黒き土、真皓き光に黎明を知る


「……ぅ……」
アテムは小さく呻き声を上げるとその自らの声に目を覚ました。
「!」
急速に意識が覚醒し、その勢いで起き上がるがしかし飛び込んできた景色にアテムは呆然と眼を見開いた。
それは、先ほどまでの薄暗い王墓の中ではなかった。
「うーん…」
「!城之内君!みんな!」
背後から聞こえた呻き声に振り返ると、そこには城之内と杏子、そして海馬とモクバが同じ様に地に伏せており、ゆっくりと身を起こす所だった。
一同は土埃を払いながら立ち上がると、辺りを見渡す。
その場所自体に心当たりがあるわけではない。
しかし眼に飛び込んでくる景色には見覚えがあった。
建物の造り、暑さこそ感じないが眼に痛い日差しの強さ。それらがここがどこだかを教えている。
「ここって…古代エジプトじゃねえ?」
「そうよね…また記憶の世界なのかしら…」
城之内と杏子の戸惑った声にアテムもまたわからないと首を振った。
「確かにここは俺が居たころの王宮と同じ様だが…」

王宮は王が替わるたび建て直し、遷都するのが慣わしだった。しかしアテムの場合は突然の即位、ならびに邪神の復活によって結局アクナムカノンが使っていた王宮をそのまま使っていたのだ。
「お?誰か来たぜ!」

視界の端で動いた気配にはっとそちらを見る。
長い通路の向こうから一人の神官がやってきた。
海馬が無言でモクバを背後に庇うが、しかし神官は彼らに気付く事無く目の前を通り過ぎていく。
「…少なくとも見えてはいないようだな」
「そんでもって今回も触れねえみたいだぜ?」
城之内が神官の頭を叩くように手を薙ぐが、それは全く手ごたえを得られないまま通過した。
「つーかよ、飛ばされたのは俺らだけなのか?あの場には本田やバクラたちが居たってのによお」
「わからない…ただ、恐らく俺達をここへ連れてきたのはセトだ。ヤツは俺に<約束>を思い出せと言っていた」
「約束…遊戯との約束じゃないって言ってたわよね?じゃあ、誰との約束なのかしら…」
「お、おい!アレ!!」
「もう、何よ…ってええ?!」
城之内の指先が示した先を歩いていた人物の姿にまたしてもアテムたちは目を見開いた。
上質のリネンを纏い、幾つかの巻物を抱えた年若い神官。
その顔立ちは五人がよく知る少年と似ていた。
「羽蛾?!」
似ているなんてレベルではない。あの特徴的な眼鏡は無く肌も浅黒かったが、しかし一同が知る羽蛾の十年後は恐らくこうなるであろう姿そのものであった。
羽蛾に良く似た神官はやはりアテムたちに気付くことは無く彼らの間をすたすたと抜けていく。
「おい、追いかけてみようぜ!」
建物の中へと消えていくその後姿に慌てて駆け出す。海馬もまたモクバに促され、仕方ないといった面持ちでその後に続いた。
鮮やかな壁画に囲まれた通路を通り抜け、二つ三つと角を曲って辿りついたのはある一室だった。
羽蛾に酷似した神官は室内に声をかけ、室内へと入っていく。
アテムたちもそれに続き、そこにいた先客の姿に更に驚いた。
「な…」
さすがの海馬も思わず驚愕の声を漏らした。
室内はさほど広くは無く、しかし調度品は一級品と分かるものばかりで身分の高い者が使用していることが伺える。
辺りの箱や籠には丸めたパピルスや粘土板がそれぞれある一定の秩序を持って置かれており、明り取りの窓からは明るい日差しが室内を照らしていた。
その光に照らされて椅子に座っていたのは二人の少年。
年の頃は六、七歳程度と五歳程度の幼い子供達。
若き神官の面差しが羽蛾に似ているというのならば、彼らはそれぞれ海馬乃亜とモクバに酷似していた。
それに何より驚いたのは陶のモクバではなく、海馬の方だった。
海馬はモクバが生まれてからずっとその成長を見守ってきた。だから今よりずっと幼い頃のモクバの事も良く覚えている。
目の前のモクバに良く似た少年の顔立ちは、まさしく何も分からずただ兄の手を握ってついてまわっていたあの頃そのままだった。
「テフト、どうしたんだい」
乃亜によく似た少年は、羽蛾に似た神官をテフトと呼んだ。その声も口調もやはり乃亜によく似ている。
「ハレンドテス王子、ホルサイセ王子、王と王妃がお呼びです」
「父上と母上が?!」
和やかな空気が一気に張り詰め、乃亜によく似た少年が勢いよく立ち上がった。
「兄サマ…」
「大丈夫だよ、ホルサイセ。父上と母上に会いに行こう」
ホルサイセと呼ばれたモクバに似た少年は、ならばこちらはハレンドテスなのだろう、乃亜に似た少年に手を引かれて椅子からちょこんと飛び降りた。
どうやら二人は兄弟で、しかも現ファラオの息子らしい。
そして彼らはこれからそのファラオと王妃に会いに行くという。
ならば彼らの後を追えばファラオに会える。
「行こう!」
「うん、兄サマ!」
テフトを置き去りに部屋を飛び出した二人を一同は追う。
ファラオが誰なのかが分かれば、少なくともここがいつのエジプトなのかが分かるだろうと思ったのだ。
「……」
一人取り残されたテフトはふと視線を伏せ、その名を紡いだ。
「…ムトアンク様…」
痛みすら感じさせるその苦い囁きは、誰にも聞かれること無く消え落ちた。




