黒き土、真皓き光に黎明を知る





その後、二言三言言葉を交わすと王女は立ち上がり、また来るからと言い残して部屋を後にした。
それを見送り、アテムたちは顔を見合わせる。
「…どう?」
杏子の主語を抜いた問いかけに、アテムは視線を伏せて首を横に振った。
「色々と思い出した事もあるが、ここも違うようだ」
「じゃあ次に行くのか?」
「姉上の後を追っても良いが…なんとなく、違う気がするんだ。多分、ここには俺たちの探している<約束>は無い」
「よし!じゃあ次行ってみようぜ!」
城之内の言葉に頷き、アテムは眼を閉じる。
白い空間に無数の赤い糸。
その数え切れない記憶の入口に意識を廻らせていると、ふいに嫌な感じがしてアテムは眉を顰めた。
(何だ…?)
探るように意識を集中させていくと、赤い糸に混じって紫の糸があることに気付いた。
他にもあるかもしれないが、とりあえず今分かる範囲ではこれ一本だ。
もしかしたら、と思いアテムがそれを掴むイメージを浮かべてみると同じように空気が震え、僅かな浮遊感が全身を包み込んだ。
頭の奥が痺れるような感覚。
それが消えていくと、足の裏に立っているという感触が戻ってくる。
やがて光は薄れ、アテムはゆっくりとその眼を開いた。
「今度は何処だ?」
「何処かの部屋みたいね」
城之内と杏子がきょろきょろと辺りを見回す。
アテムもその部屋を見回し、すぐにここがどこであるか理解した。
「…姉上の部屋だ」
その声に呼ばれるように、一人の少女が室内に入ってきた。
この部屋の主であるアテムの姉王女だった。
王女は何か思い悩んでいるのか、その花のかんばせを曇らせ、アテムたちに気付く事無くその間を通り抜けていく。その足は真っ直ぐに寝台に向かい、彼女はそっとそこに腰掛けた。
「……」
ぼんやりと膝の上に置いた手を見下ろしているその目元は泣いていたのだろうか、オイルランプから発せられる淡い光に照らされた横顔が仄かに赤い。
「…っ…」
その唇が薄っすらと開き、戦慄くように震わせながら何かを呟きかけた。
「!」
しかし何かに気付いたように彼女ははっとして顔を上げ、アテムたちを見た。
一瞬ぎょっとしたアテムたちだったが、しかし彼らの背後には彼女が入ってきた扉があり、少女が見ているのはそれだと気付いた一同は揃ってその扉へと視線を転じた。
途端、荒々しい音と共に扉が開かれてよく知った少年が入ってきた。
「アテム!」
姉王女の驚いたような声に、しかし弟王子は応える事無く足音も荒く歩み寄るとその細い腕を力任せに掴んだ。
「っ」
王女が一瞬痛みに顔を顰めたが、しかし怒りも顕わに姉を睨みつける王子にそれは届かない。
「姉上、こんな時間に何処に行っていたんだ」
「目が覚めてしまったから、少し散歩を…」
「嘘をつくな!神殿へ…セトの所へ行っていたんだろう!!」
姉の紫の瞳が驚きに見開かれ、王子はやはりと言うように失笑を浮かべた。
「俺が知らないとでも思っていたのか?姉上がテフトを仲介にセトと文を交わしている事も、セトからの文を受け取った日は夜闇に紛れてセトの元へ行っていた事も決まって夜明け前に帰ってくることも全て、全て俺は知ってるんだぜ?!」
「アテムッ…腕、痛いっ…」
「俺に嘘をついてまでセトに逢いたいのか?!」
「アテム、違うの聞いて、アテム…!」
「何が違う!今だってセトに抱かれてきたんだろう!俺よりセトを選んだんだろう!?」
「アテム、お願い、聞いて頂戴」
「っ」
それまでの戸惑いに満ちた声とは一転して凛とした声に、王子は操られたように動きを止める。
「アテム」
己を腕を掴む手をそっと剥がし、やんわりとそれを小さな手で包み込むと王子の肩がぴくりと震えた。
