ロージュエンド

 


「それ、僕なんだ」
意を決して告げると、ローエンの目が見開かれた。
「あの時計に吸い込まれるような感じがして、でも気が付いたら何も覚えてなくて……」
「では……」
「多分、僕は十年前まで時間を越えて飛んだんだと思う。そこでローエンに拾われて、一緒に暮らした……」
ローエンは驚きに目を見開いたままジュードを見詰め、ふっと表情を和らげた。
「そう、だったのですか……」
「僕にとってはついさっきの事だけれど、ローエンにとっては七年前の事なんだね」
ええ、とローエンが穏やかな笑みのまま視線を伏せて言う。
「あの頃と比べると、髪も真っ白になりましたしね」
「元々銀髪じゃないか」
くすっとジュードが笑うと、おやそうでしたかな、とローエンもまた笑う。
「髭も立派になったしね」
あの頃は口髭だけだったのに、と笑うジュードに毎日の手入れは欠かせません、と笑みを零す。
「……ねえ、ローエン。ローエンにとってはきっともう僕の事は終わった事なんだってわかってる」
でも、と紡ごうとした唇をローエンの指がちょんと突いた。
「終わった事だと、いつ言いましたか」
「え……」
「私は未練がましい男なのですよ」
蜂蜜色の瞳が大きく見開かれ、ローエン、と呟いた。
「今でも、私は貴方を愛しています」
たった七年如きでは忘れられませんと苦笑するローエンに、ジュードは一歩、また一歩と歩み寄る。
「僕は、ローエンの傍にいても、良いの?」
「勿論です。傍にいてくださいますか」
すっとローエンの腕が持ち上がり、ジュードがそこに身を委ねた途端きつく抱きしめられた。
「また、この腕に貴方を抱く事が出来るなんて……」
長生きはしてみるものですね、としみじみというローエンに、まだまだこれからでしょうとジュードは笑う。
「いえいえ、体のあちこちは不調を訴えだし、衰えを感じずにはいられない年頃なのですよ」
「でも、長生きしてね」
ジュードはローエンを見上げて微笑む。
「僕、独りにされたら寂しくて死んじゃうから」
それはいけません、とローエンも微笑む。
「百まで生きねばなりませんね」
「大丈夫、僕がちゃんと健康管理してあげるからね」
ほっほとローエンは笑うとそれは頼もしいですね、とジュードの目尻に口付けた。
「ふふっ、髭がくすぐったいや。でも思った通りよく似合うね」
「愛する人のリクエストとあらば、応えねば男ではありません」
二人は笑いあい、月夜に照らされながらささやかな触れ合いを楽しんだ。

 


