ヴィクトルがジュードと出会ったのは、まだ自分がヴィクトルを名乗る事になるなんて思いもよらなかった二十歳の時だった。
その頃はルドガーと本名を名乗っていた自分は、特別列車がわからないと言うジュードを案内し、その先でエルとも出会った。
あんな出会い方ではあったけれど、それが全てを変える出会いだったなんて、あの時は思いもよらなかった。
ジュードと共に戦い、そこから一緒に行動するようになって。
そのひた向きさに惹かれていった。ジュードに恋をしているのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
思えば出会った時から惹かれていたのかもしれない。少し控えめに笑う笑顔が可愛いと思った。
初めてジュードと唇を合わせたのは、ニ・アケリアでだった。
分史世界のミラが正史世界についてきてしまった事にジュードは困惑し、どこか落ち込んでいた。
その横顔に庇護欲を掻きたてられた。抱きしめて守ってやりたい。そう思った。思うだけで終わる筈だった。
だがルドガーの体は勝手に動き、ジュードを抱きしめていた。二人きりだったのも良くなかったのかもしれない。
ルドガー?ときょとんと見上げてくるその目尻にそっと口付けると、ぽかんとルドガーを見上げていたジュードが一気に赤面した。
ちょ、ルドガー、何なの?顔を赤くしてそう言いつつルドガーの体を押し戻そうとするジュードの唇に、ルドガーは思わず口付けていた。
だって、可愛かったのだ。頬を朱に染めて、動揺に揺れる蜂蜜色の瞳を見ていたらつい体が動いていた。
それからジュードの方もルドガーをそういう意味で意識するようになったのだろう。不意に視線がぶつかってジュードが慌てて逸らすという事が多くなった。
ルドガーは度々ジュードにキスをした。頬だったり、額だったり、唇だったりした。
その度にジュードは顔を真っ赤にして俯いた。
どうして僕にこんなことするの。ある日とうとうジュードが聞いてきた。
多分、俺はジュードの事が好きなんだと思う。そう答えたルドガーに、多分なの?と何処か不満げに言ったジュードにルドガーは笑みを零して言った。
じゃあ、絶対。それにジュードは恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑った。ルドガーの好きなジュードの笑顔だった。
この頃のルドガーは自分に待ち受けている未来など知らず、ただ運命に翻弄されていた。
それでも、この時が一番幸せだった。何も知らないあの頃。ただ好きだという思いだけで前に進めた。
大切なジュード。大切な兄。大切な仲間たち。大切な、エル。
けれど、エルがクルスニクの鍵だと知ったクロノスによってエルは殺された。殺されてしまった。
そしてそれに追い打ちをかけるようにこの世界にはカナンの地はない事を、つまりは分史世界なのだと知った。
その絶望感に耐えられなかったルドガーはエージェントを辞めて自室に引きこもる様になり、仲間たちとも疎遠になって行った。
ジュードは何度かルドガーを訪ねてきたが、ユリウスによって追い返されていた。
お前はもう余計な事は考えなくていいんだ。普通の人生を生きろ。ユリウスは何度もそう言ってルドガーを慰めた。
余計な事。ジュード達との出会いは、エルとの出会いは、余計な事だったのか。
ルドガーにはわからなかった。ルドガーは働く事もせず時折ふらりと街に出た。
そこで出会ったのが、ラル・メル・マータだった。どの列車に乗ればいいのかわからず、迷っていた所を案内してやった。
ジュードとの出会いを思い起こさせる出会いだった。
ラルとはそれからも何度か会った。仕事の取引先が近くだからこの道をいつも通ってるの、とラルは言った。
次第に二人の距離は近づいていき、ルドガーも働きに出る様になった。
そうして初めてラルの言っていた取引先がクランスピア社だと知ったが、ルドガーにはもうクランスピア社に対して何の興味もなかった。
ルドガーはとあるレストランで厨房助手を務め、その料理の腕を磨いて行った。
そして出会ってから一年後、二人は結婚した。ユリウスだけがそれを知っていた。
更に一年後、娘が産まれた。名前はもう決まっていた。
ピンクゴールドの懐中時計を持って生まれてきた赤子は、エルと名付けられた。
今度こそ、守ってみせる。ルドガーはそう誓った。
けれどラルは産後の肥立ちが悪く、そのまま儚い人となった。漸くエルを得た矢先のラルの死に、ルドガーは打ちひしがれた。
しかし赤子は待ってはくれない。ミルクを与え、おむつを替え、朝も夜もなく面倒を見ている間はラルの死を忘れられた。
そんな時、ルドガーの元を訪れたのはジュードだった。
時折ユリウスから手紙を貰っていたのだと言うジュードは、妻を失ったルドガーの憔悴に居ても立ってもいられなくなったのだと言う。
兄さんめ、余計な事を。最初はそう思った。今は二人だけで居たかった。エルと二人だけの世界で生きていたかった。
だが気付けばルドガーは、僕にできる事なら何でも言って、と微笑むジュードに縋っていた。
そんなルドガーをジュードは優しく抱きしめた。二年ぶりに会ったジュードは、少し背が伸びていたようだった。
それからジュードは忙しいだろうにそれでも数日と置かずルドガーの住むマンションを訪れた。
ジュードと体を重ねたのは、寂しかったからかもしれない。
