浅瀬を歩む君の滑らかな脚








「真田、もう一度信じるということを思い出させて。…俺に、光を教えて」



終、真田弦一郎と乾貞治:「アガスティアの葉は焼け落ちた」


「赤也、少し残れ」
全国大会が終わって初めての部活。レギュラーは軽く慣らす程度で終わったそれは、赤也にとっては少々不満を齎すものだった。
「何スか」
これからスクールで足りない分を補おうとしていた所に水を差すようなそれに、赤也は不機嫌そうに真田を見た。
「うむ」
真田は頷くと、ちらりと辺りを見回した。
「んじゃなー」
「お疲れさんー」
その視線に気付いた他の部員たちがさっさと部室を出て行く。
残ったのは、真田に赤也、そして幸村と柳の四人だった。
「で?三鬼才揃って何なんスか?」
「貞治が昨日退院した。部活にも今日から顔を出している」
「へえ」
柳の言葉に赤也は唇の端を歪めて笑う。
「たった二日で退院スか。手加減したつもりは無かったんスけどねえ。さっすが乾さん。ジョーブに出来てらっしゃる」
皮肉じみたそれに柳は何の反応もせず、真田が続けた。
「怪我自体は大した事はないようだ。ただ…」
そこで真田は一旦言葉を止め、視線を逸らした。しかしすぐにその視線を再び赤也に合わせ、言葉を続けた。
「乾はお前に知らせる必要は無いと言った。しかし、俺はお前も知っておくべきだと判断した」
「はあ」
「乾は失明した」
一瞬、真田の言葉が理解できなかった。
「ハァ?」
何を言っているのだろう、この人は。
赤也の訝しげな視線を受け止めながら真田は続ける。
「元々、いつ失明してもおかしくなかった所に頭部に強い刺激を受けた為に一気に進行したそうだ」
何の冗談だろうか。
しかし真田は至って神妙な顔をして語っている。
柳、幸村に視線を向ければ、彼らもただじっと赤也を見ていた。
「…ははっ」
自然と乾いた笑いが出た。
「それで、何スか。謝って来いとでも言うんスか」
馬鹿馬鹿しい。赤也は吐き捨てるように言う。
「不動峰ん時も聖徳ん時も何も言わなかったくせに相手が乾さんだと文句言うんスか」
赤也は沸々と湧き上がるものに突き動かされるように、次第に声を荒げていった。
「テメエに関係ないヤツは良くて関係のあるヤツなら俺を責めるんスか。ふざけんな!アンタらだって今まで見てただけのくせに、俺を責めるケンリなんてねえだろーが!」
声を荒げる赤也に対し、しかし真田たちの視線は静かだった。
批難するでも責めるでもない。それが一層赤也の憤りに油を注ぐ。
「で?乾さんに頭下げて文句の一つでも聞いて来いってか?ざけんなよ。そもそも悪ぃのはあっちじゃねーか!目ぇ見えねえのにのこのこコートに入ってくる方がバカなんだよ!」
「赤也」
真田の静かな声に赤也はびくりと体を竦ませる。
「お前のプレイスタイルに口を出すつもりは無い。ただし、それに付き纏う責任だけは忘れるな。その力を振い続けるのも、または別の道を模索するのもお前の好きにすればいい」
「はあ?わけわかんねーし!つーかんなくっだらねー話んためにワザワザ時間取られたくねーんだよ!」
手荒くテニスバッグを担ぎ、赤也は三人の視線を振り切るように部室を出た。
「っざけんなっ、バッカじゃねーの!弱ぇのが悪いんだよ!」
足音荒く校門へと向かう。
テニスを嫌いになりたくないのだと、そう告げる寂しげな笑顔が甦る。
「俺は何も悪くねえ!悪くねーに決まってんだろ!」
この怒りが何処から来るものなのかなんて、考えたくも無かった。


