浅瀬を歩む君の滑らかな脚





手塚が部室を後にして暫く立つが、昇降口を通った際に下足箱をチェックしたら乾も手塚もまだ残っているようだった。二人がいつもどの道順で降りてくるのかは知らなかったが、擦れ違わないことを祈りながら大石はその扉を目指す。
ああ、あそこだ。
大石は目的の扉を視界に入れると足早にそこへと近づいた。
がたん。
辿りついた扉の前に立ち、手をかけようとするのと同時に中から何かが倒れる音がして、大石は思わずその手を止めた。

――違う乾、大和部長、のは、じゃない!

潜もってよく聞こえないが、確かに手塚の声だ。
この扉の向こうには確かに手塚と乾が居るようだった。
けれど聞こえてきた手塚の声が今まで聞いたことの無い、縋るようなその声に大石の手は扉に掛けられたまま動かすことが出来ないでいた。
何か、嫌な予感がする。
この扉は開けても良いのか?(開けたらきっと戻れなくなる)(戻れない?何処へ?)(いいや寧ろ何処へ行くというのか)
しかし。
「!」
また何かが倒れる派手な音が聞こえてきて、反射的に大石は扉に掛けた手に力を込めた。


一瞬、自分の目が何を映しているのか理解できなかった。


机や椅子が倒れていた。音の正体はこれだろう。
そしてその中心には何の表情も無い乾が俯いていて。
その俯いた先には彼の長い脚があって。
その足がまるで昆虫をピンで標本にしようとせんばかりに、そう、倒れ込んで体を丸めた手塚の横腹を、乾が。

「手塚!!」
それはもう咄嗟という他無かった。
駆け寄って乾を突き飛ばすと、不意を付かれた乾は踏鞴を踏んで後ずさりそのまま身長のわりに軽い音を立てて座り込んだ。
「手塚!大丈夫か、手塚!」
「……大石…?」
大石に抱え起こされた手塚は何故ここに大石がいるのか理解できていないようだった。
どこか呆然と、けれど怪訝そうに大石を見上げていた手塚ははっとしたように視線を廻らせた。
「乾!」
呆けているとしか言いようの無い面持ちで座り込んだまま固まっている乾に手塚が駆け寄ろうと身を起こす。
「手塚!」
けれど大石に阻まれ、手塚は己を阻む者をきっと睨みつけた。
「離してくれ、大石」
「駄目だ、手塚。何があったんだ…!」
「大…」


「手塚…」


呟く様なその声に、二人は弾かれたようにその声の主を見た。
乾はゆっくりと身を乗り出し、片手を眼前に伸ばした。ゆらりとその手が何かを探すように揺れる。けれどその手には空気以外に触れるものは無い。
きゅ、と乾の眉根が不快げに寄せられる。
「手塚」
咄嗟に身を乗り出そうとした手塚を大石が反射的に引き止める。
しかしそれが見えるはずの無い乾は近づいてこない気配に小首を傾げ、辺りを探るように閉ざしたままの眼でぐるりと見回した。
天井を見上げた途端、ぴたりと動きが止まる。
彼の考え事をしているときの癖と同じ様に薄っすらと唇を開き、その手はだらりと床に垂れている。
「…は…」
ひゅ、とその反らされた喉が微かな音を立て。