妻を失って、娘はまだろくな意思疎通も出来なくて。そんな中でジュードの微笑みはルドガーの支えとなった。
もう誰も失いたくなくて、その体を手に入れた。そうする事でしか、ジュードを手に入れる事は出来ないと思っていた。
それから暫く経って、妻の死から漸く立ち直り始めたルドガーの元にビズリーがやってきて言った。
その娘は鍵だ。我々に渡してもらおう。そう告げるビズリーにルドガーは冗談じゃないと声を荒げた。
また俺にエルを喪えと言うのか。激昂するルドガーに、しかしビズリーは冷淡に告げた。
カナンの地への到達は、一族の悲願なのだ。
そんな事、ルドガーには知った事ではなかった。エルと、ジュードと、三人でのささやかな幸せすらこの男は壊そうと言うのか。
ルドガーはエルを抱いて逃げた。トリグラフ駅に偶々到着した列車に行先も確認せず乗り込んだ。
そして地方都市であるディールへと逃げたが、すぐに追手がかかった。恐らくGHSの乗車履歴を見たのだろう、駅はもう使えなかった。
ルドガーは自分が失態を犯したのだと気付いた。せめてマクスバードへ逃げていればそこからリーゼ・マクシアへと逃げる事が出来たのに。
カタマルカ高地を抜け、ウプサーラ湖に辿り着いたルドガーは一軒の廃屋を見つけた。
長らく使われていないそこに逃げ込み、体を休めた。食料は持てるだけ持ってきたがそれも限りがある。いつまでもここに隠れているわけにもいかない。
ルドガーがエルを抱いて部屋の隅でうつらうつらとしていると、明け方になって人の気配を感じてはっとした。
銃を構え、その気配が扉を開くのを待つ。
ゆっくりと扉が開かれ、入ってきたのはジュードだった。
どうしてここに、と問う声に、ジュードはビズリーさんから連絡を貰って、と無理矢理小さく笑った。
それで全てを察した。ジュードはビズリーにルドガーを説得するように、否、エルを奪ってくるように言われたのだ。
そして恐らく、外にはビズリーたちが控えている。もう、逃げ場はない。
本当はこんな事はしたくないけど、とジュードは自らに向けられた銃口を見詰めたまま悲しげな顔で言う。
漸く製品化にこぎ着けた源霊匣の生産を盾に取られ、どうしようもないのだと。
その時ふっとルドガーの脳裏を過ぎったのは、仮定の世界。
もしここでビズリーを倒し、自分がクランスピア社を掌握できたなら、全ては上手くいくのではないかと。
ビズリーさえ居なくなればエルは奪われないし、ジュードをここで殺さずに済むし源霊匣の生産も進められる。
そしてエルが大きくなったらエルを正史世界に送り込み、カナンの地で自分たちを正史世界に生まれ変わらせて貰えば良い。
だが、それにはビズリーだけ殺せばいいというわけではない事にもルドガーは気付いていた。
兄もかつての仲間たちもルドガーの前に立ち塞がるだろう。そして自分が正史世界に行くには正史世界の自分をも殺さなければならない。
それでも、もうルドガーは何処にも進む事の出来ないこの状況を打破するにはもうそれしかないのだと確信していた。
ルドガーは銃を下ろすとビズリーと話がしたい、とジュードに告げた。
出来る事なら戦いたくないと思っているジュードを騙すのは簡単だった。外にいるのか、と問えばジュードは小さく頷く。
そうか、と視線を一度伏せ、全ての覚悟を決めた。
ルドガーはジュードに歩み寄ると片腕でエルを抱き、もう片方の手でそっとその頬を撫でた。
少しだけ笑みを浮かべると、ほっとした様にジュードの気が緩む。その瞬間、ルドガーはその首筋を手刀で打った。
とさりと倒れたジュードの傍らにすやすやと寝ているエルを横たえ、ルドガーは外へと出た。
そこには数人のエージェントを連れたビズリーがいた。エージェントたちがルドガーに銃を向ける。
覚悟は決まったのか。そう問うビズリーに、ルドガーは無言で懐中時計を構えて骸殻を纏った。
それがお前の答えか。ビズリーは苦々しげにそう告げて自らもまた骸殻を纏う。
骸殻を纏ったルドガーに銃は効かない。ビズリーの攻撃を避けながらルドガーはエージェントたちを次々に殺していった。
そしてビズリーとの一騎打ちとなった。どれくらいの間戦い続けただろう。ルドガーは満身創痍の体で、それでもビズリーに挑み続けた。
ビズリーの方も随分と消耗していた。お互いにいつ倒れてもおかしくない。そんな状態だった。
拮抗していた力は不意に割って入った衝撃波によって崩された。
意識を取り戻したジュードがビズリーに向けて魔神拳を放ったのだ。
不意を突かれたビズリーはそれをまともに食らった。一瞬の隙を、ルドガーは見逃さなかった。
ビズリーはルドガーの槍に貫かれ、倒れ伏した。ビズリーが息絶えると、湖畔には静寂が戻った。
全身に傷を負ったルドガーは、その顔の右上部にも酷い傷を負っていた。恐らく右目はもう見えないだろう。
それでも、まずは一歩を踏み出せたのだ。例えそれが血塗られた道であっても。
ルドガーは骸殻を解くとジュードを振り返る。呆然としていたジュードはルドガーと視線が合うと、途端に顔を歪めてぼろぼろと涙を零した。
僕は、なんて事を。打ち震えるように口元を手で覆ったジュードは、囁くような小さな声で言った。
それでも僕は、君を失いたくなかったんだ……。そう震える声で告げるジュードを、ルドガーは血塗れのまま抱きしめた。
「家に戻ろう……エルが待っている」
罪の意識に涙を零すジュードの手を引いて、ルドガーは廃屋へと戻って行った。