「まず、嘘をついたこと、ごめんなさい。貴方に余計な心配をかけたくなかったの。セト様の所へ行っていたのは本当だけれど、貴方が心配しているようなことは、私とセト様の間には一切無いわ」
王女とよく似た、けれど王女より切れ長の眼が僅かに見開かれた。そこにはいつもの自信に溢れた色は無く、ただ戸惑いに揺れている。
「いつも色んなお話をして、それだけ。そしてそれも、今日で終わったの」
「え…」
「今日はね、セト様とお別れをしてきたの」
姉の言葉に弟は暫し呆然とした様に姉の顔を見下ろしていた。
「嘘だ…」
「本当よ。私はもう二度とセト様と私事で逢ったりしない。約束するわ」
「だって、姉上…姉上はセトを愛しているんだろ…?セトだって姉上を愛していたはずだ」
その弱々しい声に姉はもういいの、と曖昧な笑みを浮かべる。
「私はずっと外を知らずに貴方だけを見てきたから、少しだけ余所見をしてしまった。本当にごめんなさい。もう二度と貴方以外を見たりしないと誓うわ」
「姉上…」
「私が貴方の妻として貴方と共にこの国を支えてゆく事を、貴方は許してくれるかしら…」
「姉上…!」
彼は引き攣った様な声を上げて姉を抱きしめた。すまない、と謝る背に白く細い手が回された。
「すまない、姉上…!本当は俺が一番に貴女の幸せを願うべきなのに…どうしても嫌なんだ…姉上が俺以外の誰かを選ぶなんてどうしても許せない…!」
「アテム、謝らないで。悪いのは私なのだから…」
「姉上…愛してる、姉上、貴女だけを愛してるんだ…!!」


まるで世界に二人だけ取り残されてしまったかのように強く抱き合う姉と弟の姿をアテムはぼんやりと眺めていた。背後で自分に声をかけるべきか戸惑っている気配がしたが、けれど今のアテムにはどうでもよかった。
「…姉上は外の世界を知らずに生きてきた」
ぽつりとアテムは呟くように言う。
「確かに姉上はこの国では見かけない白い肌だった。だが姉上がこの王宮に閉じ込められていたのはそんな理由からじゃない」
少しずつ、少しずつ、絡まった記憶の糸がほどけていく。
「姉上の魔力は人並みはずれて強大で、その身に宿っていた精霊は全てを滅ぼす黒き破壊の竜が宿っていた。…姉上は自身の精霊をガンドラと呼んでいた」
そうだ。少しずつ思い出してきた。
敵も見方も無く、全ての終焉を招く破壊の光。
だから姉は多くの精霊や魔物を使役し、万が一の時でも己の半身を呼ぶ事が無いようにしていた。
姉は己の力を誰より理解していたからこそ王宮の外を望むことは無かった。
高く聳える外壁に守られ、弟との婚儀が行なわれるその日まで穏やかに過ごしていた。
「昔、姉上が言っていた。俺が生まれた日に自分が俺の妻となることを知ったんだと。姉上は星を見、未来を読む力を持っていた。その姉上がそう言うのであればそれは確かな未来なのだと俺は知っていた」
嬉しかった。
その頃には既に自分は姉を、姉だけを愛していた。
だからその姉を娶るのだと知って喜んだ。
だが、ある時…そう、自分が王として即位する一年ほど前。
「千年杖の神官が病に倒れ、後継として新たな神官がやってきた」
それが、セトだった。
「神官が千年アイテムを授かる為には何故か姉上の許可が必要だった。どれだけ優秀な神官であろうとも姉上が駄目だと言えばそれまでで、セトも今までの神官も全て、そうして姉上に認められて初めて千年アイテムを手にすることが出来たんだ」
一番初めに千年アイテムを授かったのはアクナディンだと聞いている。
アクナディンは千年宝物の神官となる以前より、それこそ姉が物心つくかつかないかの頃から姉の世話を焼いてきたそうで、彼が始めに授かる事になった時はその場にいた誰もがやはりと納得したらしい。
