ヴィクジュエンド

 

骸殻を纏ったルドガーが槍を振りかざし、ヴィクトルを貫こうと振り下ろす。
その瞬間、ジュードは間に割って入ってそれを手甲で弾き飛ばしていた。
「ジュード!」
ルドガーとヴィクトルの声が重なる。ルドガーが呆然とした目でジュードを見ていた。
ルドガーだけではない。ミラやローエンもまさかと言う様にジュードを見ていた。
「ジュード……」
背後でヴィクトルの声がして振り返る。そこには優しい笑みを浮かべたヴィクトルがいた。
「思い出してくれたんだね、ジュード」
ヴィクトルが双剣を手にしたままジュードをその腕の中に抱き寄せる。うん、とジュードは微笑んで頷くと、ヴィクトルの首筋に頬を寄せた。
「ずっと寂しい思いをさせてごめんね」
「ジュード!」
ルドガーの声に二人の視線がそちらを見る。ごめん、と痛みを堪える様な目でジュードはルドガーに言う。
「ルドガーやみんなの事は大切だけど、その気持ちに今も変わりはないけれど、思い出したんだ。ヴィクトルがどれだけ僕を愛してくれていたかを」
「それはヴィクトルに植えつけられた、この世界の君の記憶だ。君自身のものではない。惑わされるな」
ミラの言葉に、ジュードは穏やかな眼差しで首を横に振る。
「それでも僕は、ヴィクトルを愛している」
「私たちとの約束はどうなる。ジュード、今の君が選ぼうとしている道は世界の破滅を呼び込む道だ」
「ミラ……ローエン、ルドガー……ごめんね」
ジュードはヴィクトルから一歩離れると、静かに拳を構えた。
「約束より、大事な事があるんだ」
強い決意を秘めた眼に、そうか、とミラは痛ましげな眼でジュードを見ると剣を構えた。
「それが君の決意なのだな」
「ジュードさん……」
悲しげに、それでもローエンもまた剣を構える。
高まっていく緊張感の中、ルドガーは信じない、と言う様に首を横に振った。
「ごめんね、ルドガー。でも僕は今度こそ、ヴィクトルとエルとの未来を手に入れたいんだ」
「っ」
ルドガーは泣きそうに顔を歪め、やがて決意した様に双剣を構えて地を蹴った。

 


どうして、とエルがそのアクアグリーンの瞳に涙を浮かべて呟く。
どうして、こんな事になってしまったのか。
エルの視線の先では、父親とジュード、そしてルドガーが戦っている。
ミラもローエンも父親の手によって殺されてしまった。そして、ルドガーもまた。
「!」
ヴィクトルの槍に貫かれたルドガーが倒れ伏し、エルはびくりと体を震わせる。
「……ルドガー……」
ジュードはもう殆ど意識のないルドガーを抱き起し、優しく抱きしめた。
「ごめん……君を愛しているから、僕はヴィクトルを選ぶよ……」
その声が届いたかはわからない。けれどルドガーは全てを諦めるように静かに目を閉じた。
湖畔に静寂が戻り、ジュードは立ち上がってエルを見た。
「ジュード……」
ジュードは穏やかに微笑んでいた。しかしその蜂蜜色の瞳からは絶えず涙が零れ落ちている。
「行こう、エル……」
涙を零しながらも優しい笑みを浮かべるジュードに、何処へ行くの、とエルは問う。
「エルと、ヴィクトルと、僕の三人で幸せになれる世界へ」
「ジュードは、エルとパパの知ってるジュードなの」
エルの震える声に、ヴィクトルがそうだよ、と微笑んで頷く。
「エルが良い子にしていたから、パパとエルの大好きなジュードが戻ってきてくれたんだよ」
「でも、ルドガー達が……」
泣きそうなその声に、ヴィクトルは仕方なかったんだと緩やかに首を横に振る。
「パパとジュードとエルが幸せになるには、ルドガー達はいてはいけないんだ」
エルの為なんだよ、とヴィクトルは微笑む。
「エルの、ため……?」
「パパとジュードはね、いつだってエルの幸せを一番に考えているよ」
「……」
俯いてしまったエルに、ヴィクトルは家に戻ろう、と優しく告げる。
「着替えたら三人でお出かけしようか」
「エル、行こう」
二人に促され、エルは重い足取りでそれに従う。
「……ルドガー……」
エルは倒れ伏し、もう動く事のない三人を一度だけ振り返ると、二人に連れられて家へと向かった。