断界殻が解放されて一年。ジュードは源霊匣研究者としてエレンピオスのヘリオボーグ基地に勤めていた。
だがルドガーと名乗る青年と出会い、再びジュードはローエン達と各地を巡る事になった。
今でこそGHSという黒匣があるため頻繁にメールや通話でやり取りをしていたが、やはりこうして直接会えると嬉しい。
ルドガーに協力している今、ジュード達は新たに探知されたという報せを受けてルドガーの元に集まっていた。
進入点はトリグラフ。今回はルドガー、ローエン、アルヴィン、レイア、そしてエルとルルで向かう事にした。
ルドガーが意識を集中して跳んだ先は、トリグラフ港の一角だった。
取り敢えず情報を集めよう、とルドガーとローエン、アルヴィンとレイアで別れて商業区へと向かった。
トリグラフ中央駅方面へ向かうアルヴィンとレイアを見送って、ルドガーとローエンは商業区を歩く。
ここでも商業区は人で賑わっており、その人波の中を二人はエルとはぐれないよう進んでいった。
ふとルドガーが誰かにぶつかった。反射的に謝りながら相手を見ると、それはジュードだった。
見上げてきたジュードの瞳はどこかぼんやりとしていて、その目元と口元には青黒い痣があり、誰かに殴られたように見えた。
「こちらこそすみません、ぼうっとしてたもので……」
この世界のジュードはルドガーがわからないようだった。だが傍らにローエンを見つけると、大きく目を見開いた。
「ローエン……?」
ローエンは微笑むと、こんにちは、とジュードに笑いかけた。
「どうしてローエンがここに?お城を開けてて良いの?」
「こちらで会議があったのですよ。今はその帰りです」
ジュードはその言葉を疑う事無くそうなの、と小首を傾げた。
「それよりジュードさん、その顔の痣はどうしたのですか?」
ローエンの問いにジュードは視線を彷徨わせるとちょっと転んじゃって、と微かに笑った。
それが無理に浮かべている笑顔だと、ローエンだけでなくルドガーにもわかった。
「ですが……」
「本当に何でもないんだ。ごめん、僕用があるから行くね」
また今度お茶でもしよう、と笑ってジュードは居住区へと向かった。
「……気になりますね」
「ああ……」
顔を見合わせていると、近くで立ち話をしていた女たちがマティス博士だわ、とジュードの後ろ姿を見て言った。
「マティス博士、また顔に痣作ってたわね」
「最近頻繁よね。どうしてあんな男と一緒に暮らしているのかしら」
「何か弱みでも握られてるんじゃないの?」
「ほら、腐ってもスヴェントだし、マティス博士を脅すなんて簡単じゃないの?」
「あんな男が名門スヴェント家の当主だなんてねえ。先代はまだまともな人だったでしょう?」
「リーゼ・マクシアで二十年も暮らしてたそうだから、野蛮になっちゃったんじゃないの?」
彼女たちなりに声を抑えているつもりのようだったが、ルドガー達にはしっかりと聞こえていた。
二人は顔を見合わせると、頷き合ってジュードの去って行った方へと向かった。
恐らく彼女らが言っていたスヴェントの当主というのはアルヴィンの事だろう。
纏めると、ジュードはアルヴィンと暮らしていて、そのアルヴィンから暴力を受けている、という事らしい。
先程のジュードに時歪の因子は感じられなかった。ではこの世界のアルヴィンがそうである可能性があると二人は考えた。
ジュードを探して歩いていると、やがてその後ろ姿を見つけた。
後をついて行くと、ジュードは一軒の一軒家に入って行った。マンションやアパートが主流のこのトリグラフでは一軒家は珍しい。
エラール街道への出入り口にほど近いその場所に、ジュードは住んでいるようだった。
一先ずローエンがアルヴィンにメールを送り、駅方面を調べていた二人と合流を果たした。
聞いた事を説明すると、アルヴィンは嫌そうな顔をする。
「俺が時歪の因子かよ」
「まだわかりませんが、その可能性は高いと思われます」
アルヴィンは一つ溜息を吐くと、俺とジュードが一緒に暮らしている未来ねえ、とその家を見た。
「この世界のジュードは、おたくじゃなくて俺を選んだって事なのかね」
アルヴィンはジュードの事が好きだった。断界殻を開放した後、想いも告げた。
だがジュードは疾うにローエンを選んでおり、アルヴィンが選ばれる事は無かった。簡単に言えば振られたのだ。
「さて、そもそも私との事が無かったのかもしれませんしね」
様子を窺っていると、再びジュードが出てきた。しかし様子がおかしい。
