黒き土、真皓き光に黎明を知る







最初の記憶は、自分を呼ぶ優しい声。
その次に、柔らかな掌の感触。


――アテム、こちらへいらっしゃい…


ああ、どうして忘れていたのだろう。
あの慈愛に満ちた眼差しを。
あの暖かな腕に抱かれる心地よさを。


――アテム、わたしのかわいいおとうと…


どうして貴女を忘れてしまっていたのだろう。
俺がただ一人心から愛した存在、ネフェルカ。







この黒き地に邪神が降り立つより十七年ほど前、この国の王妃が王の子を産んだ。
王女であるとの告げはあったが、しかし習わしとなっているはずの王宮から市民への披露目はいつまで経っても無かった。
それから半年と過ぎても誰一人王女を見たという者はおらず、やがて市民の間では王女は忌み子だったのではとまことしやかに囁かれた。
しかしそれから暫くして、王女についての公式の触れが出た。
どうやら王女は生まれながらにして身体が弱かったらしくこの国の強い日差しすらも身体に障るという事だった。それを証明するように王女が生まれて間も無く何人もの典医が召し上げられたと聞く。
そして王女が民の前に姿を現さぬまま五年が過ぎ、王妃は第二子を産んだ。
夜明けの空の色をした瞳を持つ男児は王宮の露台から王の手によって市民への披露目が行なわれ、国中が沸いた。


それから更に一年後。


王宮の奥、そこに勤める者でも極限られた者しか出入の出来ぬほどの奥まった位置にある、緑溢れる中庭には軽やかな笑い声が響いていた。
「アテム、ほらアテムいらっしゃい」
鈴の音のように軽やかで、けれどそれより遥かに柔らかな声音は一人の赤子に向けられていた。
上等の亜麻布に身を包んだ赤子はくるりと大きな深紅の瞳を瞬かせ、よたつきながらもゆっくりと声の方へと歩んでいく。
「そう、ゆっくり、ゆっくり…」
時間を掛けてその声の元へと辿りつくと、ぽふんと軽い音を立てて赤子はその胸に飛び込んだ。
「えらいわね、アテム。よくがんばったわね」
赤子を胸に抱いてその頭を撫でるのは今年五つの年を迎えた少女、そう、この国の王女だった。
きゃあきゃあと喜びの声を上げる弟王子をあやすその姿は民衆に触れた『病弱』とは程遠く、亡き王妃によく似た顔を喜色に染めていた。
しかし彼女を一目でも見た者は彼女が民の前に姿を現さぬ理由を即座に理解しただろう。
彼女はこの国には無い白い肌を持って生まれたのだ。
この国でもっとも尊い色を宿した瞳、王妃によく似た顔立ち、王から受け継ぎし慈悲深き心。
しかしたった一つ、肌の色だけは異端だった。異端の王女は民の前に姿を現す事無く、この広く狭い王宮の中での生を強いられていた。
だが少女自身はそれを不満に思ったことは無い。
確かにこの高く聳える塀の向こうには広い世界が広がっているし、彼女もそれを知っていた。けれど彼女には敬愛する父王と今は亡き母、優しい侍女や神官、そして何より愛しい弟王子がいた。それ故に彼女はこの王宮を自身を囚える檻ではなく、自身を守る翼なのだと信じていた。
「え?…あら、お父様だわ!」
少女は不意に何かに囁かれたように小首を傾げると振り返った。
そこには二人の父、そしてこの国の王であるアクナムカノン王がシモンらを引きつれこちらに向かってゆったりと歩んでくるところだった。
「お父様、シモン様」
少女は赤子を全身で抱き上げるように持ち上げるとよたよたと父王の元へと向かう。

そして、その姿を見送る幾つもの視線があった。
「可愛い〜!ちっちゃいアテムも遊戯も凄く可愛い!!」
杏子がじたばたと何やら悶えている。城之内もへーだのほーだの間の抜けた声を上げてアテムと記憶が映し出す景色を交互に見ていた。
「お前にもああいう時期があったんだなあ」
「そりゃ、まあ…」
実はこれは昔のアルバムを見られるより恥ずかしいのではないだろうか。アテムは急に気恥ずかしくなってきて視線を右に流したり左に流したりしている。
「そんなことより肝心のものは思い出したのか」
浮ついた色の無い静かな声にアテムははっとして首を横に振った。
「いや…確かにあの女性が俺の姉だったことは思い出したんだが…肝心の<約束>が何の事なのかは…」