途端、大石は己の鼓膜がびりびりと震えるのを感じた。

「…い、ぬい…?」
それが乾の笑い声だと気付くのに数秒の時間を要した。
がくんと仰け反っていた乾の体が前のめりに倒れ込み、けれどその哄笑は治まる事無く大石の鼓膜を震わせ続けている。乾、と傍らで声が上がり、今度こそ手塚は大石の手から逃れて乾の元に駆け寄った。
「乾!」
手塚が乾の肩を揺さぶるがしかし乾は一向に構わず哄笑を高らかにあげ続けている。
「乾、大丈夫だ俺はここにいる、乾、乾!っ大石!そこの鞄から薬のケースを探してくれ!あと水のボトルも頼む!」
「っあ、ああ!」
混乱したまま大石は言われたとおりに転がっている鞄の中を探る。乾の鞄なのだろう、点字用具やファイルが乱雑に入れられている。その中からまず水のボトルを取り出し、薬のケースを探す。
それがどのような外観の物か分からなかったが、とにかく探した。
その間にも乾の哄笑は次第に悲鳴じみていき、最早狂気に駆られた咆哮となりつつある。手塚が大石を呼ぶ。見つからないケース。焦りと乾の叫び声で脳内がパンクしそうだ。焦りばかりが先走って大石は自分が今何を探しているのかすら分からなくなってくる。
「!」
しかし、内ポケットに手を突っ込んだ瞬間、その混迷した脳内に光が差し込んだ。
「あった!あったぞ手塚!」
半透明のピルケース。そこには色とりどりの薬が分封されており、半分近くは既に空だった。
暴れる乾を何とか押し留めている手塚の元へそれらを持って行くと、偶然かそれとも大石が近づいたからなのか、途端に乾の叫びもあれほど我武者羅に暴れていた体もぴたりと止まった。
「すまない。…乾、薬だ。飲めるか…?」
乾は力無く俯いたまま反応を返さない。手塚はゆっくりと拘束していた腕を解くとその肩をそっと揺すった。
「乾…頼む、飲んでくれ」
「……」
のろりと乾が頭を持ち上げる。その眼はもう眼としての役割を果たしていないというのに、まるで手塚を見つめるように彼は手塚に顔を向けた。
「だったら、手塚が飲ませてよ。いつもみたいに」
乾の肩に置かれた手塚の手がぴくりと震えた。
手塚の視線が戸惑うように左右に揺れ、不意に大石を見た。
けれど手塚の視線に籠められた困惑の意味が分からない大石が目を丸くして見返すと、やがて視線は逸らされ、手塚は手にしたピルケースを見下ろした。
「……冗談だよ」
手塚が口を開こうとしたその時を狙ったかのように、乾が失笑交じりにそう呟いた。
「大石がいるのに、そんな事出来ないよね?手塚は。大丈夫、薬くらい自分で飲めるよ」
薬、くれるかな。そう差し出された手に、手塚は白地にほっと肩の力を抜いて乾の差し出した手の上にピルケースを置いた。
「ありがとう、手塚。ついでにもう一つ、お願いして良いかな」
「何だ、乾」
「大石を連れて今すぐここから出て行って欲しい」
安堵に緩んでいた手塚の表情が再度凍りついた。
「乾、それは…」
「もう潮時だ。大石に知られたし、祐大さんが来た。もう、二人だけの問題で済まなくなっているんだ」
祐大、と聞きなれない名だったがけれど、すぐにそれが大和の名前だと気付いて手塚は背後から首筋を掴まれたような嫌な気分になった。
中学時代、彼と乾が時折二人で居ることがあった。二人は雰囲気が似ていたし、気が合うのだろうと今の今まで思っていたのだが。
しかし乾が無意識に呼んだそれは呼びなれた響きを含んでおり、邪推するに十分だったし苛立たしい事にそれは事実なのだろう。
手塚は衝動のままに手を伸ばすと乾の手からピルケースを奪い取った。
「手塚?」
訝しむ声を無視してケースの蓋を開け、幾つもの薬をざらりと掌に落とす。それを落とさないようにしながらペットボトルの蓋を開けて薬と水を口に含んだ。
「てづ…っ…」
手塚は乾の胸倉を掴んで引き寄せるとその声を奪うようにして口づけた。
瞬間、おろおろしていた大石が硬直したが構わず手塚は含んだそれらを乾の口内に流し込み易いように首を傾けて交わりを深くする。
口付けた時点で意図を察したのか乾の唇は薄く開かれており、幾つもの小さな塊と温くなった水は重力に従って手塚から乾へと移っていった。
「……水」
喉が鳴ると同時に唇を離すと、移しきれなかった水が乾の唇の端から弧を描いて形のよい顎を伝い、床に滴り落ちる。
その囁きに近い声に手塚はミネラルウォーターのボトルを取り、乾の手に握らせてやった。やはり飲み下しきれなかったのだろう、乾はボトルの水を煽るともう一度喉を小さく鳴らした。
その上下する喉仏を美しいと思いながら見つめていると、ずいっと眼前にボトルを突きつけられた。
「もういいのか」
「うん。本当にやるとは思わなかった。計算外だ」
受け取ったボトルの蓋をして傍らに置く。
「乾」
そして改めて手塚は彼に告げた。









