黒き土、真皓き光に黎明を知る





「…どういうことなのかしら」
固くこぶしを握り締め、彫像のように立ち尽くす男の背を見つめながら杏子はぽつりと呟いた。
「何がだよ」
「だって、あのムトアンクって人はどう見てもゆ…アテムとそっくりよね。それこそアテムと遊戯みたいに。それにアテムのことを呼び捨てにしてたわ。セトさんでさえアテム王って呼んでたのに。ということはアテムの姉妹かなにかじゃないのかしら」
「俺の…?」
アテムの訝しげな声に杏子は頷く。
「ねえアテム。確かにあなたは記憶の世界でたくさんのことを思い出したんだと思う。けれどそれはどれくらいのものなの?戦いがあったとか、ファラオになったとか、そういう大きな事じゃなくて、日常的な些細なことは覚えてる?」
「それは…」
言われてみてアテムは考え込む。
確かにそうだ。自分がファラオであったこと、父のこと、千年パズルのこと、バクラのこと、アクナディンの反乱、そういった己という歴史の節目は思い出せる。
けれど些細な、そう、例えばファラオとなってからも自分を王子と呼んだマナやそのマナと自分と共に過ごしたはずのマハード、彼らの事は記憶の世界で得た知識でしか覚えが無い。
母の顔とて思い出せないのだ。
記憶の世界で王として振る舞い、真名を取り戻しただけで全てを思い出した気になっていた。
当時のエジプトでは理由も無く子供が一人だけという方が珍しい。
父であるアクナムカノンとてアクナディンという片割れがいたのだから。ただし双子は不吉だということからその出生は彼の反乱が起こるまでは隠されてはいたが。
ならば己にも兄弟がいてもおかしくは無い。
それがあの、ムトアンクと呼ばれたアテムに、否、遊戯に良く似た少女なのかもしれない。
そう、もしかしたらアクナディン以上に秘された存在だったのかもしれない。
日に焼けて荒れた様子も無く、瑞々しさを感じさせる肌と年齢を曖昧にさせる幼い面立ち。
彼女の肌はこの黒き地の王の血筋として生まれたにしては有り得ない白さだった。
「それに、あの人は自分が邪神と眠るはずだったって言ったわ。それって本当はアテムじゃなくて、あの人がゾークと一緒に封印されるはずだったってことよね?」
「そうなるな」
「だったらアテムはどうして自分ごとゾークを封印しようと思ったの?そもそも、ゾークだけを封印することは出来なかったのかしら」
「それは…」
思い出したと思っていた、けれど実際は空白だらけだった記憶を掘り起こす。
あの時自分は何を考えていた?
倒せないと思った。ゾークを完全に倒す手段は残されていないと。
だから封印しなければと思った。
思った?
「……違う」
「え?」
「…そうだ、千年パズルにゾークを封印すると言い出したのは、俺じゃない…」
そうだ、誰かが言ったのだ。
千年錐に邪神を封じましょう、と。
「誰かが…」
光が見える。
白い靄の中で、ぼんやりとした姿が見える。
あれは誰だ。