「では次へ行くぞ。時間の無駄だ」
「ああ…」
もうちょっと見ていたい気もするけどね、と舌を出す杏子に苦笑してアテムは再び意識を集中させた。
一度行なったことでコツを掴んだのか、今度は白い空間の中に何本もの赤い糸が漂っている。
アテムがその中の一本を無造作に選び取ると、再び景色は歪み、光に塗りつぶされた。




浮遊感が薄れ、足の裏にしっかとした感触を感じてアテムは薄っすらと眼を明けた。
まだ光は完全には治まっていなかったが、次第にそれも治まってきたのできょろきょろと辺りを見回してみる。
見覚えのある部屋だ。
そう、確かここは…


「アテム」

柔らかな声にはっと振り返ると、そこには成長した己と姉が仲良く並んで座っていた。
机の上には粘土板が置かれ、弟が何やら彫り込んでいる。姉はそれを横から優しい眼差しで見守っていた。
「そこはこう書くのよ」
姉のしなやかな手が弟の手にそっと被さり、正しい書き方を指南する。
「…そう、上手ね。アテム」
「姉上の教え方が凄いんだぜ」
「そう?嬉しいわ」
ああ、そうだ。
幼い頃からずっと姉はそうやって一つ一つを丁寧に教えてくれた。
守役や教師は何人もいたけれど、姉に教わった方が何倍もよく分かったし、何より楽しかった。
そんな近くて遠い昔の記憶に浸っていると、静かに、しかしどこか焦りを感じさせる気配が近づいてきた。姉がそれに逸早く気付いて顔を上げる。
「姉上?」
『王女、王子、宜しいでしょうか』
扉の向こうからの声に王子もそちらに顔を向ける。
「お入りなさい」
王女の声に扉が開かれる。
「失礼いたします」
入ってきたのはアテムが知っている彼とさほど変わらない姿をしたマハードだった。
その首からは千年輪が提がっており、アテムはこの記憶がいつのものなのかを悟る。
最初の記憶からまた随分飛んだものだ。
「王女、例の青年ですが…」
膝を着いたマハードが切り出した話にアテムはやはりと思う。
「王女付きの官になりたいと申し出まして」
すると彼女は喜色を浮かべて胸元で掌を合わせた。
「ほんとうに?嬉しいわ」
「は。しかし後宮の官は女人のみとなっております故…」
「いいじゃない。今はいないけれど昔はいたのよね?」
「確かに王女のお生まれになる以前はいましたが…その…それらの官は特殊な事情の者どもでして…」
「特殊?」
きょとんとして小首を傾げる王女に、マハードは幾分か迷ったような素振りを見せたがしかし意を決したように問いかけた。
「王女は、宦官をご存知ですか」
「かんがん…」
王女は問われた単語を反芻するように呟き、やがてその大きな瞳を更に見開いて頬を染めた。
この国では異端とされる白い肌にさっと朱が注す様はとても可憐で愛らしかったが、しかし今はそれに見惚れている場合ではない。
「その…知識としては…」
「王女が聡明で助かります。後宮に仕えておりました男の官の数自体は然程多くはありませんでしたがそれら全員が宦官でした」
朱に染まっていた頬は見る間にその色を失い、胸の前で合わされた掌はきゅっと握り締められる。
「それ故に申し出は叶えられないと伝えたところ、その…」