幼い兄弟が向かった先は、王妃の居室だった。
入口には孔雀舞に酷似した女戦士が控えていてそれがまたアテムたちを驚かせたが、彼女が中へと声をかけると中から青紫の衣を纏った長身の男が現れた。
セトだ。
その胸元には千年錐が下がっている。ということは。
「父上」
「父サマ」
アテムたちはぎょっとしてセトの顔を見た。
目の前のセトがファラオであることはその首から提げられた千年錐によって確実であり、信じ難いが王子らが彼を父と呼んだ以上、最早疑いようがない。
しかしこのセトはアテムたちをここへ飛ばしたセトとは違うようだった。
アテムたちが知るセトより弱冠年を重ねているようで、恐らくアテムが封印された後に彼はファラオとして妃を娶り、子を成したという事だろう。
とすればアテムたちが知るセトより少なくとも五年から十年程度は経過しているはずだ。
「ハレンドテス、ホルサイセ。入りなさい」
その声も記憶にあるそれより落ち着いた低音だ。
そしてこのセトもまた、アテムたちの存在に気付く事無く二人の王子を室内へと誘った。
幾重にも垂れ下がり美しいドレープを描くリネンをすり抜けて辿りついた先でアテムたちを待っていたのは今までの驚きをひっくるめても足りないほどの驚愕だった。
「お前達の母は暫くの間眠りに就く」
居室の最奥は寝室となっており、成人男性でも四、五人は軽く寝れそうな広さの寝台は最高級を表す純白のリネンで覆われている。
「暫しの別れの挨拶を」
その寝台に横たわる姿は。
「「「遊戯!!」」」
武藤遊戯、そのものだった。
「母サマ!」
「母上…」
アテムたちはお互いに顔を見合わせた。
どういう事だ。
記憶の世界では遊戯はあくまで城之内たちと同じくイレギュラーであり、海馬とセトのように繋がりを感じさせる人物は居なかったはずだ。
けれどここに来てからモクバに乃亜、羽蛾や舞との繋がりを感じさせる人物に立て続けに出会っている。遊戯に似た人物が居ても不思議ではないかもしれない。
しかし遊戯に関しては一つ問題がある。
遊戯はアテムととてもよく似ている。
そう、前ファラオであるアテムとそっくりの人物。
単純に考えて王家に連なる者ではとの仮説が立つ。
だとしても、自分達の知る遊戯は男だ。
だが目の前で眠る人物は確かに顔こそ遊戯と酷似していたが、リネン越しに浮き上がる体のラインは女性そのものだった。しかもここは古代エジプトだというのにその肌は抜けるように白く、一見しただけでその肌が柔らかく滑らかななものだと予測できるほどの艶やかさだ。
ふ、とその長い睫毛が震えてゆっくりとアメジスト思わせる紫の瞳が現れた。
「母サマ!!」
「母上!」
二人の王子が身を乗り出すと遊戯に似た少女は声に導かれるように顔を僅かに傾け、ふわりと綻ぶように微笑んだ。
アテムたちの記憶にある、遊戯の微笑みと同じだった。
「…ハレンドテス、ホルサイセ…よく来ましたね」
その声音は優しく、遊戯とよく似ていたがしかしやはり女性の声だった。
「セト様とわたしのかわいい子どもたち…」
やはり彼女こそが二人の王子の母であり、セトの妻であり、この国の王妃のようだ。
しかも彼女は何かしらの理由で死に瀕しているらしい。
ゆったりと持ち上がった細い手がハレンドテスの、そしてホルサイセの頬を撫でる。
「母サマ!いやだよ!どこにもいかないでよ!」
「ホル…」
モクバによく似た幼い王子が母親の手に縋りついて泣き出す。乃亜によく似た兄王子がそっと慰めるように肩に手を置くが、弟王子の涙は止まらない。
「大丈夫…また必ず会えるから」
母というより年の離れた姉にしか見えない少女の指先がそっとその涙を拭った。
「ほんとう?」
「ええ。すぐには無理だけれど…いつかきっと会えるから」
「ぜったいだよ?やくそくだからね!」
「ええ、約束ね。…ハレンドテス」
「はい、母上」
伸ばされた華奢な手を握り、兄王子は凝乎と母を見る。
「ホルと仲良くね。余り守役をからかっちゃダメだよ」
小さく笑う母に、兄王子もわかってますよ、と苦笑した。
「ハレンドテス、ホルサイセ。痛みを分かる人になりなさい…王の痛み…民の痛み…大地の痛み…そしてその上でどうすれば良いのかを考えられるように…」
「はい、母上」
「はい、母サマ」
小さく、けれど力強く頷いた兄王子と涙を滲ませながらも大きく頷いた弟王子に少女は微笑んで頷きを返した。
「…ホル、行こう」
己の手を引いてその場を辞しようとする兄に、弟は悲しみを滲ませた目で見上げるがしかし兄はそれを断ち切るように首を横に小さく振った。
「父上と二人きりにしてあげよう」
「………」
兄の言葉に弟は逡巡した後、小さく頷いた。
「…ハレ、ホル」
立ち去ろうとする二つの小さな背に母の声が掛かる。
振り返ると、寝台の上から母が穏やかな笑みを浮かべたまま一言、
「またね」
と告げた。
「「はい」」
二人は泣きそうになりながらも笑顔で頷き、そして今度こそ部屋を出て行った。

