黒き土、真皓き光に黎明を知る






「千年錐に邪神を封じましょう」
澄んだ声にはっとした。
視線の先で、王妃が強い意志を宿した瞳でこちらを見ていた。
「千年錘に?」
訝しげな自分の声に、彼女は小さく頷いた。
「もう間もなく夜明けが訪れます。例え邪神がこの国を闇で覆っていてもそれは変えられぬ事実。そうすれば僅かですが邪神の力も弱まります。その機に邪神を千年錘に封じるのです」
「しかし、どうやって…」
「方法は私が知っています。私が、封じます」
その全てを覚悟した表情で悟った。悟ってしまった。
邪神を封じるためには犠牲が必要なのだと。
そして、その犠牲とは。
「駄目だ。そんなこと、俺が許さない」
「しかしこのままではより一層多くの無辜の民の命が失われます」
「だがネフェルカ、俺はっ」
「ファラオ」
王妃は穏やかな笑みを浮かべ、それを遮った。
「私の生は、この日の為に在るのです。私は神を封じ、千年錘に封じ込めるための<器>なのですから」
「<器>…?」
一瞬、脳裏を何かが過ぎった。けれどそれは形にはならず、ただ混乱した。
今何か大事なことを思い出しかけた気がするのに、手を伸ばしてもそれはするりとすり抜けていってしまう。
「アテム…貴方は兄であり弟であり、そして父であり子でもある私の愛する夫…」
するりとその白く細い手が伸ばされ、提げられた千年錘を抜き取ってゆく。
駄目だ、と脳裏に警鐘が鳴り響く。
なのに体はまるで時を止めてしまったかのように動かない。
「アテム…ごめんなさい…そして、ありがとう…」
にこりと微笑ったその顔は、幼い頃からずっと見続けてきた優しい姉の笑顔で。
そして少女は己の墓標を手に、少年に背を向けて歩き出した。
(何故体が動かない!!)
怒りに拳を握り締める事も、悔しさに歯噛みする事すらできずアテムはただその場に立ち竦む他無かった。
(姉上、姉上!!貴方が命を捧げる必要など何処にも無い!!姉上!!)