 


これはエルの時計だよ、と渡されたのはピンクゴールドの懐中時計だった。
「エルの?」
きょとんとして父親を見上げると、彼は優しい眼差しで頷いた。
「パパの時計と同じ、とても大切な時計だ」
大事にしなさい、と握らされ、エルはそれに紐を通して首から提げた。
「じゃあ、行こうか」
「何処へ行くの?」
エルの問いにジュードがにこりと笑ってディールだよ、と告げた。
「エルの好きなヒメマスの押し寿司を食べようか」
「ヒメマス!」
一瞬エルの表情が明るくなる。しかしそれはすぐに消えて俯いた。
「……ルドガーたち、あのままにしておくの?」
「……」
ジュードがヴィクトルを見る。ヴィクトルは良いんだよ、と優しくエルの背を撫でた。
「もうここには帰って来ないのだから」
「え?」
エルが父親を見上げた瞬間、ぐにゃりと世界が歪んだ。一瞬の浮遊感。その後に景色が戻ってくる。
そこはもう家の中ではなく、カタマルカ高地のただ中だった。
エルは自分たちが正史世界へと戻って来た事を理解した。そしてもう、あの世界には行けないのだと言う事も。
「さあ、行こう」
「……うん」
ヴィクトルとジュードに手を引かれ、エルは歩き出した。
そしてディールに辿り着くと、三人は宿に泊まった。二つのベッドをくっつけて三人は川の字になって寝た。
翌朝、ヴィクトルは少し用があると言って一人で出かけた。
一人で大丈夫?と問うジュードに、ヴィクトルは大丈夫だと微笑む。
「私にはビズリーの時計がある。必ず帰ってくるよ」
「うん……」
ヴィクトルはエルとジュードの手を握るとその頬にそっと口付けて宿を出て行った。
「パパ、帰ってくるよね……?」
不安げなエルに、ジュードが大丈夫だよ、と笑いかける。
「夜には帰ってくるって言ってたから」
さあ、とジュードはエルの手を引いて部屋を出る。
「今日はディールで一日遊ぼうか」
ルドガー達の死のショックからまだ抜け出せていないエルを慰めるように、ジュードは努めて明るく振舞った。
色々な店を巡り、昼には約束通りヒメマスの押し寿司を二人で食べた。
パパとも一緒に食べたかったな、と俯くエルに、ジュードはそうだ、と手を叩いてエルを見下ろす。
「ヴィクトルが帰ってくるまでに、二人でアップルパイを焼こうか」
「アップルパイ?」
「うん。二人で作って、ヴィクトルを驚かせちゃおう」
ね?と笑うジュードに、エルもまた少しだけ笑って頷いた。
「パパ、喜んでくれるかな」
「喜んでくれるよ、絶対に」
そうして二人はあれこれ相談しながらアップルパイの材料を買い、宿の厨房を借りて焼いた。
ジュードに教わりながら生地を作って型に敷く。そしてカスタードを適度に流し込み、ジュードが煮たリンゴをエルは一切れ一切れ丁寧に並べた。
レーズンを散らし、パイ生地で表面を覆ったそれをオーブンで焼き上げる。
やがて焼き上がったそれに、エルは嬉しそうな顔でジュードを見上げた。
「綺麗に焼けたね」
「パパ、美味しいって言ってくれるかな?」
「うん、僕が保証するよ」
すると宿屋の扉が開き、タイミングよくヴィクトルが帰って来た。
出て行った時と何も変わった様子のないヴィクトルに、エルはほっとして父親に抱きついた。
「ただいま、エル」
「おかえり、パパ」
「おかえりなさい、ヴィクトル」
ジュードがパイの乗った皿を持っている事に気付いたヴィクトルは、優しく笑ってエルを見下ろした。
「二人でパイを焼いていたのかい」
「うん、エルとジュードの二人で焼いたんだよ」
もじもじとしながら控えめにそう言うエルの帽子を、ヴィクトルは慰撫するように優しく叩いた。
「ヴィクトル、夕ご飯は食べる?」
「ああ」
三人はテーブルに着くとトマトとシーフードのリゾットを頼んで食べた。
パパの作ったリゾットの方が美味しい、と文句を言うエルに、しーっとジュードが苦笑して口元に人差し指を当てる。
そして食後のデザートにアップルパイを切り分けて食べた。
「ジュードのアップルパイ、おいしいね」
「エルが手伝ってくれたからだよ」
「ああ、とても美味しいよ」
ぱくぱくとアップルパイを食べていたエルが不意にその手を止め、俯く。
「……ルドガー達にも食べてほしかったな……」
「エル……」
「わかってる。エルね、わかってるんだよ。パパがエルやジュードと一緒にいるためには、仕方ないことだって」
でも、とそこで言葉を詰まらせたエルを、隣に座っていたヴィクトルが抱いて膝の上に乗せた。
声を殺して泣くエルの背を、ヴィクトルはいつまでも優しく叩き続けた。