 

 

 

ビズリーを倒したルドガーは最強の骸殻能力者を表すヴィクトルの名を受け継ぎ、そしてクランスピア社も受け継いだ。
そして情報を操作してエルもまたビズリーと共に死亡した事にした。
警察はルドガーを容疑者として疑っていたが、それらも全て揉み消した。クランスピア社の全権を掌握したルドガーには些末事だった。
ユリウスはそんなルドガーの覚悟を受け止め、けれど受け入れることは出来ないと戦いを挑んできた。
だが、ビズリーの時計も手にしたルドガーの敵ではなかった。
倒れ伏したユリウスの脇に転がった時計を踏み壊す。これでもうユリウスが骸殻を纏うことは出来ない。
ルドガーはユリウスに止めを刺さなかった。出来なかったのだ。だから時計を破壊した。
けれどそれでもユリウスはルドガーに斬りかかってきた。殺すか、殺されるか。もうそれしか道はないのだと言う様に。
そうしてルドガーはユリウスも殺した。僅かに残っていた迷いを打ち消す様に。
ルドガーがユリウスまでその手にかけたのだと知ったジュードはますます消沈していった。
製品化された源霊匣は一般に向けて発売を開始した。夢への大きな一歩を歩んだ事に、けれどジュードは喜ぶ事は出来なかった。
その頃、ルドガーはウプサーラ湖の畔にあったあの廃屋を建て直させるとそこに移住した。
ビズリーを殺したその地で暮らす事が、ルドガーにとっての覚悟だった。
そして銀の髪を黒く染め、ルドガー・ウィル・クルスニクの名を捨て、ヴィクトルを名乗った。
クランスピア社へは一旬に一度出勤するだけで、それ以外はGHSで指示を出して済ませた。
ジュードは旬末になるとヴィクトルの元を訪れた。ヴィクトルの意向を汲んでもうルドガーとは呼ばなかった。
それは少し寂しい気もしたけれど、ヴィクトルはもう選んだのだ。ヴィクトルとして生きる事を。
ジュードは罪の意識とヴィクトルの間で揺れ動いていた。それでも、揺れながらもヴィクトルと共にある事を選んだ。
それから一節後、ガイアスがローエン達を連れてヴィクトルの元を訪れた。
ビズリーの死は一般には伏せられていた。ヴィクトルが社長の座に就いた事も社内の者には箝口令を布いて黙らせた。
それでも噂を止めることは出来ない。今まで知られなかったのが奇跡のようなものだとヴィクトルは思う。
それがお前の答えか。そう問いかけてくるガイアスに、ビズリーと同じことを聞くのだな、とヴィクトルは小さく笑う。
答えはもう出ている。覚悟ももう決まっている。ヴィクトルは骸殻を纏うと一度は仲間と呼んだ者たちに戦いを挑んだ。
真っ先に狙ったのはエリーゼだった。回復とサポート、そして強力な精霊術を使う彼女は厄介だった。
そして次にレイア、ローエン、アルヴィン。次々に倒していった。
残るはガイアスだけとなり、壮絶な一騎打ちが続いた。だが次第にガイアスもヴィクトルの圧倒的な力に押され始める。
これで終わりだ。ヴィクトルが槍を突きだしたその瞬間、耳障りな音を立ててそれは弾かれた。
ジュードが二人の間に割って入り、手甲で槍を弾いたのだ。
ガイアス、逃げて!ジュードの叫びにガイアスは退く事などできぬと叫んだ。
だがジュードが、あなたまで死んだらリーゼ・マクシアはどうなるの、と叫ぶとガイアスは苦味を噛み締めるようにしてその場を立ち去った。
ぽつり、と頬を降り出した雨粒が打つ。
みんなを、殺したんだね。仲間たちの死体に囲まれたジュードはヴィクトルを悲しげな眼で見つめて言った。
何も言わないヴィクトルに、いつかこんな日が来るって知ってた、とジュードは視線を落とす。
雨粒は数を増していき、やがて本格的に降り出した。
長い沈黙の後、ジュードが視線を上げた。不思議と凪いだその瞳の色にヴィクトルは微かに目を見張った。
みんなの死体をどうにかしなくちゃね。穏やかに告げるジュードに、良いのか、とヴィクトルは問う。
これが最後の問いなのだとヴィクトルもジュードもわかっていた。
ヴィクトルはもう後戻りできない。しかしジュードは今ならまだ違う道を選ぶ事も出来るはずだ。
だがジュードは悲しげに、けれど強い意志を秘めた眼で良いんだ、と微笑む。
僕は、ヴィクトルを選ぶよ。雨に濡れながらそう告げたジュードの穏やかな笑顔をヴィクトルは片方だけとなった眼で見つめた。
すると二人の間に空から歯車がふわりと降りてきた。闇を纏ったそれが何なのか、二人は知っていた。
そうなる事が運命だったかのように、カチカチと規則正しく音を立てる歯車はヴィクトルの体内に入り込み、静かになった。
ビズリーを殺し、ユリウスを殺し、仲間たちを殺した。ヴィクトルの存在こそが、この世界の新たな時歪の因子となった瞬間だった。

 