「ファラオ」

白い靄を引き裂く声にアテムははっとして視線を上げた。
一同の視線が一気に声の主へを向けられる。
入口には、羽蛾によく似た若い神官が立っていた。
「…入室の許可を出した覚えは無いが」
背を向けたままの言葉に彼はその場で膝を着いて頭を垂れた。
「お暇を頂きたく存じます」
無礼を詫びるでもなく続けられたその申し出に、セトはゆっくりとこちらに向き直る。
「…ムトアンクの後を追う気か」
「私の忠誠はあの御方に捧げております。あの御方がオシリス神の元へ今一度お帰りになられるのならばお供したく」
「許さん」
テフトの口上を短く、しかし鋭く切り捨てると彼は腰に巻いた革紐に差し込んであった包みを引き抜くと、巻きつけてあった麻布を取り払った。
現れたのは、千年錐と同じく闇の輝きを以って生み出された杖、千年杖だった。
「貴様はこれより千年杖の正当なる所持者となる。よって、死ぬことは許さん」
「……私は呪われた血を引く宦官です」
「蟲を使うから何だと言うのだ。宦官である事が何の問題であるというのか。貴様はムトアンクの信を得た。それで十分だ」
「しかし、私は……」
「その身が呪わしいか。恥ずべきものか。ならば貴様の蟲繰りを誉め、宦官となった貴様に涙したムトアンクは愚かな女だったという事か」
「滅相もございません!!」
思わず顔を上げたテフトははっとして再び顔を伏せた。
「ムトアンク様は村を追い出され砂漠で行き倒れていた私を助けてくださったばかりか名を授けていただき、この呪われた力をも誉めてくださいました。宦官となった私に怒り、涙してくださった!ムトアンク様は素晴らしい御方です!あの御方こそがこのケメトの光そのもの…!!」
「…ムトアンクを愛していたか」
「っ…!」
一瞬頭を垂れたままのテフトがびくりと驚愕に身を震わせた。
伏せたその影の奥でテフトの眼が大きく見開かれる。
「ならば生きよ。ムトアンクが愛し、遺したものを守れ。その中に貴様自身も含まれているのだ。貴様が自身を害することはムトアンクの愛したものを害すると同義。ムトアンクを愛していたのであればムトアンクの愛を裏切るようなことをするな」
「…ッ…ムトアンク様…!」
テフトは呻くような声を上げてその場に泣き崩れた。
セトはその姿を痛ましげに見下ろし、しかし吹っ切るように若き神官の名を呼んだ。
「テフトよ、受け取れ。千年の闇を、そして我らが母の祈りを」
差し出された千年杖。テフトは涙で汚れた顔を上げると鈍い光を放つそれを見上げ、やがてぐいっと袖口で顔を拭ってその手を伸ばした。
千年杖がセトからテフトの手に渡る。
「…ムトアンク様のご帰還するその時まで、千年神官が一人としてこの身、ファラオと黒き大地に捧げる所存」
その言葉にセトは苦笑する。
「ムトアンクが戻れば貴様はまたムトアンク付きに戻るというわけか」
「蟲の民は生涯に一人しか主を頂かぬゆえ」
「まあ良い、下がれ。私は暫くここに残る。マユリにも下がるように伝えておけ。私がここを出るまで誰もこの部屋に近づけさせるな。王子らも例外ではない」
「畏まりました」
「それと一つ、貴様は思い違いをしている」
テフトは去ろうとした足を止め、セトを見る。
「ムトアンクはオシリス神の元へ還ったのではない。私が一時の間オシリス神に預けてやっているだけであり、あれが還ってくるのは私の傍らの他は無い」
「…はい」
千年杖を携えた神官は僅かな穏やかさを帯びた視線を伏せ、一礼すると静かに部屋を出て行った。

「…私達も出ましょう」
杏子の言葉に城之内がきょとんとする。
「へ?何でだよ」
「いいから、早く!」
「お、おい!杏子?!」
「ほら、みんなも早く!」
「あ、ああ」
杏子の剣幕に圧されつつもアテムは頷き、杏子とその杏子に押し出されている城之内の後に続いた。海馬は何か気に食わないような面持ちだったがその身を翻し、モクバが後に続いた。
「何だよ杏子!」
全員が廊下に出て漸くほっとしたように息を吐いた杏子に城之内が喚く。
「だって、これ以上あの場にたらダメだって思ったんだもの」
「何でだよ」
「…あの人、きっと凄く泣きたいんだと思うの。でも泣く前に羽蛾によく似たあのテフトって人が来てしまったから王としての顔で居なくてはならなくて、哀しいとかそういうのすら表に出せなかったんだと思うの。だけど一人になりたいってことは多分、その間だけは王としての立場とか、そういうのは無しにして愛する人を失った一人の人間に戻りたいってことなんだと思ったの。…そりゃあ、彼らには私達の姿は見えないし、ここは記憶の世界か何かだろうから気を使うのも可笑しいのかもしれないけれど…やっぱり、そういうのって、見ちゃいけないと思ったから」
どこか決まり悪げに言う杏子に、城之内は分かったような分からないような表情で「そういうもんか」と頷いた。
「とりあえず、話を整理してみましょ。まず、ここは何処なのかしら?古代エジプトっていう事じゃなくてね」
「また記憶の世界じゃねえの?」
「しかし俺の時はバクラが闇の力によって作り出したある種、仮想現実みたいなものだったがな」
「あの時はブラック・マジシャン・ガール…マナって子が私達の姿が見えてたけれど、今回はどうなのかしら」
誰か一人でも自分達の姿が見えれば状況を把握できるものの、しかし今のところ見覚えのある面差しには出会っても、誰一人として彼らを認識してくれはしなかった。
「マナを探してみるか?」
「そうねえ…アテム、マナが普段は何処にいるかとか分かる?」
「いや…マハードの部屋なら大体分かるんだが…」
「じゃあとりあえずそいつの部屋行ってみようぜ!」
「だがマハードはあの戦いでブラック・マジシャンとなった。マハードの石版は俺の王墓に安置されているはずだから、マハードの部屋は残ってないと思う」
「そっか…」

