その言葉にユリウスは無言のままスリークォーター骸殻を纏い、フル骸殻へと成長させる。
ルドガーもまた骸殻を纏い、エルを振り返ると小さく頷いた。
エルはこくりと頷くとその場を離れる。少女が十分離れたのを確認して、ルドガーはビズリーと向き合った。
「フル三人とスリークォーター。倒せますかね、社長?」
するとビズリーはくつくつと喉を鳴らして笑い、面白い、と自らの時計を取り出して構えて骸殻を纏った。
その痛いほどの闘気にリドウも笑みを消して武器を構える。
「相手になってやろう」
ビズリーが重い音を立てて地を蹴り、戦いは始まった。

 

 


ビズリーは強かった。四人がかりでも苦戦した。
だがユリウスとルドガーの放った共鳴術技によってビズリーが膝をつき、骸殻が解ける。
かしゃんと石畳の上をビズリーの金の時計が転がってユリウスの爪先に当たった。それを踏み潰そうとしたユリウスをルドガーが止める。
「止めるな、ルドガー」
「でも、ビズリーさんは兄さんの……」
膝をついたビズリーが荒い息の中、ふふっと笑った。
「甘いな、ルドガー。私をここで止めねば人の世は終わる。ユリウスも死ぬぞ」
「……」
視線を落とすルドガーに、ユリウスが良いんだ、としがみ付く手をそっと剥がした。
「これは、俺がやらなくてはならない事だ」
ユリウスが片足を持ち上げ、迷わずその時計を踏み砕いた。ビズリーの体が淡い光を放ち、崩れ出す。
「……コー……リア……」
ふわりとビズリーの体が霧散し、時計も消えて行ったのを見送った四人は骸殻を解く。ルドガー!と声がして振り向くと、エルが駆け寄ってきた。
飛び込んできたエルを抱き留め、ルドガーはユリウスを見る。
「兄さん……」
ビズリーの消えた場所をじっと見つめていたユリウスはルドガーを見て微笑んだ。
「……大丈夫だ」
「で、どうやってあそこへ行くんだ?社長は時計の力がいるとか言ってたけど」
「僕らにはあそこまで行くための橋を架ける術が組み込まれてる。僕らが橋を架けるよ」
ジュードとルドガーが視線を交わし、頷き合うとカナンの地へと手を突きだし、その掌から闇色の光を生み出した。
空気を裂く様な音を立てて二本の闇は絡み合い、混ざり合いながらカナンの地へと伸びていく。
そして二人の前に歯車を模した入り口が生まれ、それぞれの主を振り返った。
「行こう、カナンの地へ」
「オリジンの審判を、終わらせよう」
リドウとユリウスは頷くとそれぞれの伴侶と手を繋ぎ、ジュードとルドガーがもう片方の手でエルの手を握ってその中へと飛び込んだ。

 