ジュードが倒れたのは、エルが五歳の時だった。
いつもの様に旬末をウプサーラ湖でヴィクトルとエルとの三人で過ごしていたその時だった。
元々今朝からどこか顔色が悪かった。心配する二人に、ジュードは仕事がちょっと忙しくて、と笑っていた矢先の事だった。
ベッドの中で目を覚ましたジュードは、疲れが出たのかな、と笑っていた。
だがそれから数節後、ジュードが血を吐いて病院に運ばれたとの連絡が入った。
エルを連れてヴィクトルが駆けつけると、病室には青い顔をしたジュードがベッドで眠っていた。
ここに至って初めてヴィクトルはジュードが病に侵されていた事を知らされた。
恐らくあと一節の命でしょうと医者に告げられ、ヴィクトルは呆然とまだ何かを語っている医者を見ていた。
目を覚ましたジュードは、どうして、と短く問うヴィクトルに、ばれちゃったんだ、と弱々しく笑った。
自らの体の異変に気付いたのはもう随分前の事だったとジュードは語った。
その時点でもう手の施しようのない段階まで病状は進んでいて、どうしようもなかったのだと。
ごめんね、とジュードはヴィクトルへと手を伸ばした。ヴィクトルがその手を握るとこれは報いなのかな、とジュードは微笑む。
でも、それでも僕はヴィクトルとエルとの未来が欲しかったんだ。そう微笑みながら涙を零すジュードに、ヴィクトルもまた仮面の下で涙を零した。
ヴィクトルはジュードをウプサーラ湖の家に連れて行った。最期は傍にいてほしい、と言うジュードの願いを叶えるために。
まだ五歳のエルはよくわかってないようだった。家で休んでいればまた元気になる。そう信じていた。
最初は調子の良い日は普通に生活できていたが、次第にジュードは臥せっている時間の方が長くなっていった。
体の痛みを抑えるために強い鎮痛剤を使っており、それが効いている間のジュードはいつも夢の中にいる様な反応をした。
喋る事も、瞼を開ける事すら億劫そうになり、食事の量も減って行った。
徐々に近づいてくる最期に、ヴィクトルは引き出しの奥からピンクゴールドの懐中時計を取り出した。
エルはクルスニクの鍵だ。そして鍵として生まれた者の時計には骸殻能力ともう一つ、特別な力がある事をヴィクトルはかつてビズリーから聞いていた。
時の保存。つまりは、記憶の保存ができるのだ。
ヴィクトルはずっと正史世界の自分たちと入れ替わる事を考えていた。そのためには正史世界の自分とジュードを殺さねばならない。
だが、それより早くジュードの命は消えかかっている。それでは意味がないのだ。
ジュードとエル、二人共がヴィクトルの傍にいないのであれば、その世界には意味がない。
ならば、とヴィクトルはピンクゴールドの時計を握りしめる。
ジュードの記憶をこの時計に保存して、いつか出会うだろう正史世界のジュードにそれを植えつければいい。
そうすればまた一緒にいられる。ジュードを失わずに済む。それは、闇に沈んだヴィクトルにとって一筋の光だった。
記憶を抽出されれば、抽出された者は死に至る。それでも死を目前としたジュードをただ見ているよりは良かった。
ヴィクトルはジュードの眠る寝室へと向かい、その寝顔を見下ろす。
少しだけ痩せた頬に指を滑らせると、その感触に気付いたジュードが薄らと目を開けた。
けれどそれはもう反射的なものでしかなかった。何の感情も意思も感じられないその視線を受け止めながら、ヴィクトルはその唇にそっと口付けた。
ぼんやりとそれを受け入れたジュードは、ゆっくりと瞬きをする。
ヴィクトルは身を起こすと静かに時計をジュードに向けて翳した。
時計が光を放ち、ジュードに降り注ぐ。ぽう、とジュードの体が光を帯び、やがてその光は時計に吸収された。
「……愛してる、ジュード」
光の最後のひと欠片が吸い込まれるのを見届けながら、ヴィクトルはそう囁いた。
光が収まっていくのと同時にジュードの眼がゆっくりと閉じられる。おやすみ、と囁いた声は優しく響いて消えた。

 


エルがストリボルグ号で出会ったのは、ルドガーと名乗る青年と、ジュードと名乗る青年だった。
ジュードと同じ名前で、見た目も凄く似てる。エルはこんな偶然もあるんだな、と思った。
エルには母親の記憶はない。エルを産んですぐに死んでしまったのだと父親から聞いていた。
けれどエルは寂しくはなかった。本音は、ちょっとだけ寂しかったけれど、それでも優しい父ともう一人、ジュードが居たから。
ジュードは旬末になるといつもエルの家に遊びに来てくれた、エルにとってはお兄さんのような存在だった。
いつも美味しいお菓子をお土産に持ってきてくれて、絵本もたくさん読んでくれた。
父親の作る料理はとても美味しかったが、ジュードの焼くパイも凄く美味しかった。
父親とジュードはとても仲良しで、エルをとても可愛がってくれた。
けれど目の前のジュードがどれだけ似ていても自分の知っているジュードでは無い事をエルは知っていた。
ジュードはエルが五歳の頃、病気で死んでしまった。父親と二人でお墓を作った。だからジュードはもういないのだと理解していた。
それに、エルの知ってるジュードはもっと大人っぽかったし。エルは目の前のジュードを見ながらそう思う。
それでも、大丈夫?と心配そうに見てくるジュードの眼差しは自分が知っているジュードと本当によく似ていて。
ジュードが帰って来たのだったらよかったのに。エルはそう思った。
それからルドガーは莫大な借金を負う事になり、エルとルドガーは行動を共にする事になった。
ルドガーの作る料理は父親のそれとよく似ていて、エルは懐かしさと少しだけ寂しさを感じた。
「ジュードも料理作れるの?」
エルが問うと、少しだけね、とジュードは笑った。
「じゃあ、アップルパイ、作れる?レーズンも入ったやつ!」
ジュードはうーんと少し考えた後、作れるよ、と頷いた。
「最近は作ってなかったけど、多分大丈夫」
アップルパイ、好きなの?と問われ、エルは大好き!と元気いっぱいに答えた。
「ジュードの焼いたアップルパイ、エル大好きだよ!」
「え?」
首を傾げたジュードに、エルはジュードじゃなくて、と説明した。
「パパのシンユーもね、ジュードって言うの。ジュードが焼いたアップルパイはすっごく美味しいんだから!」
「へえ、そんな偶然もあるんだね」
でも、とエルは視線を足元に落とす。
「エルの知ってるジュードはエルが五歳の時に病気で死んじゃったの」
「そうだったの……」
俯くエルに、ジュードはよし、と少女の帽子をぽんと叩いて笑いかけた。
「じゃあ僕もエルに美味しいって言われる様なアップルパイを焼くよ」
優しいその笑顔に、エルはやっぱりジュードに似てる、と思いながら強く頷いた。

