浅瀬を歩む君の滑らかな脚
真田の朝は早い。
季節によっては夜明けより早く起き出し、離れの道場で一人精神統一に勤める。 それが終わると今度はロードワークに出かけ、朝食の出来上がる少し前に帰宅してシャワーを浴びる。 そして朝食の前に、もう一つ彼にはやることがあった。 半年前までは客間だった座敷の前に立ち、今はその部屋の主であるその名を呼ぶ。 しかし応えはない。 これはいつものことだったので真田は入るぞ、とだけ声をかけて襖を開けた。 目ぼしい家具は箪笥と座卓とこんもり盛り上がった布団だけだったが、しかしその座卓や布団の廻りには無数の書籍やファイル、果てには点字器や点消棒、点筆が転がっている。 あれほど転ぶから片付けろと言っているのに、そして夕べも真田がこの手で片付けたはずなのに、それにも関わらずこの有様だ。 真田は一つ溜息を吐いて、転がっているそれらを拾い集めながら布団の盛り上がりの傍らに膝を着く。 「乾、時間だ」 小山を軽く揺すってみると、もそりと蠢いた。が、それだけだ。 仕方なく真田が布団の端を掴んで引っぺがすと、真田よりわずかに身長の高いはずの青年が冬眠中の小動物のように小さく丸まって眠っていた。 「…んむ……」 突然の布団の消失に、彼は無意識にもそもそと一層小さく丸まって暖を逃すまいとしている。 その姿はそれはそれは愛らしいと思うのだが、けれど今は愛でている場合ではない。 「乾」 何度か繰り返して揺さぶると、もしょもしょと何やら呻きながら乾はのそりとその身を起こした。 「おはよう、乾」 「んー…おはよ、真田…」 「着替えは出しておいてやるから先に顔を洗って来い」 乾はこくりと頷くとのんびりとした、しかし盲目とは感じさせない迷いのない足取りで部屋を出て行った。 それを見送った真田は箪笥から着替えを取り出し、散らかった書籍を簡単にではあるが片付けていく。 乾が真田邸に住むことになったのは、半年ほど前。中学生最後の日からだった。 全国大会が終わって、それと同時に視力を失った乾はそれでも卒業まで青学テニス部の頭脳であり続けた。 今まで乾が集めてきたデータやその知識は貴重だったし、眼が見えなくとも触診や周りからのサポートを得て新たなデータを蓄積していった。 確かに以前よりは格段にデータの更新速度が落ちたのは事実だが、しかしだからと彼の地位や周りからの信頼が揺らぐことは無かった。寧ろハンデを背負っていても部に貢献するその姿に後輩らは一層彼に懐いていった。 手塚は、卒業と同時にドイツへ渡った。 渡独する数日前、真田は手塚に呼び出された。 真田が手塚と会うのは乾が手塚でも柳でも無く真田を選んだあの日以来だった。 少し痩せたと思った。乾ほどではないが、手塚も元々細身だった。しかしそれを抜きにしてもどこか痩せた印象を抱いた。 乾を、頼む。 彼はそう言って頭を下げた。 恨んではいないのか、と思わず問いかけた真田に、彼は何とも言えぬ、強いてあげるなら自嘲気味な複雑な表情をした。 乾は手塚を大切にしていた。 けれどそれは手塚が乾に対して抱いていた愛情とは違っていた。 柳が「人形遊び」と称したとおり、乾はあくまで自分の思い通りに創り上げた手塚を愛していたのであって、乾の本位から逸脱した要求、つまりは見返りを求めた手塚をいつまでも手元においてくれるはずが無かった。 人形は愛玩物であり、伴侶ではない。傍らに立てる存在ではなく、そして乾は真田と出会ってしまった。 真田は常に喪失と孤独に怯え、警戒し続けてきた乾に安堵を齎した。 お気に入りの人形で孤独と喪失感を埋める必要が無くなったのだ。 幼子がいつか人形を手放して一人で歩いていくように、四年前のあの日から歩みを止めていたその足で再び歩き始めた乾に手塚は不要であった。 手塚は自分が乾にとってそういう存在なのだと気付いていた。 それでも手塚は乾から離れることは出来なかった。 手塚は乾を愛していたし、例え愛玩物に対するそれであっても乾の温もりは離れがたいものだった。 けれど終わりはとうとう訪れてしまった。 手塚はそれを止める術を持たない。 ただそれに従うしかないのだ。 追い縋った所で乾は手塚を蔑視こそすれ愛してはくれまい。 否、彼は優しいからもしかしたら縋る手塚を傍に置いてくれるかもしれない。 けれどそれはもう愛情ではなく、同情や哀れみでしかない。 ならば彼の元を離れるしか道は残ってはいなかった。 けれど例えどれほど離れたとしても、時が流れようとも、乾貞治という存在は手塚にとって特別な意味を孕み、そしてその身を食い潰す様に在り続けるだろう。 もしかしたら一生誰を愛することもなく、ただ乾との思い出だけに縋って生きていくことになるのかもしれない。 例え誰かを愛することが出来たとして、しかし乾の存在がこの身の内から消えることはきっと永遠にないだろう。 乾は手塚の現在も未来すらも揺るがせた。 しかし手塚はそれを責めようとは思わない。 彼が与えてくれた幸せも不安も痛みも苦しみも、全てが手塚にとっては愛しかった。 それは手塚は乾にそう、俗な表現をするならば躾けられたのかもしれないとも分かっていた。 それでも手塚が乾を憎む気持ちになれない事は確かであり、そして今も尚、彼を愛しいと思っているのも確かだった。 乾に捨てられたことは哀しい。 けれどもう乾が手塚を必要としないのならば、そしてそれによって乾が幸せになれるのであれば、もう、それでいいのだ。 「乾が幸せである事が、即ち俺の幸福に繋がる」 この身を切り裂くような痛みも、涙を流すことすら許してはくれない哀しみも、全ては乾の幸せの為の供物であるのであれば。 「何の悔いもない。俺は愛した人を幸せにしたのだと胸を張って生きていける」 そうして手塚は最後にもう一度、乾を頼む、と言って去っていった。 その凛とした後姿に謝罪を投げかけるのは傲慢でしかなく。 真田は、その後姿にただ頭を下げるしか出来なかった。 「真田?」 はっとして我に返った。 目の前では乾が小首を傾げてこちらを「見て」いる。 そうだった、今は乾と話している最中だった。 「どうかしたのかい」 「ああ、いや、少し呆けていたようだ。鍛錬が足りんな」 「まあ、これだけ天気もいいと、ね」 乾が薄っすらと微笑んで手にした湯飲みから緑茶を啜る。 縁側で二人並んで茶を啜る。 まるで夫婦のようだ。真田は僅かに赤面した。 「…なあ、真田」 「うむ」 「俺は、変わろうと思う」 乾は閉ざした目で青空を見上げる。 「ずっと流れに身を任せてばかりだったけれど、もう、止めにする。流れに逆らうことになったとしても、俺は自分の足で立つよ」 真田の傍に、いたいから。 「乾…」 「一緒に歩いていこう、真田」 微笑んで差し出された手を、真田は迷わず取った。 「ああ、望むところだ、乾」 乾の瞳は物を映す事は無くなってしまったけれど、しかし彼にはきっと見えている。 暗闇の世界に伸びる、無数の光の道が。 (乾は大丈夫だ。手塚…) 彼はその道への一歩を、踏み出したのだ。 真田というパートナーと共に。 「二人で、生きていこう」 そうしてここから全てが始まったのだ。 (END) |