部外者の存在に真っ先に気付いたのは、フェンスの近くに立っていた菊丸だった。
フェンスの向こう側のその姿を認めると、菊丸は隣で同じ様に休憩していた不二にこそりと耳打ちした。ちらりと不二もまたその姿を捉える。
切原赤也がそこには立っていた。
しかし向こうはこちらの視線に全く気付く様子も無く、コートの中を睨みつけている。
不二はその視線の先を追う様にコートに視線を戻し、ああ、と納得した。
そこには、乾の姿があった。
すらりとした立ち姿はいつもの事だが、しかし昨日は形ばかりに掛けていた眼鏡も今日は掛けていない。
その目を閉ざし、手にしたファイルを片手に彼は傍らに立つ大石と何か話し込んでいた。その長い指先は先ほどから開いたファイルの紙面を滑っている。練習が始まる前にその中身を見せてもらったのだが、全て点字で打たれていて何が書いてあるのかはさっぱりだった。
キィ、と扉の開けられる音に不二は意識をそちらに戻す。
切原がいつぞやと同じく勝手知ったる態度でコートに入ってきたのだ。
同じくそれに気付いた菊丸が不二にどうする?と問いかけてくる。
とりあえず、見てようか。不二はそう返して腕を組んだ。
「あ!てめえ!立海の切原!」
真っ先に声を上げたのは荒井だった。彼は明らかに不機嫌そうな切原に近づくとその行く手を阻むように立ち塞がった。
「邪魔なんだけど」
「お前こそ出て行けよ!ここは部外者立ち入り禁止だぜ!」
その声に他の部員たちもチラホラと集まってくる。切原はちっと舌打ちして荒井の肩を押し退けた。
「あんたらにゃ用はねえんだよ」
「てめえ!」
しつこく腕を掴んで引き止める相手に切原はただでさえ良くない機嫌が一気に降下していくのを感じた。
「うぜえ!」
思い切り腕を振り、その手を振り払う。わめく相手には目もくれずも区的の人物に向かって声を上げた。
「乾さん!」
彼もまたざわめき始めた雰囲気に気付いていたのだろう、目は相変わらず閉ざされていたが、様子を窺うように顔はこちらを向いていた。
切原の呼びかけに彼は少し小首を傾げ、傍らの大石に何か話しかけている。
大石が説明すると、彼は納得したように頷いてまた何か大石に話しかけた。
そのやり取りすら切原を苛立たせ、そこへ向かおうとするがしかし今度は見覚えのある二人が立ち塞がる。
「部外者が勝手に入ってきちゃあいけねーな、いけねーよ」
「…あの人に近寄るんじゃねえよ…」
おどけた口調の、しかし視線は決して友好的ではない桃城と、敵意も顕わに睨みつけてくる海堂。切原は二度目の舌打ちを洩らす。
このまま力ずくでねじ伏せてやろうか、そう思った時、大石が彼らを呼んだ。
「桃、海堂」
「大石先輩」
「センパイ…」
桃城と海堂がさっと二手に割れる。その先には大石と、その肩に手を置いた乾が立っていた。
「何か俺に用かな?切原君」
落ち着いたその声音に批難の色は無く、ただ純粋に切原の突然の来訪を疑問に思っているようだった。
「…アンタ、目ぇ見えなくなったってマジっすか」
すると彼は少しだけ苦笑した。
「幸村たちが話したのかな。うん、まあそうだね」
「真田副部長がアンタが俺には言うなって言ったって言ってた」
「ああ、それは、」
「アンタ、そんなに善人ぶりたいのかよ」
ざわり、と周りが剣呑な雰囲気を強める。