ジュードは数歩も歩かぬうちにその場に座り込むと、両手で顔を覆って泣き出したのだ。
ローエンはルドガー達を見て小さく頷くと、ジュードの元へと歩み寄る。気配に気付いたジュードが涙で濡れた顔を上げた。
「ローエン……」
「どうなさったのです、ジュードさん」
片膝をついて優しく微笑みかけると、ジュードは一層涙を零してローエンにしがみ付いてきた。
「僕が間違ってたの……?ローエンじゃなくてアルヴィンを選んだ僕が悪かったの……?」
ぼろぼろと涙を零しながらジュードはローエンの胸で嗚咽を漏らす。
「それでも僕はアルヴィンが好きだったのに……!」
「ジュードさん……」
ローエンがその肩をそっと抱くと、勢いよく扉が開いた。現れたのは、不快げに顔を歪めたアルヴィンだった。手には銃を備えている。
「ローエン、なんでこんな所におたくがいんの」
「こちらに用がありまして。たまたまジュードさんをお見かけしたのですよ」
だがそんなローエンの言葉を聞いているのかいないのか、アルヴィンは据わった眼でローエンを見下ろしていた。
「それで、なんで俺のジュード君に触ってるわけ。俺の許可もなく」
「ジュードさんに触れるのに、あなたに許可がいるのですか?」
「当たり前だ!ジュードは俺のものだ!俺の、俺だけのものだ!」
その叫びに呼応するようにぶわりと漆黒の闇がアルヴィンの体から溢れ出す。間違いない、アルヴィンが時歪の因子だ。
アルヴィンの肌は見る間に漆黒に染まって行き、目だけが赤く光ってローエンを睨み付けていた。
それを見たルドガー達が飛び出してくる。その中にレイアと、アルヴィンにしか見えない男がいる事にジュードは涙で濡れた瞳を見開いた。
「これはどういう事なの、ローエン……」
呆然と呟くジュードに、ローエンは離れていてください、と微笑むと立ち上がってサーベルを抜いた。
「貴方を傷付ける者は、誰であろうと許しはしません」
ルドガー達も武器を構え、地を蹴る。この世界のアルヴィンは銃しか持っていない上に四人対一人だ。勝てる。
戦いの中でアルヴィンが銃を構え、時歪の因子と化した自身へと発砲する。それは確実にアルヴィンを捕らえるはずだった。だが。
「ジュード!」
その銃弾は、アルヴィンを庇う様に飛び出したジュードの体を貫いた。
ぐらりと傾げていくジュードの体。それを受け止めたのはこの世界のアルヴィンだった。
「……ジュード……?」
クリムゾンの眼を動揺に揺らがせ、アルヴィンは腕の中のジュードを見下ろす。
「……アルヴィン……無事……?」
「どうして……」
「僕、ね……アルヴィンを選んだのが、間違いだったとしても……アルヴィンが好きだよ……」
本当だよ、そう微笑んでジュードは目を閉じた。ジュード、とアルヴィンが呼びかけても返事は返って来ない。
「ジュード……」
呆然と息絶えたジュードを見下ろしていたアルヴィンがかたかたと震えはじめる。
「ジュード、ジュード……!」
時歪の因子に自我まで侵され、暴走し始めているのだ。ローエンがルドガーを振り返った。
「ルドガーさん!」
「ああ!」
ルドガーが骸殻を纏い、槍でアルヴィンの胸を貫く。
びくんとアルヴィンの体が震え、己の体内から抜き出された闇の歯車を見詰めた。
「……」
ぱあんと音を立てて歯車が砕け散る。闇に染まったアルヴィンはそれを見上げながら、薄らと笑った。
世界が割れ、トリグラフの一角にルドガー達は立っていた。正史世界に戻ってきたのだ。
何かを考え込むように黙り込んでいるアルヴィンをちらりと見て、ローエンはジュードのGHSを鳴らした。
早くジュードの笑顔が見たい。ローエンは切実にそう思った。

 


「へえ、そんな世界だったんだね」
宿で部屋を取り、ベッドに並んで座りながらジュードは小首を傾げた。
「分史世界のとはいえ、ジュードさんを撃ってしまった事にアルヴィンさんは落ち込んでいらっしゃる様子」
今はそっとしておいてあげてください、と言うローエンに、ジュードは頷いてローエンの肩に頭を乗せた。
「ローエンは、落ち込んでないの?」
「何故です?」
「ええと……何となく」
大丈夫ですよ、とローエンは微笑む。
「私には貴方がいます。だから、大丈夫です」
「うん……ねえ、ローエン」
「はい」
「最期まで一緒にいてね」
その言葉にローエンは瞑目すると、ええ、と笑ってジュードの手に己の手を重ねた。
「私はいつだって、貴方の傍にいますよ」
ありがとう、ローエン。ジュードはそう囁いて、重ねられた手に指を絡めた。

 


戻る