「貴様らは揃いも揃ってうつけか」

鋭利なまでのその声音にアテムたちの視線が一点に集まる。
「兄サマ…」
そこには今まで沈黙を保っていた海馬だった。
「何だと海馬!」
「喚くな凡骨。先程から黙って聞いていれば論点のずれたどうでも良いことばかり」
「どういうことだ、海馬」
アテムの問いかけに海馬は鼻を鳴らして視線を細めた。
「わからんのか?ならばうつけにも分かるように教えてやろう。そもそもの原点を思い出せ。何故ここへ飛ばされた?誰が、何のために?」
「それは…セトが俺に…そうだ、<約束>だ!」
指摘されてはっとする。確かにここに来てから余りにも驚くことばかりで論点がこの世界の事に偏ってしまっていた。
「そうだわ、ムトアンクって子も最期にアテムとの<約束>をって言ってたけれど…アテム、心当たりある?」
アテムは暫く考え込んでいたが、しかし無言で首を横に振った。
「わからない…あの相棒によく似た人が俺にとって誰だったのかも…」

『否。貴方は覚えている』

響いた低音にアテムたちは海馬を見る。しかしそれは海馬の言葉ではない。
海馬もまた振り返った。
「セト…!」
一同から少し離れた所にセトが立っていた。
先程まで彼らが見ていた青紫の衣に身を包んだ男ではなく、青の神官服を纏い向こう側の透けた体でこちらを見ている青年。
それは正しく一同をここへ送り込んだセトだった。
しかしその腕に遊戯の姿は無い。
「セト!相棒を何処へやった!相棒は無事なのか!?」
『逢いたいのであれば、貴方は思い出さなくてはならない』
「<約束>、か?」
『そう…目覚めのためには貴方がその<言霊>を思い出すしかない』
「だがお前は相棒との<約束>ではないと言った。やはり、あの相棒によく似た女性の事なのか?相棒もまたこの時代に生きていた一人…俺の肉親だったのか?!」
困惑気味のアテムに、しかしセトはゆるりと首を横に振る。
『それは貴方自身が思い出さなくてはならないこと。私の口から語るべき事ではない』
「ならばセト、一つだけ教えてくれ。ここはお前の記憶の世界なのか?」
『そうであると同時にそうではない。ここは私を初めとする多くの記憶が漂い、解放の時を待ち続けている…謂わば記憶の牢獄…』
「記憶の、牢獄…」
『無数の記憶がうねり、響きあいながらただ一つの魂の帰還を待ち続けている…貴方の記憶もどこかにあるはずだ。アテム王よ』
「俺の記憶が、ここに…?」
『この時代に飛ばされたのは貴方をこの世界に引き入れたのが私だったからだ。私の記憶の中で何より深く刻まれている瞬間へと自動的に飛ばされてしまったのだろう。しかし貴方が願えば自ずと取り戻すべき記憶を手繰り寄せることが出来るはずだ』
「なら…」
「待て」
すぐにでも記憶を手繰り寄せようとしたアテムを制止したのは海馬だった。
「何だよ海馬」
城之内の言葉を海馬は無視してセトに問いかける。
「何故俺たちを選んだ」