 


泣き疲れて眠ってしまったエルをベッドに寝かせ、交代で風呂に入ってヴィクトルが出てくると、ジュードが空いたベッドに腰掛けて待っていた。
「ヴィクトル、傷、見せて」
ヴィクトルは微かに苦笑すると、わかったよ、と頷いて隣に座った。
「殆どは骸殻能力で癒えてはいるんだ」
「でも、右の脇腹、痛むんでしょう」
「敵わないな、君には」
「それだけヴィクトルを見てるって事だよ」
「ジュード……」
すっと顔を近づけてきたヴィクトルを、だめ、とジュードは押し留めた。
「傷の手当てしてから、だよ」
少しだけ怒ったようなその表情に、しかしそれが単なる照れ隠しだと知っているヴィクトルはやれやれとシャツを捲った。
現れたのは、赤黒く染まった肌。表面上は骸殻を纏った時の治癒能力で塞がっていたが、余程深く抉られたのだろう、完全には治っていなかった。
ジュードはそれを悲しげな眼で見ると、手を翳して治癒術を施した。
徐々に赤黒さが抜けていき、薄らとした鬱血が残る程度まで癒えると漸くジュードは術を止めた。
「……ガイアス、だね」
「ああ。油断したつもりはないのだが、やはり彼は特別強いな」
「道標は?」
「彼らと一緒にいたから手間が省けたよ。これでカナンの地へ行ける」
この正史世界で唯一残っている道標は最強の骸殻能力者、つまりビズリーだ。同じく最強の骸殻能力者として道標を宿しているヴィクトルは誰よりそれを知っていた。
骸殻能力者が分史世界へと飛んでいる間のGHSは、その当人の骸殻能力を応用して繋げている。
その為にルドガーとのGHSが繋がらなくなった時点で、ビズリーはルドガーが道標と回収と分史世界の破壊に失敗した事に気付いたのだろう。
ビズリーが何を思ってガイアス達と接触したのかは、今となってはもうどうでも良かった。
彼は、彼らはもう、この世にはいないのだから。
「……皆は」
「……」
無言で見下ろしてくるヴィクトルに、ジュードは何でもない、と首を横に振って視線を伏せる。
迷いを僅かに見せたジュードは、しかし視線を上げる頃にはそれを消してヴィクトルを見た。
「……他に痛い所、ある?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
それより、とヴィクトルはジュードの腰に腕を廻しながら言う。
「記憶の方は大丈夫なのかい」
「うん。最初は混乱してたけど、今はもう殆ど大丈夫。ヴィクトルを選ぶって決めたからかな、どっちかというとヴィクトル達と過ごした記憶の方が鮮明なんだ」
寄り添うジュードの唇に、ヴィクトルは今度こそ口付ける。
「……ん……」
そのままとさりとベッドに押し倒され、こら、とジュードが唇を尖らせた。
「何する気?」
ヴィクトルはそんなジュードの手を取り、掌に口付ける。
「君に触れたい」
「駄目だよ、エルが起きちゃう」
「エルは一度寝たら余程の事が無い限り朝まで起きない事は君も知っているだろう?」
ヴィクトルの笑いを含んだ声に、ジュードはでも、と恥ずかしそうに視線を彷徨わせる。
「だったら、少しだけなら良いかい?」
ジュードがきょとんとしてヴィクトルを見る。
「少しだけ?」
「そう、少しだけ」
駄目かい、と小首を傾げるヴィクトルに、やがてジュードはぷっと噴き出して笑った。
「もう、仕方ないなあ」
本当に少しだけだからね、と笑うジュードの声を食らう様にヴィクトルはその唇に口付けた。