「そうか、ビズリー・カルシ・バクーは敗れたか」
カナンの地の最深部に辿り着くと、そこにはクロノスが待ち構えていた。
九十九万九千九百九十九を刻んだ巨大な門に、危ない危ないとリドウが肩を竦めた。
「間一髪じゃないか」
しかしクロノスがいいや、と否定する。
「お前たちは間に合わない。私がお前たちの命の時を止めるのだから」
そしてそれぞれの主の傍らに立つジュードとルドガーを見下ろして告げた。
「ジュード、ルドガー。お前たちの役目はじきに終わる。我の元へ戻ってこい」
「いいえ、クロノス様」
ジュードが緩やかに首を横に振って言う。
「僕の主はリドウです。ルドガーの主はユリウスさんです。もう、あなたじゃない」
その強い意思の込められた視線に、クロノスは呆れたように嘆息した。
「我が子らよ、何故そのように人間に拘る」
「リドウもユリウスさんも僕たちを大切にしてくれた。愛してくれた」
「俺たちは、それに応えたいんだ」
「愚かしい。そのようなものに惑わされ、道を誤るとは。お前たちの役目は持ち主を時歪の因子化させ、分史世界を増殖させる事だったはず」
ユリウスとリドウの視線が二人に向けられる。だがジュードもルドガーも確かにそうです、と頷いた。
「だけど、持ち主が僕らにくれた愛情が使命を上回ったんだ」
「二千年という長い年月の中で、俺たちは人に愛される事、人を愛する事を知った。もう、俺たちはただの道具じゃない」
「ではその為にオリジンが瘴気に焼かれ続けても構わないというのだな?」
「だからこそ、僕らはオリジンに願うんです。全ての分史世界の消去を」
それでは何の解決にもならぬ、とクロノスは否定する。
「人の世を終わらせ、我はオリジンを魂の循環の座から解放する」
「戦うしか、無いのですね」
ジュードとルドガーがエルの手を取り、もう片方の手でそれぞれの片割れに手を添えた。
「まさかその娘……」
ジュードとルドガーがリドウとユリウスに触れた途端、二人は強制的にフル骸殻を纏わされた。
体の中を駆け巡る今までとは違った力の流れ。これは。
「そうです、貴方の力を超越するオリジンの無の力。クルスニクの鍵です」
「おのれ!」
クロノスがビットを放つが、地を蹴ったリドウとユリウスによってそれは叩き落される。
「僕たちがエルの力を送るから、クロノスを!」
「兄さん!」
「任せろ」
「りょーかい」
「くっ」
クロノスが忌々しげに呻いて術を放つ。フル骸殻能力者二人を相手にするだけならまだどうにかなる。
クロノスは時空を操る大精霊だ。いくらダメージを受けても時を巻き戻してしまえばいい。
しかし鍵の力を得ているとなると話は別だ。鍵の力はクロノスの力を凌駕するオリジンの無の力。鍵の力で受けた傷は巻き戻す事が出来ない。
鍵の力を受けたリドウとユリウスがクロノスを徐々に追い詰めていく。エルを殺そうとしてもエルはジュードとルドガーが守っていて手出しができない。
次第にクロノスの動きが鈍ってくる。リドウとユリウスは視線を交わすと、共鳴を繋いだ。
「行くぞ、リドウ」
「俺が合わせるのかよ」
共鳴が繋がった二人が同時に地を蹴り、炎を纏ってクロノスに技を叩き込んだ。
「緋凰絶炎衝!」
「ぐあっ」
「止め、刺させてもらうぜ!」
「遅れるなよ!」
「誰に言ってるのかな!」
膝をつき、しかしまだ浮き上がるクロノスに追い打ちをかける様にして二人の攻撃が当たる。
「エクスパシオン!」
クロノスの体が後ろへ吹っ飛び、今度こそ起き上がる事は無かった。
ユリウスとリドウが骸殻を解き、ジュードとルドガー、そしてその二人に守られていたエルを見る。
「さあ、オリジンとご対面だ」
三人が歩み寄り、ユリウスとリドウが九十九万九千九百九十九を刻んでいる巨大な門に手を触れる。
すると低い地響きのような音を立ててその門が開き、瘴気と共に少年を模った光が現れた。
「これが、大精霊オリジン……?」
すると少年を模った光がそうだよ、と答えた。その声も声変わりを迎える前の少年のような声だった。
「こんにちは、リドウ・ゼク・ルギエヴィート」
「俺の事を知っているのか。さっすが無の大精霊」
茶化したような物言いに、オリジンはそうだね、とくすりと笑った。
「君たちの事も知っているよ。ユリウス・ウィル・クルスニク。そして精霊ルドガーとジュード」
魂たちが世界中の出来事を教えてくれるから、とオリジンは穏やかに言う。
「早速だけど、お願いがあるんだよね」
リドウの言葉にオリジンが頷く。
「分史世界の消去、だね」
そうだ、と頷くリドウに背後からふざけるな、と呻くような声が上がった。
「まだオリジンに浄化を強要するのか……!」
ふらつきながらも身を起こすクロノスへとオリジンが手をかざす。すると見る間にクロノスの傷が癒えていく。
「ありがとう、クロノス。ずっと僕の事を心配してくれていたんだね。でも、これが僕と人間が交わした約束だから」
オリジンはジュード達を見渡し、さあ願いを叶えようと告げた。
「君たちは分史世界が百万に達する前にここへ辿り着いた。君たちの願いは分史世界の消去でいいのかい?」
オリジンの問いに、ユリウスが力強く頷く。
「ああ」
そんなユリウスを見詰め、ビズリーは消滅したんだね、とオリジンは告げた。
「彼もまた愛する人の為に殉じた。君たちがお互いを想い合う様に」
「どういう意味だ」
「彼は妻であるコーネリアの復活を僕に願う為に今まで人のふりをして生き続けたんだ」
オリジンは言う。そもそもビズリーが人間を憎むようになったのはコーネリアを人間に殺されたからだと。
精霊との間に儲けられた子供は母体の命と引き換えに生まれてくる。だがコーネリアはユリウスを産み落としても生きていた。
彼女自身もまた精霊とのハーフだった為に耐えきったのだ。
「だけど精霊と交わり、その血が濃くなっていく事を危険視した一族の者たちにコーネリアは殺された」
本来なら精霊のスリークォーターであるユリウスも共に殺されているはずだった。だがコーネリアが襲われた時、ユリウスは偶々コーネリアの元にいなかった。
臥せっているコーネリアに代わって、ビズリーがユリウスを日光浴に連れて行っていたのだ。
「……」
ユリウスに母親の記憶はない。写真も何も見た事のないユリウスにとって、自分を生んだ母親がどんな人間だったのか、まったくわからない。
写真の一枚も残っておらず、ビズリーから母の話を聞いた事もない。ユリウスはずっとビズリーは母を愛していなかったのだと思ってきた。
だから自分の事も大事にしてくれないのだと幼心に思ってきた。
だが、ビズリーは母の時計の精霊だった。フル骸殻は主と精霊がお互いに想い合っていないと到達できない。
ビズリーはビズリーなりに母を愛していたし、母もまたビズリーを愛していたのだ。
「でもさあ、いくら社長の奥さん復活させても瘴気が溢れ出したら意味が無いんじゃないの?」
「もしかしたら彼は、コーネリアと一緒に死にたかったのかもしれないね」
「ビズリー……」
「兄さん……」
心配そうに見上げてくるルドガーに、大丈夫だ、とユリウスは微笑んでオリジンを見た。
「俺たちの願いはもう告げた」
「……わかった。君たちの願いを叶えよう」
オリジンが二対の腕を広げ、その光を増していく。
「全ての分史世界の消去を」
光が天を貫き、ぱあんと何かが割れる音がした。分史世界が消滅した音だった。
それを見届けると、オリジンがクロノスを見た。
「……」
クロノスは仕方ないと言う様にオリジンの傍らに舞い降りる。
「さようなら、人と精霊たち」
低い音を立てて門が閉ざされていく。
「また会う日が、今日より少しだけ良い日でありますように」
ごうん、と音を立てて扉が閉ざされ、九十九万九千九百九十九の数字は約二千年ぶりにゼロを刻んだ。