「どういう意味だ」
海馬はアテムへは一瞥をくれただけで再びセトへと視線を向けた。
「あの場には多くの者がいた。それこそこの非ィ現実的世界との関わりとの有無ならばあの墓守の奴らとて同じはず。それを何故この面子なのだ」
海馬の言葉に城之内がそれもそうだと小首を傾げる。
「アテムや海馬はともかく…まあモクバもさっき出てきたからわからんでもないけどさ、俺や杏子はこの時代に関係あるのか?」
『それは私が答える事柄ではない。ただ、これだけは教えてやろう』
その視線が海馬を捉え、抑揚のない声が淡々と告げた。
『お前は私であり、私はお前である』
セトの言葉に海馬は不快げに表情を歪め、「下らん」と吐き捨てた。
「俺は前世だの生まれ変わりだのという非ィ科学的且つ戯けた事は信じん」
『信じたくなければそれも良い。しかし覚えておくがいい。人間は肉体と魂、魄の三つで成り立っている。そして私は私自身の記憶…魂の欠片だ。お前たちが<記憶の世界>と呼ぶこの世界が存在する限り私はここに在り続ける。それはつまりお前の魂は欠けたままという事だ。…魂の欠けた者はいずれ肉体との齟齬を生じさせ死を招く。お前はこれまでに幾度と無く肉体を得て来た。しかし魂の欠如の結果、どれも長くは続かず結局は崩壊の道を辿ったのだ』
「それこそ下らん。俺は神だの魂だのも信じておらん。死ねばそこまでだ」
『お前がそれでよいのならそれで良いだろう。だがここには私以外の記憶も存在している。アテム王やテフト…そして、ホルサイセ』
聞き覚えのある名に海馬はぴくりと反応する。
そう、彼の息子の名前だ。
ハレンドテスとホルサイセ。
兄王子であるハレンドテスは乃亜に似ていた。
そして弟王子であるホルサイセは。
「…モクバもまたそうであると言いたいのかッ」
海馬とセトがそうであるのであれば、モクバとホルサイセもまたそうなのだとセトは言いたいのだろう。
「兄サマ…」
唸るようなその声にモクバは思わず兄の袖を掴んだ。
『ハレンドテスは生来の性格もあったやもしれんが大体の分別のつく年だった故に母の不在を受け入れ、また死後はイアル野へ行く事を拒まなかった。しかし未だ幼く気の強かったホルサイセにはそれを受け容れる事は難かったのだろう。年を重ねるごとに母への思慕を歪ませていった』
そして、と彼はそこで一度言葉を切ってその切れ長の眼を伏せた。
『…遠い昔の話だ』
彼はまるでその胸に湧き上がる何かを振り切るように首を横に振り、ゆっくりと視線を上げた。
『…お喋りはこれくらいにしておこう。さあ、アテム王よ…彼の者の目覚めを望むのならば手繰るがいい。貴方の失われた記憶を…』
「セト!」
景色に溶け込むようにして消えていく男にアテムが呼び止めるようにその名を呼んだが、しかし男は再び眼を伏せるとそのまま消えてしまった。
「何だよアイツ、言いたいこと言うだけ言って消えちまったぜ」
「いや、セトは相棒を目覚めさせる方法を教えてくれた。それで十分だ」
アテムは静かに眼を閉じえると、朧ろげながらも記憶を手繰り寄せるイメージを膨らませてみる。
思考の奥深く、白い光の中に何かが見える。
「…っ…」
それが何かを知覚した途端、空気がびりりと震えてアテムははっと眼を見開いた。
「な、何だぁ?!」
「一瞬、景色が歪んだわ」
眼を閉じていたアテムには分からなかったが、まるでテレビの映像が途切れるように景色が歪んだという。
「糸が、見えたんだ」
「糸?」
「記憶を手繰り寄せようとイメージしたら、白い空間の中に一本の赤い糸が漂っていたんだ。それを掴もうとしたら空気が震えた。多分、あの糸が別の記憶に繋がっているんだと思う」
「じゃあ、その糸を掴めば違う記憶に跳べるって事かしら」
「確証は無いが、セトの言っていた事と合わせてみるとそういうことなんだと思う」
「よし!じゃあ行ってみようぜ!」
「そうね。ずっとここにいても仕方が無いし」
「ああ…そうだな」
そう言ってアテムはもう一度同じようにイメージしてみた。
やはり光の空間の中に、どこからともなく一本の赤い糸が漂っている。
それに手を伸ばすと、また空気が震えた。しかし今度は臆する事無くアテムはその糸をしっかりと握った。


空気の震える音と光が溢れ、やがて辺りの景色もまた光に塗りつぶされた。











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