 


「っ……ふ……」
ジュードは両手で口元を抑えながらその愛撫に耐えていた。
盛り上がったシーツの中ではヴィクトルがジュードの熱を銜え込み、その奥の蕾を長い指で貫いていた。
微かに聞こえてくるいやらしい水音に、ジュードはちらりと隣のベッドで眠るエルを見る。
エルはぐっすりと眠っているようで、隣で行われている情事に気付いた様子はない。
「ん……っ……」
限界が近づいてきたジュードが腰を揺らめかせると、シーツの中に潜っていたヴィクトルがその熱から唇を離して顔を出した。
「ジュード、挿れても良いかな」
ぐりっと中を擦られ、ジュードは漏れそうになる声をかみ殺して首を横に振った。
「少しだけって、言ったのに……!」
非難してくる声に、ヴィクトルは微笑むとジュードが可愛いから、とその頬に口付けた。
「ここで何度ルドガーを受け入れたんだい」
「んっ……に、二回……」
「正史世界の私は結構手が早いんだね」
くすくすと笑うヴィクトルの仮面は今は外されており、アクアグリーンとクリムゾンの眼がそれぞれジュードを見詰めている。
「少し、嫉妬してしまうな」
「自分、なのに……?」
自分だから余計にね、とヴィクトルは笑う。
「君の中の記憶を、全て私に塗り替えてやりたいよ」
「今の僕が愛してるのは、あなただよ……」
ずるりと指が引き抜かれ、ジュードが微かに声を漏らす。
「だったら、良いだろう?」
脚を一層開かせるその手に、でも、とジュードが恥ずかしそうに言う。
「最後までしちゃったら、僕、声我慢できないよ……」
ヴィクトルは大丈夫、と微笑むと指を抜いたばかりのそこに己の熱を押し付けた。
「ずっとキスしててあげるから……」
「ヴィ、んんっ……!」
口付けながら押し入ってくるヴィクトルに、ジュードは足を突っ張らせてそれを受け入れていく。
少しずつ奥を目指して入ってきたそれは、根元まで押し込まれるとゆっくりと抜き差しを始めた。
唇をヴィクトルの唇によって塞がれたジュードは、それでも堪え切れないと言う様に喉を甘く鳴らした。
「んっ、ふ、ふぁ、んっ、んっ」
ぎしぎしとベッドが軋んだ音を立てる。次第に速く激しくなっていくそれに、ジュードはヴィクトルの背に回した腕に力を込めた。
「んっ、ふ、ん、んんんっ」
一際強く内壁を抉られ、ジュードは体を震わせて達した。するとそれに引きずられるようにヴィクトルも小さく呻いてジュードの中で熱を放つ。
「ふぁ、はっ、はあ……」
長い口付けから解放されたジュードは荒い息を吐きながら、圧し掛かってきたヴィクトルを強く抱きしめた。
「ん……」
お返しとばかりに強く抱き返され、口付けられる。それを受け止めながら、ジュードは一粒だけ涙を零した。

 