 


カナンの地から戻り、クランスピア社に向かうとビズリーの秘書だったヴェルが彼らを待っていた。
「おかえりなさいませ、ユリウス社長、リドウ副社長」
二人が顔を見合わせると、今日付けで辞令が降りております、とヴェルが告げた。
「ビズリー前社長が、自分がカナンの地に辿り着けなかった場合はそのように、と」
「ビズリーが……」
「社長、ああもう元、か。元社長も不器用そうだしねえ。あの人なりの親心じゃないの」
「……」
「そういうのって、貴重なんだぜ?まあ、俺には縁のないものだったけどな」
自嘲気味に笑うリドウの手をジュードがそっと握る。
「リドウには僕がいるよ。ずっと、ね」
「……そうだな」
リドウはふっと微笑むと、その手を優しく握り返した。
そんなジュードのもう片方の手にしがみ付く手があった。エルだ。
「……審判が終わったから、エルはもういらないんだよね?」
俯いて言うエルに、ジュードはリドウを見上げるがリドウは首を横に振るだけだ。
「エルね、知ってるんだよ。パパはもう、いないんだよね?」
「エル……」
エルがジュードを見上げ、そしてルドガーを見上げて言う。
「エルのいた世界は分史世界で、ルドガーは、エルのパパと同じ人なんだよね」
「……ああ」
「……エルはもう、いらない子なんだよね」
「エル」
すっとユリウスがエルの前で片膝をついて視線を合わせて告げた。
「確かに君のいた世界はもう存在しない。君のパパももういない」
「っ」
「騙していて悪かった」
ユリウスの言葉にエルがふるふると首を横に振る。
「だからエル、俺たちに償わせてほしい」
「つぐなう?」
「本来なら君がパパと過ごすはずだった時間を、俺たちにくれないか」
「それって……」
「俺とルドガーと、家族になって欲しいんだ」
ルドガーもまた膝をつくとエルに微笑みかけた。
「俺と兄さんと、エルの三人で一緒に暮らそう。エルを独りぼっちになんてしない。約束する」
ジュードもまたしゃがんでにこりと笑って語りかける。
「じゃあ僕はエルの親友になりたいな」
「まあ、たまには遊んでやってもいいけど?」
腕を組んでそっぽを向いているリドウをジュードがもう、と苦笑して見上げる。
「素直じゃないんだから」
「……エル、これからもみんなと一緒にいても良いの……?」
「ああ、俺も兄さんもジュードも、リドウだってずっとエルの傍にいる」
「……っ……ルドガー!」
エルがルドガーにしがみ付いてわんわんと泣き出した。
ずっと我慢してきたのだろう、溢れ出した感情のままに涙を零すエルをルドガーは優しく抱きしめた。

 


カナンの地から戻ってきて一年。
リドウは久々の休みだからと惰眠を貪っていたというのに、ジュードに叩き起こされて不機嫌だった。
「ほら、早く準備しないと遅れちゃう!」
今日はユリウスのマンションでルドガーとエルと一緒にお菓子作りをするという事で、材料を買う為に商業区の入り口で待ち合わせをしているらしかった。
「俺行かなくても良くないか?」
髪を梳かしながら言うと、駄目、とジュードが鏡越しに睨んできた。
「リドウも一緒に行くって約束したじゃない」
「そうだっけ?」
「そうなの!」
それに、とジュードは拗ねたように唇を尖らせて恥ずかしそうに言う。
「折角作るなら、リドウにも食べて欲しいし……」
「……」
リドウは櫛を置くとくるりと振り返り、ジュードの小柄な体をぎゅっと抱きしめた。
「ほんとジュードちゃんって天使だわ」
「え?僕は精霊だよ?」
「知ってる。俺を愛しちゃってるって事も知ってる」
「ふふ、僕もリドウが僕を愛しちゃってるって事知ってるよ」
二人はじゃれ合う様にちゅっと軽くキスをして玄関へと向かった。
「ルドガー達もうマンション出た頃かな」
「待たせておけばいいんだよ」
「駄目だってば、もう」
ぽんぽんと言葉を交わしながら二人は部屋を出る。
閉ざされた扉の向こうで、楽しげな笑い声が響いた。

 

 


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