『いいえ、必要なのです。ファラオよ』


唐突に脳裏に響いた声にアテムははっとする。
(お前は誰だ)
『私は貴方が何処から訪れたのかを知り、貴方が何処へ行くのかを見守る者』
ふわりとアテムの前に薄い光が集まり、それらは一つの形をとった。
銀の長い髪を石畳に流し、片目をその前髪で隠した男は姉とはまた違った柔らかさを宿した目でアテムを見た。
『あの御方は邪神を封じるためにこの地に舞い戻りたのです』
(お前は姉上の何を知っているんだ)
『あの御方はこの黒き大地の民、全ての母なる存在。慈悲深きあの御方が子の為にその身を投げ出すのは致し方ないこと』
脳裏に響く声はまるでアテムに理解させる気が無いのか、否、彼にとって是は是であり、非は非でしかないのだろう。彼はただそれを告げているのみなのだとアテムは気付いた。彼の柔和さを帯びた眼はただ形だけのものであり、まるで外見と中身が異なるような違和感が彼からは発せられている。
恐らくは、彼はアテムに近く出来るように人の形を取っているだけに過ぎず、本来はもっと違う姿なのだろう。銀の髪が風も無いのにさらりと揺れた。
(どういうことだ、姉上は何者なんだ)
『あの御方はこの黒き大地の民、全ての母なる存在』
(それは先程聞いた!俺が聞きたいのは姉上が何故大邪神ゾーク・ネクロファデスを封じる責を負っているのかという事だ!)
繰り返された応えにアテムは苛立ちを抑えようともせず男にくってっかかった。
『あの御方は心強きナイルの真珠。妻と引き裂かれ闇に落ちた神の娘』
男のまるで煙に巻くように滔々と紡がれる言葉をアテムは理解しようと試みたがしかし情報が少なくその上時間も無い。アテムはそれらの疑問は後でも考えることが出来るだろう。今重要なのはそれではないはずだ。
(姉上を犠牲にせず邪神を倒すことは出来ないのか)
『神を弑する事あたわず。しかしあの御方と同等、またはそれ以上の魂を持つ者があの御方の変わりに邪神を封ずる事ならば可能である』
(姉上と同等かそれ以上のバーを持つ者…)
姉の魂は彼女の身に宿る精霊や使役する精霊の数を見るだけでも計り知れないほど強大だと知れる。
その姉に匹敵する魂の持ち主などいるのだろうか。
それを問えば、彼は短く答えた。
『この地に、二人』
(それは誰だ!)
『一人はファラオ、貴方です』
(俺が…?)
しかしアテム自身は得心が行かないようだった。
アテムは、その身に宿る精霊を呼び出せたことが無い。
呼び出すどころかその息吹すら感じたことが無いのだ。
使役する精霊・魔物こそ数多くいるが、魂の片割れともいえる己の精霊を持たぬ事実は亡き先王アクナムカノンとその側近であったシモン、そして姉しか知らぬトップ・シークレットだった。
姉はそれこそが選ばれた王の証なのだと言っていたが、未だに納得できないままでいる。
『貴方は真の王。そして来るべき日にその身に三幻神を降ろすための<器>。故に貴方に精霊はいない』
<器>。
また<器>だ。
先程は姉をそう言い、そして今度はアテムをもそうなのだと彼は言う。
しかし彼はそれを見透かしたように緩やかに首を横に振った。
『あの御方と貴方では役割が違うのです』
相変わらず要領の得ない説明だったが、しかし自分が姉の代わりになれることが分かればそれだけでいい。
(ならば俺が姉上に代わり邪神を封じる。この身を動くようにするにはどうすれば良い)
アテムはもう一人の名は聞かなかった。誰であろうとも臣や民を犠牲にするわけにはいかない。自分が姉と代われるならばそれで十分だ。
『今、貴方の体は時を紡ぐ事を止められている。私がその戒めを解きましょう』
ふわりと一瞬彼の体の輪郭が揺れるように淡い光を放ち、途端、アテムの体の硬直は解けた。
ふっと一瞬息苦しさを感じたが、それからはもう身体的不自由は解消されていた。
これで、姉上を止めに行くことが出来る。
姉は恐らく神殿に向かったのだろう。
「手間をかけた。礼をしたいところだが今は時間が無い。すまない」
『ファラオ』
立ち去ろうとしたアテムを男が引き止める。
「頼む、時間が無いんだ」
『もう一人は、セトです』
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
そして数秒後、その意味を理解した。
姉の代わりに邪神を封じることが出来る、もう一人。
それがセトだと、男は告げたのだ。
「……っ……!」
途端に全身の血が沸騰したかのような怒りに震えた。
何故、と。
何故それを口にした。
知らなければ、俺は。
アテムは己を善人だと思ったことは無い。
しかし己の立場に恥じぬよう、父や歴代の王の名を汚さぬよう、そして何より姉に愛されるよう心がけてきた。
少なくとも、そう努力してきたつもりだった。
なのに。
一瞬でも脳裏を過ぎった考えに自分を殺したくなってくる。
己はこんなに醜い心を宿していたのだと、そう思い知らされた。
「…何故それを俺に告げたっ」
怒りを押し殺した声に、しかし男は表情を僅かにも変える事はない。
『私は貴方が何処へゆくのかを見守るもの』
話にならない。アテムが舌打ちして踵を返すと神殿へと駆け出すと、その背を追うように声が被さって消えた。

『我が名はジェフティ。ファラオよ、貴方の行く末に光あらんことを』
「!!」
その名の意味に思わず足を止めて振り返る。
しかし銀の髪の男の姿は何処にも無く。
アテムは呆然とその男のいた所を見た。
ジェフティとは今は使われない発音。
その名はやがてテフトと発音されるようになり、そして今では。
トト神。
神々の書記とされ、メル…遥か未来でピラミッドと呼ばれる巨石建造物のの建造方法を授けたとされる神の名である。
何故、と考えている暇は無かった。
アテムは振り切るように再び神殿へと駆け出した。

「くそっ…」
神殿内は負傷者で溢れかえっていた。
床で呻くしかない兵士、慌ただしく薬や湯、布を手に駆け回る者、運び出される死体。
彼らの眼に留まらぬようアテムは王族しか使うことを許されない通路を駆けてゆく。
姉と比べてアテムの方が遥かに足は速かったが、しかしそれまでの時間のロスが大きすぎた。アテムが祭壇に辿りついた時にはすでに姉は祈りを捧げている最中だった。
姉の美しい掌に包まれ、その祈りを受け入れた千年錘が眩い光を放つ。
もう封印の儀を止めることは出来ない。
しかし、まだ手遅れではない。
アテムは祭壇へと続く階段を駆け上る。
「姉上!!」
「?!」
驚きに顔を上げた姉の掌から光り輝く千年錘を奪い取り、頭上へと掲げた。
「アテム?!」
「ゾークよ!我が名、我が命を以って貴様を千年錘に封じる!」
「やめてアテム!!」
ずん、と千年錘の重みが増す。
そこから掌を伝って何かが流れ込んでくる。


ああ、そうだ、俺は…
ぎりっと掌に千年錘が食い込むのも構わずにきつく握り締めるとアテムは叫んだ。




「我が名は、アテム!!」




人々は見た。
天から一条の光が降り、闇を貫いたのを。
光が捕らえた闇と共に神殿へと飛び去ってゆく、その光景を。


そして、長い夜が明けた。









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