なぜ、こんなことになってしまったのか。


母はとても優しい人だった。父も俺を愛してくれた。
俺をとても理解してくれるパートナーも居た。

幸せだった。

俺の背後にはいつも俺の背と同じだけの高さを持つ扉が存在していたけれど、俺はそれを振り返る必要も無くただ無邪気に歩いてきた。
小さな箱庭が、いつまでも続くのだと信じていたのだ。
けれど。


――うそだ!蓮二が俺をおいていくわけない!!


裏切られたのでもなく、愛想を吐かされたのでもなく、捨てられた。
そう、彼は己の未来に不必要になった所有物を捨てていったのだ。
捨てられたゴミは風化し、朽ちていくしかない。


――蓮二、れんじ…!!!


泣き叫ぶ俺の背後で扉が開かれた。
俺は、振り返ってしまった。
鍵はなくしてしまった。閉じる事は出来ない。
もう、行くしかないのだ。

扉の中へ踏み込んだ瞬間、誰かの呼び声が聞こえた。

それからはもうただ暗闇の中を転げ落ちていくだけだった。
足掻いたとて虚しく、その指先は空を切るのみだ。

自分自身は確かにここにいるのに、常に落ちていく感覚が後ろ髪を引くように纏わりついて離れない。
吐き気がする。
いっそ全てを吐き出してしまえば楽になれるかもしれないのに、溢れるものは無くただ延々と不快な吐き気だけが続くのだ。


たまに意識が遠のく。
気付くと俺の足元で手塚が怪我をして蹲っている。
またか、と思う。
なんとなく、ぼんやりとはその時のことを覚えはいるのだが、その程度だった。
けれど。
芋虫のように丸くなってぴくりとも動かない手塚の手には何かが握られていた。
それを取り上げると、錆びて矮小な鍵だった。
見回すより早く、鍵穴を使うべき場所を見つけた。
蹲る手塚の体の下に扉があった。
こんな奈落の底でどこで繋がっていると言うのか。
光の下へ還れることは無いだろう。
ならば、扉の存在意義は。
鍵穴は手塚の左手の中心にあった。
小さなそれはぽっかりと口を開けていた。

「手塚」

横たわる彼を呼ぶと、手塚はぱちりとその切れ長の双眸を見開いて視線だけでこちらを見上げてきた。
薄い唇が開く。


いぬい


それは音ではなく、この鼓膜を震わせることは無かった。
けれど手塚の声は確かにこの無意味なものばかり詰まった脳内に響いた。

おまえがのぞむならなんでもしようなんでもかなえようことばがほしいのならなんどでもいおうおれはおまえをあいしてるおれはずっとおまえのそばにいるはなれたりなんかしないなんどだってちかうだからいぬいそんなざんこくなことをいわないでくれたのむいぬいおれをそばにおいてくれ

いつ聞いたのだろう。手塚の掌の鍵穴をぼんやりと見下ろしながら考える。
ああそうだ、あの日、資料室で、祐大さんが来て。もう潮時だなって。
だから、手塚が…ああそうだ、大石もいた。

あれからどうしたんだっけ?

ぼんやりとしてる。よく覚えてない。
最近は記憶が飛ぶことは無かったのだけれど。
ああでも。

手にした鍵は、握り締めたら粉々になってしまいそうなほど錆び付いている。
この手にある錆びた鍵。
手塚の掌にある小さな鍵穴。

手放すのなら、これが最後の機会だ。
その扉を開けてしまったらもう、帰ることはできない。

俺も、手塚も。






コンコン。


「………」
ノックの音にふと意識が浮上する。
手の中の鍵を見下ろすとそこに錆び付いた鍵は無く、何錠もの薬が手の動きにあわせてころころと転がっているだけだった。
貞治、と扉の向こうから声がする。
「今、行くよ。父さん」
掌のそれらを口内に放り込み、机の上に置かれたグラスの水と共に飲み下した。
立ち上がって窓を見る。外は虚しいほどに晴天だ。

さあ、行こう。

これで、最後だ。










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