 

 

 

ルドガーはジュードに恋をしていた。
ニ・アケリアで初めてジュードとキスをして、というか奪って、それからも何度かキスをした。
好きだ、と囁けば仄かに高潮する頬。恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに笑うジュードが愛しかった。
ジュードとエルと、仲間たち。彼らと一緒ならどんな運命にだって立ち向かえると信じていた。
分史世界のウプサーラ湖跡にてオーディーンを倒したルドガー達は正史世界へと戻ってきた。
お帰り、とジュードに迎えられ、ルドガーはただいま、と微笑んだ。
その日はディールで宿を取った。大部屋はもう空いていないと言われたので三人部屋一部屋と二人部屋を三部屋借りる事になった。ちなみにエルはミラと一緒に寝ると言ったので数には含んでいない。
そして部屋割りは適当に決まり、ルドガーはジュードと同室になった。
そういえば二人きりで泊まるのはずいぶん久しぶりだ、とルドガーは思う。
ジュードと想いが通じ合ってからは初めてじゃないだろうか、と気付いてルドガーは少しだけ気恥ずかしい様なくすぐったい様な、不思議な感覚に襲われた。
どうやらジュードも同じ気持ちだったらしく、何だか緊張するね、とあのジュード特有の少し恥ずかしそうな笑顔を浮かべた。
風呂で一息ついて、寝る準備をしながらルドガーはちらりと隣のベッドを見る。
ベッドの上でジュードは本を下敷きにして何か書きとめていた。
何書いてるんだ、と問えばちょっと源霊匣について思いついた事があって、と視線を上げないままジュードは答えた。
何となく、それが気に食わなくてルドガーはジュードのベッドに上がると隣に座り、こてんと肩に頭を預けた。
「ルドガー?」
どうしたの、という声にルドガーは何でもない、と答えてジュードが書き綴っている書面を見る。
だがそこに書かれていたのは難しい言葉ばかりで、ルドガーにはさっぱりだった。
あとどれくらいで終わる?と聞けば、もう少し、と応えが帰ってきて再びジュードは紙の上にペンを走らせた。
暫くカリカリとペン先が紙を引っ掻く音だけが響いた。丸っこくて可愛い字だな、と思いながらそれを目で追っていると、やがてペンの動きが止まった。
「はい、お終い」
ジュードは手にしていた本やペンを床に置かれた荷物の上に置くと、さて、と身を起こしたルドガーと向き合った。
「もしかして、寂しかったの?」
優しい微笑みに、ルドガーはこくりと頷いてその体を抱きしめた。
「折角の二人きりなのに……」
小さく呟くと、ごめんね、と腕の中のジュードが笑った。
「ふふ、僕たちもエルとミラさんみたいに一緒に寝ようか」
楽しげな声に、ルドガーは体を離すとその唇に己の唇をそっと重ねた。
ちゅ、ちゅ、と何度か角度を変えて口付けてから身を起こすと、ジュードが閉じていた眼をそっと開いて微笑んだ。
「一緒に寝ちゃう?」
「……それ以上の事がしたいって言ったら、怒るか?」
ルドガーの言葉にきょとんとしたジュードは、次の瞬間ぼっと音がしそうな勢いで顔を赤くした。
「えっと、それって……」
視線を右へ左へと彷徨わせながら徐々に下がっていく顔を指先でくいっと持ち上げ、その唇にもう一度ちゅっと音を立てて口付ける。
「ジュードに、触れたい」
駄目かな、と問えば、顔を真っ赤にしたジュードは何か言おうと唇を薄く開き、けれど言葉が出なくて閉じ、と何度か繰り返した後に小さく頷いた。
「……いい、よ……」
消え入りそうな程小さなその声に、ルドガーは幸せそうに笑うとそっとジュードを押し倒した。
ルドガーは男との経験は無く、女とだって数えるほどしか無い。拙い愛撫に、けれどそういった経験の全く無いジュードは健気に反応した。
一糸纏わぬ姿になって抱き合って、お互いの熱を手で高めていった。
ルドガーには男同士で繋がるならば何処を使うのか、知識としてはあった。
けれど今はこれだけで良い。そう思ってルドガーはジュードの手に導かれて達した。
二人分の精液がジュードの腹を濡らす。ごめん、と謝りながらルドガーがその汚れた腹をタオルで拭っていると、何で謝るの、ととろりとした蜂蜜色が見上げてきた。
「気持ち良かった、よ……?」
恥ずかしそうに小さく呟かれたそれに、ルドガーは再び下肢に熱が集まるのを感じた。
それに気づいたジュードがもう一度、する?と上目遣いで見上げてきて、ルドガーはジュードの脚を開かせた。
今はこれだけで良いなんて嘘ついてごめんなさい。ルドガーは誰かもわからぬ相手に内心でそう謝ってジュードの閉ざされた蕾に指を滑らせた。
「ひゃっ……な、なに?」
思わぬ場所を触られたジュードは目を見開いてルドガーを見上げてくる。
「男同士は、ここを使うんだってさ」
ぬるぬると入口を撫でると、ジュードが甘い声を漏らした。ひくりとそこが収縮したのがわかる。
「ジュードと繋がりたい」
「ぁ、あっ」
ぬくりと指を押し込んでいくと、入り口はルドガーの指一本ですらきつく締め上げたが、内壁は誘うようにうねってそれを受け入れてくれた。
ゆっくりと抜き差しをし、指を増やし、散々解すとそこは最初とは比べものにならないくらいの柔らかさでルドガーの指を包み込む。
これなら大丈夫だろうか。ルドガーはそう思いつつ指を引き抜いた。
「ル、ドガー……?」
突然指を引き抜いたルドガーに、甘い声を上げ続けていたジュードが不安げな視線を送ってくる。
「挿れても、良いかな」
耳元で囁けばジュードは恥じ入る様に視線を伏せ、小さく頷いた。
ジュードの脚を肩に乗せ、弛んだそこに熱を押し当てる。
「ん……」
ぐっと押し込んでいくと、ジュードの表情が苦しげに歪んだ。
「ジュード……」
「だい、じょうぶだから……きて……」
痛みがあるだろうに、それでもルドガーを受け入れようとするジュードに愛しさが込み上げてくる。
ゆっくりと腰を進めていき、根元まで埋め込んだルドガーはその内壁の熱さとうねりに早くも達してしまいそうだった。
じっとそれに耐え、ジュードの内壁がルドガーの形に馴染んできたのを見計らって腰を動かした。
あ、あ、と声を上げるジュードは苦しさと快感がせめぎ合っているような、そんな表情をしていた。
自然と速くなっていく腰の動きをルドガーは制御できなかった。脳天を貫くような快感に突き動かされてひたすら腰を振った。
「……っ……」
ルドガーは短く息を詰めてジュードの中に熱を吐き出した。吐き出して漸く、ルドガーは自分が一人で突っ走っていた事に気付いた。
さすがに初めての行為で後ろの刺激だけでは達する事が出来なかったのだろう、ルドガーは勃ち上がったまま震えているそれに指を絡め、扱いた。
繋がったままのその刺激にジュードもまた甲高い声を上げて達した。
それから二人は後始末をして、使わなかった方のベッドで共に眠りに就いた。
「愛してる、ジュード」
シーツの中で抱き寄せてそう囁くと、ジュードも嬉しそうに微笑んで僕もだよ、と囁いた。
その無邪気な幸せに終わりが近づいている事に、二人は気付いていなかった。