姉と謁見する場合に使用されるのは王と謁見する際に使用される謁見の間ではなく、当然姉や母が暮らしていた後宮でもない。彼らは姉の為だけに建てられた離宮、その謁見の間にて宣託を受けるのだ。
「その離宮は、他とは違う理を持っていた」
離宮の主人は姉であり、姉がそこにいる限りは誰であろうと膝をつかなくてはならず、当然許可も無く面を上げることも禁止されている。
それは王子である自分も、現人神である父王ですらその膝を屈せねばならなかった。
姉はそのシステムを嫌っており、それこそ千年宝物の神官を見極める時くらいしか離宮に足を向けることは無かった。
一度だけ、何故そんな理があるのかと父王に聞いたことがある。
父王はホルス神の化身なのに何故、と。
すると父王は、だからこそ膝をつくのだと微笑んだ。
私はホルスの化身である。それはつまり、あの御方の息子なのだ。
息子が母を敬慕し、頭を垂れるに何の不思議があろうか、と。
自分にとって父は父であり姉は姉である。そして父は姉の父であり、姉は父の娘だ。だから父王の言葉の意味を酌むことは出来なかった。
けれど何故かそれに納得した自分がいた。
だからそれ以来、離宮の理に疑問を持つことは無かった。
ただ、姉が千年宝物の宣託を下す時は常に傍らに控えていた。
いつも穏やかな微笑を浮かべている姉が、この時ばかりはどこか厳しさの滲んだ表情で神官を見ている。
その横顔をただじっと見ていた。


そして、あの日。

平伏した神官に、姉は面を上げるよう許可した。
そして面を上げた若き神官と視線を合わせた時、姉は僅かに目を見開いた。
まるで思わぬ所で昔の知り合いと出会ったかのように。
その瞬間、それを傍らで見ていた自分の体に悪寒のような痺れが走ったのを今でも覚えている。
もしかしたら単なる嫉妬心だったのかもしれなかったが、あの時はただ不安を感じていた。
けれど姉の変化に気付いたのは自分だけだった事だろう。姉はすぐにいつもどおりに言葉をかけていたし、表情にも変化は見られなかった。
そうしてセトは千年杖の神官となり、王の側近の一人にその名を連ねた。
確かにセトは自分の目から見てもその仕事ぶりは優秀で、学問にも秀でており好感が持てた。
けれど、一つだけ苛立つことがあった。
当時、姉には名前が無かった。
正確には無いのではなく、その名も秘されているわけなのだが、姉の名を知るのは父王と亡くなった王妃だけだった。
そしてその父王も姉の名を明かさぬまま身罷ったので、結局自分は姉の真の名を知らないままだ。
幼い頃は何故姉にだけ名前が無いのかと疑問に思ったものだったが、姉は「いつか貴方と結婚した時に、貴方につけて貰う為にとってあるのよ」と笑っていた。
その姉の事を、セトが「姉君様」と呼んでいた事が自分の癪に障った。
神官や女官、侍女らは基本的に姉のことを「王女」と呼んでいたが、特に親しくしていたマハードや女官長などは姉の事を親しみを込めて「姉君様」と呼んでいた。
それを、新参者の男が呼ぶなどと不敬だとすら思った。
テフトはまだいい。あの男は姉が自らその命を救い、名を与えて傍に置いている官だ。まだ許せた。
しかしセトには情状酌量するべく理由が一つも見当たらない。
だが姉にそれを進言すると、なんと姉は自分が彼にそう呼ばせているのだと告げた。
しかも姉はセトを酷く気にしており、それが一層苛立ちを煽った。
最初の頃はまだテフトもセトを敵視しており、二人の間に接点を作ってくれる人間はいないはずだった。
だが、姉とセトは急速にお互いの距離を近づけていった。
「アクナディンが、二人を引き合わせていたんだ」
まだ千年宝物の神官として未熟なセトを教育するアクナディン。
そしてそのアクナディンを二人目の父のように慕う姉。