言葉を濁すマハードに王女は思わず立ち上がった。
「…何が、あったの…?」
その表情は不安の色が滲み始めており、今にもマハードに詰め寄らんばかりだ。
「…先刻、自らの陽物を切り落としました」
ひゅ、と王女の喉が鳴り、彼女は震える手で口元を覆った。
「…なんてことを…!」
「兵が巡視の際に発見しました。現在は医務室で治療を受けております」
「それで、容態は…!」
「発見が早かったので適切な処置をすれば命に別条は無いそうです。意識もはっきりしており、王女付きになる為の可能性が欲しかった、と」
「…今、彼は何処に」
「特別牢の医務室に」
すると王女は傍らで話が良く分からず、ただ二人のやり取りを眺めているだけの弟王子の頭をそっと撫でると「少し用事が出来たから、マナと遊んでいらっしゃい」とぎこちない笑みを浮かべた。
「わかったぜ」
「いいこね、アテム」
そうして王女はマハードを従えて部屋を出て行ってしまう。
アテムはこの部屋に残るべきか迷ったが、しかしこの後自分がどうしたかは思い出していたので彼女の後を追うことにした。
そう、この時の自分は姉が去ってしまった事を不満に思っていた。
本当なら日が落ちるまで一緒にいられたはずが、見ず知らずの男のために中断されたのが腹立たしかったのだ。
そうだ、思い出した。
あの羽蛾によく似た青年は、姉が連れてきたのだった。
姉は民衆の前に姿を現すことの無い王女だった。
彼女が自由に動けるのは王宮の中のみで、時折神殿に人目を忍んで足を運ぶ程度だった。
しかし一度だけ、彼女は王宮を飛び出したことがあった。
この記憶の日から十日ほど前のことだ。
彼女は突然翼竜の形をした精霊を呼び出すと空高く舞い上がり、侍女が止める声も聞かず王宮から飛び去ってしまった。
当然、宮中は混乱した。
知らせを受けたアテムも姉が飛び去ったと去れる方角へ向かおうとしたのだが、王子まで行かせてなるものかと官たちの必死の制止によってただ只管待つ事を余儀なくされたのだ。
一刻ほどして姉を乗せた精霊は戻ってきたが、しかしその背には姉ともう一人、見慣れない青年を乗せていた。
姉の説明によると、助けを求める精霊の声が聞こえたのだという。彼女は幼い頃から精霊の声を聞き、ディアディアンクなしでもその力を借りることが出来た。そんな姉だからこそ聞こえたのだろうが、悲痛な精霊の声に導かれて砂漠の只中に駆けつけてみればそこには精霊の宿主である青年が行き倒れていたのだという。
もう暫く行けばオアシスがあったのだが、しかしそこまで辿りつけなかったのだろう。
青年は酷く衰弱しており、姉に助けを求めた精霊も声を飛ばすのが精一杯だったそうだ。
どうしても自分が看病すると聞かない姉を、ならばせめて特別牢に入れることで承諾させた。
特別牢は罪人ではないが何かしらの理由で勾留しなければならない者を収容する牢で、通常の牢と比べて遥かに待遇がよく、清潔感も保たれている。
青年は一晩の後に意識を取り戻した様だった。
名前は知らない。
姉は知っていただろうが、アテムとしてはどうでも良かったので聞いた覚えが無かった。
「アテム!」