 


旅船ペリューンで分史世界のミラが消え、この世界のミラ・マクスウェルが召喚された。
それに酷く傷付いたエルは言葉数少なく宿屋の部屋に引っ込んだ。
最後の道標のある分史世界へ行くにしても時空の狭間が安定しない限りそれは叶わない。
一先ず現実、つまり借金と向き合う事にしたルドガーは仲間たちと共に魔物狩りに勤しんだ。
ミラとジュードの連携は見事で、一年もの間離れていたとは思えないほど息が合っていた。
微笑みあう二人の姿に、ルドガーはもやもやとした何かを感じていた。
それが嫉妬であると気付いたのは、その夜の宿屋の一室でジュードを抱き寄せてからだった。
「ルドガー?」
腕の中できょとんとしているジュードに、ミラとジュードはわかりあってるんだな、とルドガーは少しだけ低い声で言った。
「うん」
しかしジュードはそれを当たり前の様に頷き、ますますルドガーの機嫌は下がっていく。
「……ああ、そういう事」
ジュードはくすりと笑みを零すと少しだけ体を離してルドガーを見上げた。
「僕はミラの事を尊敬してるし大切だけど、こうやって……」
ジュードが背伸びをしてルドガーの唇にちょんと口付ける。
「キスしたいって思うのは、ルドガーだけだよ」
「ジュード……」
あ、俺って今すごく情けない。ルドガーはそう自覚しながらもジュードに今度は自分から口付けを落とす。
舌を差し入れ、おずおずと絡んでくるジュードの舌を味わいながらルドガーはジュードの腰を一層強く引き寄せた。

 