勉学や剣術、それらの指導が終わる頃に姉は二人の元にやってきて三人で茶会をしたり、時には一緒になって学ぶ時もあったようだった。
当然、姉は毎回自分を誘ってくれたがどうしてもその輪の中に自分が入れるとは思えず、いつも断ってきた。
何より、時折アクナディンから感じる、ジリジリとした負の感情が二の足を踏ませていた。
あの頃は何故と思ったものだったが、全てを知った今なら分かる気がする。
『記憶の世界』でアクナディンの語った内容から推測するならば、彼はセトが自分の息子だと知っていた。
そしてその時に微かな野望を抱いた。
我が息子こそが王にふさわしい、と。
そして芽吹いたばかりの小さな欲の葉は、王族直系の娘という水を得てしまった。
姉がセトに好意を抱いていることは誰の目にも明らかだった。
例えそれがテフトに対するそれと同じものであったとしても、アクナディンの中に芽吹いたそれには甘露過ぎる水だったのだろう。
この国では直系でない者が王となるには直系の女を娶ることが必須条件であり、例え直系だったとしてもやはり姉なり妹なりの直系の女を娶ることが好ましいとされていた。そして例えセトが現ファラオの弟であるアクナディンの息子であろうとも、それはセト自身も知らない、アクナディンしか知らぬ事実。その身に流れる血が王家のものであってもそれを証明する術は無い。
そうなると唯一の王女である姉との結婚は不可欠だ。
そしてその王女は誰もが膝を屈するにふさわしい少女で、その少女はセトに好意を抱いている。
たった一つの障害さえなくなってしまえば、全てはアクナディンの思惑通りになっただろう。
そう、彼にとって最大の障害とは、王女と結婚することが暗黙の了解となっている、彼女の弟の存在だった。

「俺がアクナディンの目論見に気付いた時にはもう遅かった。姉上がセトを見る目はただの好意ではなくなっていたし、セトが姉上を見る目も明らかに和らいでいた」
俺は何をべらべらと語っているのだろう。アテムは思う。
今必要なのは相棒との…姉との<約束>であって自分の過去それ自体ではない。
ましてや己とセトが姉を巡っての恋敵であったことなど関係ないはずだ。
けれどこの唇は言葉を紡ぐ事を止めない。
多分、自分は楽になりたいんだ。
今まで忘却の砂に埋もれていたその記憶は、己の醜い心を見せ付けられるものだった。
勿論、優しい記憶もある。けれど唐突に流れ込んできた記憶の奔流に自分は動揺していた。
自分の醜い部分を認めたくない。
けれど苦しんだのだと誰かに認めて欲しい。
そうだ。俺はみんなに俺自身の泥を投げつけて楽になろうとしているだけだ。
自分自身で苦しみという名の泥を抱えるのが辛くなって、全てを話すという形で相手にそれを押し付けている。俺はもう随分苦しんだんだ、だから俺を肯定してくれ、認めてくれ、と。
結果、汚れの少なくなった自分自身は気が楽になって救われた気になる。
泥を押し付けられた相手のことなど考えもせず。
俺は、弱い。
三千年前も、今も。
「だから、俺は…」
…あれ…今、俺は何を話していたんだ?
…ああ、そうだ、アクナディンが……
「アテム?」
相棒。
「おい、どうしたんだよアテム!」
相棒、相棒…俺は何処へ行けばいい?
「アテム!?おい!!」
相棒、俺はお前がいないと何も出来ない。
どうしようもない馬鹿だ。
だけど、お前が俺の傍にいてくれるなら。
お前さえいてくれれば、俺は。
「うわっ?!」
「光がっ…!」
「っ…」
「兄サマ!」
まるで悲鳴のような甲高い音が響き渡り、辺り一面光に飲み込まれた。









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