三人がマクスバードで道標を使ってカナンの地を呼び出すと、背後から声がかかった。
「カナンの地への行き方は知っているのか」
三人が振り返ると、そこには痛ましさを堪える様な表情をしたユリウスが立っていた。
「……ああ、知っている」
ヴィクトルはそう頷くと、あなたが教えてくれたことだ、とユリウスを懐かしいものを見る目で見た。
「……ルドガーを殺したんだな」
その手には銀の時計が握られている。ぎり、とそれを握りしめたユリウスにヴィクトルは止めておいた方が良い、と静かに告げた。
「あなたでは私には勝てない」
「それでも、引くことは出来ない!」
時計を構え、骸殻を纏ったユリウスが地を蹴る。咄嗟にヴィクトルの前に出ようとしたジュードをヴィクトルは手で制し、自らもまたビズリーから奪った時計で骸殻を纏った。
「ジュードは、エルを頼む」
そう言い置いてヴィクトルが斬りかかってきたユリウスを迎え撃つ。
ジュードはエルの手を引いて二人から離れると、そっとエルの眼を塞いだ。
「……大丈夫だよ、ジュード」
しかしエルはその手を外し、じっと前を見据えた。
「エルは、目をそらしちゃダメなんだよ」
「エル……」
強い決意を秘めた瞳で戦う二人を見詰めるエルに、ジュードはそうだね、と頷いてエルと同じようにじっと前を見据えた。
戦いはそう長くは続かなかった。ビズリーの時計を使う事で時歪の因子化の進行を止めたヴィクトルと、自らの時計を使っているユリウス。
長引けばどちらが不利なのか、火を見るより明らかだった。
そしてそれが決められた運命であるかのようにユリウスの時歪の因子化は進み、低く呻きながらユリウスは膝をついた。
「ここまでだな」
骸殻を解いたヴィクトルの剣がユリウスの首筋にあてられる。
時歪の因子化の進んでいく左手を押さえながら、ユリウスは悲しげな眼でヴィクトルを見上げた。
「全部……無駄だったか……」
「いいや、無駄ではない。少なくともあなたの死は、私たちの幸せを繋ぐ」
静かに剣を振り被ったヴィクトルに、ユリウスはふっと微笑んでルドガー、とその名を呼んだ。
今にも振り下ろそうとしていたその剣先が天を向いたままぴくりと震えて止まる。
「不甲斐ない兄で、すまなかった……」
「……」
ヴィクトルは仮面の下で短く瞑目すると、ユリウスのその微笑みを見下ろしたまま剣を振り下ろした。
ぐらりとユリウスの体が揺らぎ、倒れ伏す。そしてその身が闇色の歯車へと変わり、一筋の道がカナンの地へと伸びた。
ヴィクトルがエルとジュードを振り返る。
「さあ、行こう。私たちの幸せの為に」
二人はヴィクトルに歩み寄ると、その手を取って魂の橋を渡った。
そして三人は瘴気の満ちるカナンの地を駆け抜け、最深部へと辿り着く。
「よくぞここまで辿り着いた」
するとそこにはやはりクロノスが待ち構えていた。
ヴィクトルはエルを見下ろすと、時計を、と告げた。
「エルの時計を、パパに貸してくれるかい」
エルはこくりと頷くと首から提げていたピンクゴールドの時計を外してヴィクトルに渡す。
ヴィクトルがその時計を構えると、時計は光を纏って一振りの槍へと変化した。
それを見たクロノスの表情が苦々しげに歪む。
「その娘が鍵だったのか……!」
「勘違いしてくれて助かったよ」
ヴィクトルはジュードとエルを背後に庇い、骸殻を纏う。
「この槍は時空を超越するオリジンの無の力。最早貴様に勝ち目はない」
「くっ……認めぬ……これ以上、傲慢な人間どもの為にオリジンを苦しませるなど……!」
クロノスが放った術を槍で弾き、ヴィクトルは地を蹴った。
まるで吸い込まれるようにして槍がクロノスを貫き、槍から溢れた術式がクロノスの体を拘束する。
クロノスの悲鳴が響く。私たちの勝ちだ。ヴィクトルはそう囁くと槍を手放した。
空間に張り付けられたクロノスをそのままに、ヴィクトルはエルとジュードを呼んだ。
三人で頷き合い、その手を伸ばしてオリジンの座すそこへ手を触れる。
低い音を立てて扉が開き、瘴気に満ちたそこから少年を模った光が現れた。大精霊オリジンだ。
「はじめまして、ヴィクトル……いや、ルドガー・ウィル・クルスニク」
声変り前の子供のような声が穏やかに響く。
「審判は人間の勝ちだよ。約束通り、ひとつだけ願いを叶えよう」
ヴィクトルは左右に立つエルとジュードを交互に見る。
二人はこくりと力強く頷き、ヴィクトルはオリジンを真っ直ぐに見つめて告げた。
「私の時歪の因子化を解除してくれ」
「分史世界は放っておいて良いのかい」
オリジンの問いに、ヴィクトルは頷く。
「審判が終わればこれ以上分史世界が増える事は無い。あとは壊していけば良いだけだ」
そう言い放たれた言葉に、磔にされたままのクロノスがふざけるな、と低く呻く。
「まだオリジンに浄化を強要するのか!」
「クロノス……」
すっとオジリンがクロノスへと手を掲げると、クロノスを貫いていた槍が時計の形に戻って床を滑った。
「エルの時計!」
エルは駆け寄ってそれを拾うと崩れ落ちたクロノスを見詰め、そして再び父親とジュードの元に駆け戻ってきた。
ぽう、とクロノスの体が光を纏い、見る間にその傷が癒えていく。
「ありがとう、クロノス。ずっと僕を心配してくれていたんだね」
「我の事はどうでもいい!それより、人間どもに己が罪業を思い知らさねば……!」
クロノスの言葉に、オリジンは緩やかに首を横に振った。
「これが、僕と人間との約束だ」
寧ろ僕はほっとしているんだ、とオリジンは言う。
「ここに辿り着いたのがビズリーでなかった事に、僕は安堵している」
「だが、こやつとて自分達の事しか考えていないではないか!自分達の幸せの為に、お前に瘴気に焼かれ続けろと言っているのだぞ!」
苦々しく叫ぶクロノスに、しかしヴィクトルは言い放つ。
「幸せとは、他者の不幸の上に成り立つものだ」
その言葉にクロノスは歯噛みする。こんな人間の為に、と低く呻いて拳を握りしめた。
「これもまた、人の選択だよ」
さあ、とオリジンがヴィクトル達を見る。
「ルドガー・ウィル・クルスニク。君の願い、聞き届けよう」
オリジンが二対の腕を広げると、強い光が辺りを包み込んだ。
「っ……!」
「パパ!」
「ヴィクトル!」
ヴィクトルが顔を押さえて膝をつく。外れた仮面がからん、と音を立てて転がった。
ぱあん、と何かが砕ける音がして、ヴィクトルはゆっくりと顔を上げた。
ヴィクトルの顔の右半分からすうっと闇が消え、クリムゾンの瞳も左眼と同じアクアグリーンへと戻っていく。
「ヴィクトル……!」
「パパ……!」
ヴィクトルは微笑むと腕を伸ばし、二人を抱きしめた。
「これで、エルとパパとジュードで一緒に暮らせるんだよね!」
エルの言葉に、ああ、とヴィクトルは頷く。
「これからは、ずっと一緒だ」
ヴィクトルの時歪の因子化の解除を見届けると、オリジンはさようならだね、と微笑んだ。
「また会う日が、今日より少しだけ良い日でありますように」
クロノスがその傍らに舞い降りると、低い音を立てて扉が閉ざされていく。
九十九万九千九百九十九を刻んだまま、その扉は閉ざされた。