こつこつと借金を返していると、ヴェルからクランスピア社に来るよう連絡が入った。
そして、漸く最後の道標があるとされる分史世界へ行くことになった。
何があるかわからないので準備を入念に整え、メンバーを決める。今回はジュードとミラ、そしてローエンが共に行くことになった。
ルドガーが意識を集中させると世界が歪み、気付けばカラハ・シャールの一角に立っていた。
そこで聞き込みを始めたのだが、皆が皆ローエンを見て驚きの声を上げていた。
この世界では八年前にローエンは亡くなっているという。しかも殺されたのだと。
どうやら遺体はディール地方のウプサーラ湖に浮いていたらしい。
そしてマクスバードへと行くと、そこには源霊匣を使う人々と出会った。どうやらここは源霊匣の普及した世界のようだった。
しかしここでもまたルドガー達は衝撃の事実を知る。ジュードもまた、死んでいるというのだ。
ジュードが亡くなったのは今から三年ほど前だと言う。病気だったらしいのだが、詳しい事はわからなかった。
一先ずウプサーラ湖に行けば何かがわかるかもしれないとルドガー達はディールへと向かった。
源霊匣はあちこちで見かけられた。自然もまた、正史世界と比べると遥かに増えていた。
そんな中、エリーゼもまた殺され、ウプサーラ湖に浮かんでいたのだとわかった。
ルドガー達がカタマルカ高地に出ると、そこもまた自然が回復しつつあった。
源霊匣の普及、自然の回復。それはジュード達が目指した理想の世界であるはずなのに、そのジュード達はもうこの世にはいない。
時歪の因子は正史世界と最も異なった存在に憑りついている。ならばローエン達の死が深く関わっているとルドガー達は考えた。
ウプサーラ湖を目指してカタマルカ高地を進んでいると、エルの父親についての話になった。
料理が上手いとは度々エルが言っていた事だが、余程の腕なのだろう。会う事が出来たらルドガー達にも食べさせてあげる、とエルは笑った。
「そういえば、エルのお父さんの親友のジュードって人はどんな人だったの?」
ジュードの問いに、エルはうーんと考えてから言った。
「ジュードはねえ、ジュードによく似てるけどジュードよりすっごく大人っぽい人だったんだよ」
「……ややこしいな」
ルドガーの言葉にジュードがあははと笑う。エルはジュードの作るお菓子がどれだけ美味しいかを語った。
そして父親とジュード、そして自分がどれだけ仲が良かったかも熱弁した。
「エルとパパとジュードはね、シンユーのあいさつをした仲なんだよ!」
「親友の挨拶?」
ジュードが小首を傾げると、知らないの?とエルも同じ方向に首を傾げた。
「あのね、手を繋いでほっぺにキスするの。エルとパパとジュードはね、いっつもしてたよ!」
それは親友なのだろうか、と一瞬疑問が過ったがエルの純粋な瞳にそうなんだ、と頷くしかできない。
ルドガー達も何となく疑問を感じているようだったが、誰もそれに対する突っ込みは入れなかった。
そして辿り着いたウプサーラ湖は干上がっておらず、日の光を湖面がきらきらと反射していた。
ふと視線を転ずると、湖畔に一軒の家があった。正史世界ではあんな家は無かったはずだが。
誰か住んでいるのだろうか、と言うミラに、エルが小さく呟いた。
「あれ、エルの家」
え、と視線を落とすとエルがパパ、と叫んで駆けだす。その声に気付いたのだろう、家の中から一人の男が現れた。
ルドガー達も駆け寄ると、男の顔の大半が黒い仮面に覆われている事に気付いた。
漆黒の髪、黒い服、黒い仮面。闇に身を溶け込ませたような姿の中で、唯一仮面の奥の左眼が鮮やかなアクアグリーンを放っていた。
ルドガーと同じ色だ、とジュードは気付いた。纏う雰囲気もどことなくルドガーに似ている。
漆黒の男はヴィクトルと名乗った。何故かヴィクトルはルドガーを知っていた。それに警戒しながらも、ルドガー達はヴィクトルとエルに誘われて食卓に着いた。
ヴィクトルの料理はエルが自慢するだけあって本当に美味しかった。ルドガーと味付けの加減が似ているな、とジュードは思う。
はしゃぐエルに、ヴィクトルが低く笑う。
「こんなに楽しい食事は三年振りだ」
ヴィクトルの視線の先にはいくつもの写真立てがあった。その中には恐らくエルの母親だろう女性とエルとヴィクトルが微笑んでいる写真もあった。
その中でいくつかの写真立てが伏せられている事にジュードは気付いた。
何だろう、とそれに目を向けていると、エルがうつらうつらとしだしてヴィクトルに抱えられた。
抱きかかえられるのが当たり前の様に伸ばされたエルの腕。そして当然のようにそれに応えるヴィクトルの腕。
お互いがお互いを大切に想い合っているのがよくわかった。
エルが眠ってしまうと、ミラが本題を切り出した。
何を知りたい、と問うヴィクトルにルドガーが問い返す。
「貴方は、何を知っている?」
その問いにヴィクトルはエルの髪を優しく撫でながらこの子の幸せを願っているだけだよ、と答えた。
「大切な一人娘なんだ」
それに、とヴィクトルはルドガー達を振り返って告げた。
「私が分史世界の人間だと言う事も、知っている」
ルドガー達の間に緊張が走る。では、エルも。その視線にヴィクトルは頷いた。
そしてヴィクトルはエルの持って生まれた力について語った。
クルスニクの鍵。ルドガーではなく、エルがそうなのだとヴィクトルは語った。
「エルもまた、時計を持って生まれてきた」
ヴィクトルはテーブルに歩み寄ると懐からピンクゴールドの懐中時計を取り出して見せた。
「これがエルの時計だ」
「じゃあ、エルも骸殻を?」
ジュードの問いに、ヴィクトルはそういう事になる、と頷いた。
「だが、鍵として生まれた者の持つ時計には、もう一つ特別な力があってね」
ヴィクトルは時計をぱちりと開くと、それをジュードへと向けた。
「何を……」
立ち上がったルドガー達に、ヴィクトルは構えなくていい、と微笑んだ。
「私は君から預かったものを返すだけだ」
「僕から……?」
訝しげなジュードの声に、ヴィクトルはそうだ、と頷く。その手に握られた時計が淡い光を放った。
「君の、記憶をね」
途端、強い光が時計から発せられ、ルドガー達は咄嗟に目を覆った。
光はすぐに弱まっていき、ルドガー達はそっと目を開ける。するととさりと軽い音を立ててジュードが倒れた。
「ジュード!」
ルドガーが駆け寄ろうとするのを手で制したヴィクトルがジュードの傍らに片膝をつく。
先程エルにしたようにジュードをそっと抱き上げると、ヴィクトルはジュードもエルとは反対側のソファに寝かせた。
「相変わらず、軽いな」
くすりと笑うヴィクトルに、ジュードに何をした、とミラが強い口調で問う。
「彼は今、思い出しているんだよ」
「思い出す?」
「私と共に在った、自らの記憶をね」
その言葉にまさか、とミラが目を見開く。
「その時計のもう一つの能力とは……!」
「そう、記憶を保存しておけるんだよ」
どういう事だとルドガーがミラを見ると、ミラはこの世界のジュードの記憶をジュードに植えつけたのだ、と言った。
「恐らくエルが言っていたジュードによく似たもう一人のジュードというのはこの世界のジュードの事なのだろう」
ミラの言葉にヴィクトルはそうだ、と頷く。
「ジュードの体は病に侵されていた。その命ももう何日も持たないだろうと悟った私は、この時計にジュードの記憶を封じたのだ」
「お前の狙いはこれだったのか!この為にエルを……!」
ミラの言葉を遮る様にヴィクトルの姿が一瞬にして消えたかと思うとルドガーの背後に現れた。
「そう。そしてもう一つ」
ヴィクトルは指で銃の形を作るとそれをルドガーの頭に向けた。
「君も、邪魔なんだよ。ルドガー」
そしてヴィクトルは銃の形を模った指を口元にあて、静かに、と囁いた。
「二人が起きてしまう。外へ出よう」