テメエ、と手を出そうとした海堂を桃城が止める。
しかしそれが見えていない乾は、ただきょとんとしたように小首を傾げていた。
「そうやってイイヒトぶって周りの同情ひいて満足かよ」
しかし乾は全く動じた様子も無く、小首を傾げたまま切原を窺っている。
「アンタが目ぇ見えなくなったのはアンタの責任だろ。のこのこ俺の前に立つから悪いんだよっつーか試合とか図々しく出てんじゃねえよ全部何もかもアンタが悪いんだろーが!」
語気を荒げたその言葉に、乾は漸く傾げた首を戻し、そうだね、と頷いた。乾センパイ、と声が上がる。けれど乾はいいから、と大石の肩に預けた手とは反対側の手を軽く上げてそれを制した。
「これは俺の責任だから、君が気に病むことはないんだよ」
乾の言葉に切原はハァ?と馬鹿にしたような声を上げた。
「俺が気に病む?どうやったらそーゆー考えになるんすかねえ?」
「だって、気にしてるからここに来たんだろ?」
「っ…ざけんな!」
苛立ちが一気に跳ね上がる。衝動に任せてその胸倉を掴みあげれば他のヤツラに引き離された。二人掛りで押さえ込まれてはさすがに届かない。
「何で俺がアンタの心配しなきゃなんねえんだよ!バカじゃねーの!アンタが悪いんだろうが!アンタさえ試合に出なきゃ良かったんだ!アンタが…!」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
チクショウ。唸るように呟いた。
考えたくも無い。
この怒りが何処から来るかなんて、知りたくも無い。
けれど、
「何で!何で試合に出たんだよ!何で俺の前に出てきた!アンタ、テニスを恨みたくないって言ってたじゃんかよ!なのに、こんな終わり方していいのかよ!」
儚く微笑ったあの表情が忘れられない。
傷つけたくないのに、傷つけていい人ではないのに、傷つけることでしか感情を吐き出せない。
「切原君、ごめんね」
彼は困ったように微笑むと、一歩前に踏み出してすいっとその手を伸ばしてきた。
反射的にその手を取ると、思わぬ力で引っ張られ、ぽすっと音を立てて白と青の色彩に飛び込む。
数瞬後、乾に抱きしめられているのだと気付いた。
「ちょっ…!」
「君は何も悪くない。君の言うとおり、これは俺の責任だから君が気に病む必要はないんだよ。俺はあの試合に出れば高い確率でこうなることをわかってた。けれど俺は試合に出た。それはつまり、君に幕切れを期待していたんだと思う。勿論試合をする以上勝つ気ではいたけれど、結果的にそうなってしまえばいいと思っていたのも事実だ。前に言っただろう?じりじりと自分のプレイが出来なくなっていく事を自覚しながら続けるのは趣味じゃないって。だからこれは俺のわがままであって、君はそれに利用されただけなんだよ」
だから、ごめんね、と告げる声は何処までも優しくて。
「…っざけんな」
切原は彼の背に爪を立てんばかりの強さでしがみ付く。
「だから真田たちには君に知らせなくていいって言っておいたんだけど…余計に気を遣わせちゃったかな」
「遣ってねーし」
「はは、じゃあそういう事にしておこうかな」
だからね、切原君。
乾は子守唄を歌うような穏やかな口調で切原を呼ぶ。
「君はテニスをやめないでね」
やめねーし、という呟きは乾の肩口に吸い込まれて消えた。