 


エルがカナンの地から帰ってきて、十年の時が過ぎた。
背も伸び、ぐっと大人びた少女はGHSを耳にあて、うん、うん、と頷いていた。
「わかった。パパにも伝えておくね!」
じゃあね、と笑ってエルはGHSをポケットにしまう。その足元で猫のような犬のような、菫色の光を纏った小動物がちょろりと動いた。
するとちょうど社長室からヴィクトルが出てきてエルは駆け寄る。ヴィクトルの足元にも琥珀色に輝く小動物が付き従っていた。
「パパ!ジュード、今日は早く帰ってくるって!」
駆け寄ってきた娘に、ヴィクトルは苦笑するとその額を指先で突いた。
「エージェント・エル、ここはどこだったかな」
それにエルはえへっと笑った。
「すみません、社長。でももうお仕事終わりでしょう?」
一緒に帰ろう、と笑う娘に、ヴィクトルもまた微笑んで二人はエレベーターへと向かった。
クランスピア社を出て、チャージブル大通りを並んで歩きながらエルは辺りを見回す。
「それにしてもほんと源霊匣使ってる人増えたよねー」
「ああ、ジュードの努力のおかげだ」
今や擦れ違う殆どの人が実体化した精霊を連れている。ここ数年で黒匣と源霊匣は入れ替わって行き、黒匣を使う人は随分と減った。
「ジュードがね、今日はチェリーパイを焼いてくれるって!」
エルの嬉しそうな声に、ヴィクトルもまた穏やかに微笑む。
「だったら、パパは今夜はクリームパスタを作ろうかな」
「やったあ!海老とブロッコリーが良いな!」
二人は仲良く手を繋ぎながらマンションへと向かう。
ヴィクトルとエル、そしてジュードの三人が暮らす、幸せな箱庭へ。
無数の死体を踏みつけながら、ヴィクトルは幸せそうに微笑んだ。


 


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