「……ムトアンク」
部屋を出て行く子供達の後姿を見送っていた少女がセトの呼びかけに視線を上げた。
この遊戯に似た少女の名はムトアンクという名らしい。
「セトさま」
少女は柔らかく微笑むと腕を伸ばし、その白魚のような指をセトの褐色の腕に沿わせた。
「抱き上げて、くれませんか?外の景色を、見たいのです」
「ああ」
セトはまるで重さを感じさせない動作でその細い身体を抱き上げると、妻であり子と民の母である少女を窓辺へと連れて行った。
「…ねえ、セトさま」
暫くの間、二人は何を言うでもなく眼下に広がる町並みと遠くに見える砂漠を眺めていたが、ぽつりと少女が夫を呼んだ。
「何だ」
「アテムとセトさまには、感謝してもしきれません」
「……」
「あの子がくれた八年は、わたしに多くの幸せを齎してくれた…あなたとの幸せ、子どもたちとの幸せ、民との幸せ…人として生きる、幸せ…」
「……」
「あなたが名をくれたから、わたしはわたしになり、邪神と共に眠るはずだったわたしをあの子が身代わりになってくれたからわたしの今は在った…」
「…ムトアンク」
それまで無言で少女の絹を紡ぐような柔らかな声を聴いていたセトがその名を呼んだ。
「はい、セトさま…」
「………いくな」
たった一言、抑揚の無い声。
けれどセトの全ての想いが詰まったその一言に少女は一瞬驚いたように眼を見開き、次の瞬間には花が綻ぶような笑みを浮かべてセトを見上げた。
「少し眠るだけです…ほんの星の瞬く間のこと…」
「……」
憮然とした様子の夫に少女はくすくすと笑い、やがてああ、と溜息を零すように囁く。
ふわり、と少女の身体を縁取るように淡い光が灯ったが、セトも少女もそれについては何も言わない。
「わたしはアテムとの<約束>を果たせただろうか…」
「<約束>?」
しかし少女はそれには応えず夫の名を愛しげに呼んだ。
「セトさま…ワガママを言ってもいいですか…?」
「今更だろう。言ってみろ」
光は少しずつ、けれど確実に少女を包み込んでいく。
「目が覚めたらまた、セトさまの御傍にいさせてくださいね…」
その言葉にセトは「当たり前だ」と目元を微かに和らげた。
「お前は私のものだ。何時如何なる時代もその髪の一筋、涙の一滴、零れる微笑みその全てが私のものなのだ。私からお前を奪うものはたとえそれが冥界の神であろうと赦しはしない。お前は私のものだ、ムトアンク」
「はい、セトさま…」
少女は幸せに満ち足りた笑顔を浮かべ、そして一層その強さを増した光に飲まれるようにして消えていった。
「…っ…」
セトはせめてその温もりだけでも逃したくないと言うように、掌をきつく握り締める。
しかし少女と共に光までもが消え去ると、窓辺に提げられた日除けのリネンが風に揺らぐ微かな音だけが、広い室内に響いた。






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