 


ジュードは夢を見ていた。それは長いような気もするし、短いような気もする。
その中でジュードは強い罪の意識に苛まれていた。ビズリーの死、ユリウスの死、仲間たちの死。それらがジュードに重く伸し掛かる。
それでも、ジュードは前に進まなくてはいけない。たとえその道が茨の道であっても、血塗られた奈落への道であっても。
全ては、愛する人とその娘との未来を掴むために。
けれど、この身は病に侵されていた。近付いてくる死の影に、ジュードはこれが報いなのだろうかと思う。
だけど、それでもあの二人と一緒にいたい。三人で生きていきたい。もっと、もっと一緒の時間を過ごしたい。
最期の瞬間、あの人は愛してると囁いた。ジュードはそれに応えられなかった。せめて、この想いだけでも伝えたかったのに。
僕も愛しているよ、と抱きしめて囁きたい。悲しい眼をしたあの人を、ヴィクトルを、幸せにしてあげたい。
僕は、ヴィクトルを愛している。
途端、世界が割れて砕け散った。はっとして目を開けると、そこには見慣れた天井が広がっていた。
ソファの上で起き上がると、向かい側のソファでエルが眠っていた。
どうして僕たちはこんな所で寝てしまっているのだろう。否、僕は死んだはずではなかったのか。
違う、とジュードは混乱している頭を横に振る。僕はルドガー達と分史世界であるこの世界に来て、ここに辿り着いたのだ。
食事を終えて、エルが寝てしまって、そうしたらヴィクトルがエルのだという時計を取り出して。
ああそうか、そうだったのか。ジュードは全てを理解した。
ヴィクトルが狙っていたのは、これだったのだ。正史世界の自分たちとの入れ替わり。
今のジュードには今までの記憶と同時にヴィクトルと過ごした記憶もある。
ルドガーを愛しいと思う気持ちと、ヴィクトルと共に生きたいと思う気持ち。それがせめぎ合っている。
部屋を見渡すと、自分とエル以外は居ないようだった。外に出たのだろうか、と窓から外を見ると、ヴィクトルがルドガー達と向き合って何かを話していた。
いけない、このままではルドガー達が危ない。ジュードはエルを揺すって起こすと、寝起きで状況が分かってないエルの手を引いて外へと出た。
そこには、今にもルドガーを殺そうとするヴィクトルの姿。
「やめて、ヴィクトル!」
ジュードの叫びにヴィクトルの動きが止まる。
「パパ?みんな、何してるの?」
ジュードの傍らでエルがきょとんとして問う。
「ジュード、エルを連れて家に……」
不意にヴィクトルの体がびくりと不自然に震え、苦しみ始めた。
「パパ!」
エルが駆け寄るが、苦しみもがくヴィクトルの手はエルを突き飛ばした。
その弾みでヴィクトルの仮面が落ちる。からんと硬質な音を立てて転がった黒の仮面。
その仮面の下の右半分は、時歪の因子化が進んだ証である漆黒に侵された肌と紅の瞳があった。
「!」
エルの表情に怯えが走る。それを見たヴィクトルは怖いか、と自嘲気味に笑った。
「だが、カナンの地に行けばこの姿も無かった事にできる」
カナンの地で大精霊オリジンに時歪の因子化を解除してもらえば、またパパとエルとジュードの三人で幸せに暮らせるんだよ、とヴィクトルは微笑む。
「ほ、んとに……?」
エルがヴィクトルを見詰める。本当に?それはジュードの思いでもあった。
確かにオリジンがその願いを叶えてくれたなら、ヴィクトルの時歪の因子化は無くなる。
けれどその為には正史世界に行かなくてはならない。正史世界にヴィクトルが行くには、ルドガーを殺さなくてはならない。
ヴィクトルは自分が道標である事を知っている。だからエルを送り込めばいつか必ずルドガーがここへやってくると知っていた。
道標はまた違う分史世界で見つければ良い。そうすればヴィクトルがカナンの地へ行く事は可能になる。
この世界の自分が願った、三人での未来が手に入るかもしれない。その可能性に気付いたジュードの思いは揺れた。
ルドガーを選ぶならヴィクトルを殺さなければならない。殺して、道標を手に入れなくてはならない。
だが反対にヴィクトルを選べばルドガーを殺さなければならない。そして、ミラ達も殺さねばならないだろう。
あの時はヴィクトルが手を下した。ジュードが駆けつけた頃にはガイアス以外はもう殺されていた。
だけど、今度は違う。ジュードがヴィクトルを選ぶという事は、自らの手でミラやローエン達を殺さなければならない。
それに耐えられるのか?ジュードは自問する。しかしジュードの迷いなどお構いなしにヴィクトルはルドガーだけでなくミラ達にも剣を向け、戦いが始まった。
「ジュード、みんなを止めて!」
エルが駆け寄ってきて呆然と立ち尽くすジュードの手を引く。
「エル……」
「早く!」
涙を浮かべた少女。愛した人が愛した一人娘。
僕は、僕が選ぶべき道は……!
ジュードはルドガーとヴィクトルの元へと駆けた。

 


→ルドガーを庇う。

 


→ヴィクトルを庇う。

 

 


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