足早に特別塔へ向かう二人の後を追いながら記憶を反芻していたアテムははっとして声のした方を見た。
「城之内君!」
そこには城之内を始めとする全員がこちらに向かって来ていた。
「お前だけいねえから慌てたぜ!」
「すまない、みんな」
どうやらアテムとは多少なりとも離れた場所に飛ばされてしまっていたらしく探していてくれていたらしい。
記憶を追うことに夢中で仲間の存在すら忘れていた自分を内心で恥じながらもアテムが状況を説明すると、城之内がぎょっとして声を上げた。
「はあ?!それで何でその…アレを切り落とすってハナシになるんだよ?!」
すると海馬が嘲笑うように鼻を鳴らした。
「宦官も知らんのか凡骨が」
「うーるせえな海馬!てめえは黙ってろ!」
「離宮はともかく後宮は殆どが女官なんだ。そこに男の官が混ざるとその、環境的に余り良くないというか…」
「でもよ、切っちまう程の事かぁ?」
「女官と出来上がるだけならまだ良いんだが、もし王女や王妃とそういう事になって子供が出来てしまうと困ったことになるんだ」
すると城之内は漸く得心がいったように「あー」と間の抜けた声を上げた。
「特に今回の場合は神官でもなければ兵でもない、何処の誰だかもわからない男だ。そんな男が突然姉上の傍付きになりたいと言った所で、普通なら叶えられるはずがなかったんだ」
だが、とアテムは扉の前で立ち止まった姉の後姿を見る。
兵が格子を開け、姉とマハードはその奥へと進んでいく。
その後を追い、室内に入ると数人の典医が王女に気付いて膝を着いた。
騒ぎの原因である男は今は寝台の上に横になり、意識が無いのか眠っているのか微動だにしない。
「容態は」
「はい。どうやったのか鋭利な刃物で切り落としたように断面は潰れておりませんでしたので、往来の宦官手術と同じように処置をし、栓を詰めました。あとは三日後の栓抜きの際に排尿が上手くいけば問題ありません」
「そう…マハード」
「はっ」
眠る男を見下ろしたまま、王女は傍らで膝を着いた男に告げる。
「少しの間、二人だけにしてください」
「しかし…」
「構いません。この者は危害を加えてくるような方ではありませんし、万一の際も私には精霊がいます…少しだけでいいのです。お願いします」
「…畏まりました。では、私は外で今後のこの者の処置について典医と話してきます」
「お願いします。出来るだけ、手厚い看護を」
「はっ」
そうしてマハードが典医を率いて出て行くと、部屋はしんと静まり返った。
「……」
王女は小さな溜息を吐き、傍らに用意された椅子に腰掛けると枕元に置いてあった布を手に取って青年の額にそっと押し当てた。
傷による発熱と痛みでその額には玉のように汗が浮いており、王女は青年を起こさぬよう丁寧に拭っていく。
きゅっと唇を噛み締める表情は怒っているようだったが、しかしその瞳には涙が今にも溢れそうに揺らいでいて、怒っているような表情は涙を押し留めるためのものだと知る。
「……っ…」
眠っていた男の表情が歪み、その喉が微かに呻くような声を漏らした。
慌てて手を引くが、しかしもう彼の意識は浮上してしまったようで薄っすらとその眼が開かれた。
つり上がり気味の切れ長の眼がぼんやりと天井を見上げ、やがて傍らの存在に気付いた。
「…お、う、じょ」
「ごめんなさい、起こしてしまって。本当はお水を飲ませてあげたいのだけれど…」
去勢手術を行なった者は三日後の栓抜きが終わるまで飲食は一切禁止されている。男もそれは分かっているのだろう、構わないと言う様に首をゆるゆると横に振った。
「マハードから聞いたわ。…私の所為ね」
俯く王女へと青年がゆっくりと手を伸ばすと彼女はその手をそっと包むようにして握った。本来のお互いの立場を考えれば青年が王女である少女に触れるなど重罪である。
しかしここには彼らしかおらず、それを咎める者はいなかった。
「…俺は、卑怯だ。こうすれば、あんたが罪悪感に駆られるであろう事をこの十日で悟った。あんたへの忠誠を示せば、あんたはそれに応えてくれると確信していた」
「どうして…」
はらり、はらりと握られた手の上を涙の粒が滑り落ちていく。
まるで、宝石の様だと男は思う。
「あんたは俺を助けてくれた。俺の力を知っても恐れるどころか好んでくれた。俺の精霊を愛で、微笑むあんたの姿に、俺は救われたんだ」
頼む、と男は掠れた声を紡ぐ。
「俺をあんたの傍に置いてくれ。俺の魂と魄、肉体、その全てをあんたに捧げたいんだ。確かに俺は今まで碌な教育を受けてない。出来ることといえば蟲繰りくらいなもんだ。けど、あんたの為に全てを学ぶ。あんたの為に全てを修める。だから頼む。俺に名前をくれ。俺の全てはあんたに捧げたのだという証を」
「…っ…」
王女はきゅっと目を閉じる。けれどその目尻からは留めなく涙が溢れ、二人の手を濡らした。








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この時はまだテフトの名前はテフトじゃなくて元々の名前です。もしかしたら今後出てくるかもしれませんが今のところ出す予定が無いので元の名前は公にならないまま終わります。(笑)




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