そして乾が体を離そうとしても切原はしがみ付いて離れず、結局青学二年レギュラー二人に引き剥がされた。



その日、赤也は部活に現れなかった。
昨日の事で拗ねているのだろうかとも思ったが、不機嫌程度で部活を休むような奴ではない。いい加減に見えて、そういう所はちゃんとしている。
しかし携帯に電話しても留守電に変わること無く延々とコール音が鳴り続けるだけで。幸村と蓮ニは心当たりがあるのか、放っておけと素っ気無い。
仕方なくそのまま部活を始め、昼の休憩に差し掛かった頃に赤也はやってきた。
「赤也、乾」
赤也に手を引かれてやって来た乾の姿に、真田は漸く赤也が何処に行っていたのかを理解した。幸村と蓮ニは分かっていたのだろう、特に驚いた様子は無かった。
二人は真っ先に乾と赤也に近づき、赤也から乾の手を引き剥がして自分の手と繋いでいた。
「ちょっと柳、両方塞いでしまったら乾が白杖を持てないじゃないか」
「案ずるな。この俺が完璧なまでの誘導をしてやる。俺に任せておけ、貞治」
「ええと、気持ちは嬉しいんだけど、二人ともちょっと離してくれるかな」
二人の間に見えない火花が散るも、しかし乾がやんわりと二人の手を振り払い、後ろを振り返った。
「切原君、そこにいる?」
一歩下がったところでぼんやりとしていた赤也がはっとして声をあげた。
「あ、ここにいるっす」
乾は頷くと、「真田もいるかな?」と幸村たちの居る辺りに顔を向ける。
「ここにいる」
「うん、じゃあ切原君」
「…ス」
促されるがままに幸村と真田の前に立った赤也は微かに頭を下げて「サボってすんませんでした」と呟くように告げた。
「真田、幸村」
「うん。乾の言いたい事はわかるよ。でも無断で休んだことに変わりは無い。真田」
「うむ。今日はコートに入れると思うなよ、赤也。手始めに午後イチで十キロ走れ」
「ッス」
「それより貞治。ここまでどうやって来たのだ」
蓮ニの問いかけに、乾は「タクシーだけど?」とあっさりと答える。
「結構掛かったんじゃない?」
「カードがあるから問題ないよ。足代はケチるなってのが我が家の理念だから」
「あー!青学の乾じゃん!!」
割って入った声の主へと一同の視線が向く。
荷物を取りに部室に戻っていた丸井たちが乾たちの輪を見つけ、ぞろぞろと寄って来た。
「つーか赤也もいんじゃん!ナニナニどーなってんだぃ?」
「よーぅ乾ー」
「やあ、丸井、仁王…あと、足音からして他にもいるのかな?」
「柳生とジャッカルもおるで」
仁王が乾の肩に手を回せば蓮ニがそれを叩き落とす。ならばと腰に手を回せば今度は幸村が速攻で跳ね除ける。
「今日はガードが固いのー」
「俺は貞治のように甘んずるつもりは無いのでな」
「仁王、乾が優しいからって周りまで優しいとは限らないんだよ?」
「プリッ」
仁王と幸村、蓮ニが何処と無く険悪な空気を醸し出す中、柳生が乾の前に立った。
「それより乾君、今日はどうしたのですか」
「ああ、切原君をお届けついでに遊びに来たんだ。迷惑だったかな?」
「いえ、滅相もありません。ただ、ボールが飛んできたら危ないですから練習中はコートからは離れていてくださいね」
ジャッカルが「そんなホームラン打つ奴いねえだろ」と苦笑するが、柳生は真面目ぶっていいえ、と首を横に振って乾の手を取った。
「万が一ということもありますから」
「うん、ありがとう」
「そしてどさくさに紛れて貞治の手を握るんじゃない」
ずびしっと器用に柳生の手にだけ手刀を落とし、蓮ニは自由になった乾の手を引いて柳生から遠ざける。
「なあなあーそんな事より早くメシ食おうぜぃ」
すると痺れを切らした丸井が乾の背中に飛びつき、そのまま脚を乾の腰に絡み付けて強制的におんぶの形をとった。
「おっと」
「丸井!」
「いいよ、真田。大丈夫だから」
一瞬バランスを崩したが、何とか踏み止まると乾は微笑った。
「メシー!」
「そうだったな。引き止めて悪かったね」
「つーか赤也」
そういえば、とジャッカルが赤也を見る。
「お前はメシ持って来てんのか?」
「うぃーす、途中でコンビニで買ってきましたーっつーか乾さんが十秒チャージのなんたらゼリーとカロメだけしか買わなかったのがありえないって感じでしたー」
「げぇーそんなんだからひょろっこいんだぜぃ、乾ぃ。何なら弁当わけてやるぜぃ、ジャッカルのだけどな!」
「俺のかよ!」
乾は丸井の脚に手を回して支えながら、小さく微笑った。
「じゃあ、今日は皆で一緒に食べてみない?」




自室に入るなり、真田は固まっていた。
「おかえり、真田」
自室に戻ってきた自分を柔らかな笑顔で迎える乾。そこまでは良い。
「…蓮ニは何をしているのだ」
「え?膝枕?」
疑問系で乾が答えるが、正座した彼の膝に頭を乗せ、腕までもしっかりとその細い腰に回している蓮ニの姿を膝枕といわず何というのか。
「何かね、疲れて眠いって言って突然こうなった。蓮ニ、真田戻ってきたよ」
優しくその頭を撫でて囁くが、しかし蓮ニが起きる気配は無い。
「うーん、寝入っちゃってるみたい」
「…そうか」
視線は二人へと向けたまま定位置に腰を据える。
乾は相変わらず優しげな表情で、蓮ニの髪をゆっくりと梳いている。
その指先が与えてくれる心地よさを知っている身としては、蓮ニが羨ましいと思ってしまうのも仕方の無いことだ。
「…合宿以外で蓮ニの寝ているところを見るのは初めてだ」
「そう?昔よくウチに泊まりに来てた時は俺が起こすまで起きなかったくらい寝汚かったけど」
それは単に乾に起こして欲しいが為に寝たフリをしていただけに過ぎないのだが、乾がそれを知る由もない。
「そうか」
それにしても、と真田は乾を見る。
乾は最近は随分と穏やかな顔をするようになった。
彼が自ずから背負い込んでいた重荷を大分下ろした所為か、つい先日まであれ程までに蓮ニに対して神経質なまでの反応をしていたというのに、今ではすっかり気を許している。
それはここが真田のテリトリーであるということも関係しているのかもしれないが、そうであると自負できるほど自惚れるつもりは無い。が、それが事実であれば良いとも思う。
「…真田は、俺がこうやって他の人とくっついたりするのは嫌?」
「…乾の行動を制限するようなことはしたくは無い。…のだが、不愉快と思わないわけではないのが正直な所だ」
「そう。ねえ、真田」
乾がちょいちょいと手招きをする。
「何だ?」
誘われるがままにその傍らににじり寄ると、真田の位置を確かめるように乾の手が真田の肩口をぺたぺたと触った。
「?」
乾の挙動を見守っていると、彼は徐に真田の肩にこてりと頭を乗せた。
「真田、ありがとう」
「?何がだ」
しかし乾は小さく笑うだけだ。
「乾?」
「いや、俺、真田を選んでよかったなあって思って」
「!」
思わず身を硬くすると、それを感じ取った乾が喉を鳴らして笑う。
余りにも無邪気に笑うものだから、真田は誘われるようにその頬に手を添えた。
するとその意図を察したように乾は真田の肩から顔を上げる。
「乾…」
その整った顔に己の顔を寄せ、あとほんの少しで唇が触れ合うという刹那、ごすっという音と共に真田の顎が衝撃によって跳ね上がった。
「ぐっ…」
「真田?!」
「おっと何やらぶつかったか」
しれっとして身を起こしているのは、先ほどまで眠っていたはずの蓮ニだった。
「あ、蓮ニおはよう」
「ああ、おはよう貞治。お前の膝は心地よくてつい寝入ってしまった。すまないな」
「いや、俺は構わないんだが…真田、大丈夫?凄い音がしたんだけど」
「起き上がった弾みでつい頭が掠っただけだ、貞治」
実際は掠った所の騒ぎではないのだが、痛みに悶えている真田に反論する術はない。
「人が寝入っているのを良い事に不埒に及ぼうとした弦一郎の自業自得だ。貞治の心配には及ばん」
乾が見えないのを良い事に、そう言いながらも蓮ニはげしげしと真田に蹴りを入れている。
その不敵な顔に真田は確信した。こいつ最初から起きてやがった、と。
乾が真田を選んでからも、蓮ニは一向に構わず乾の周りをうろついている。乾の警戒が緩んだら緩んだで途端に過剰なスキンシップも図ってくる始末。
今日とて本来なら乾だけを招いたはずだったのだ。なのに気付いたらちゃっかりと蓮ニまで上がりこんでいる。
下手をすると乾が泊まるなら自分も泊まると言い出しかねない。
「こら蓮ニ、また真田苛めてるだろ」
見えなくとも気配や音でそれらを察する事に慣れている乾は渋い顔で蓮ニを諌めた。
「気のせいだ、貞治」
「……」
乾の一言で漸く攻撃が収まり、真田が身を起こす。
「ていうか蓮ニ、今日はもう遅いんだから帰れよ」
「貞治と一緒ならば帰ろう」
「駄目。俺はお泊り。蓮ニは帰る。これ決定事項」
蓮ニがぶすくれていると「玄関までは送るから」と蓮ニの手を引いて立ち上がる。とっとと追い出すことにしたらしい。
「ほら、さっさと行くよ」
「さだはるぅー」
「はいはい、また明日な」
べたりと抱きついてきた蓮ニを構わず引きずって乾は玄関へと向かう。
真田は一つ溜息を吐き、その後を追うべく立ち上がった。






子供が俺を見上げていた。





あの泣いていた子供だとすぐに分かった。
子供はもう泣いてはいなかった。
けれど泣き腫らして未だに潤んだ目でじっと俺を見上げている。

いつの間にか、俺の手の中には金色に光る小さな鍵があった。
その鍵が何の鍵なのか、俺は何故か知っていた。


鍵の乗った手をそっと子供に手を伸ばす。
今度こそ、この手は、声は、子供に届いた。
けれど子供は何処か戸惑うように俺を見ている。


「もう、泣かなくていい」


身を切り裂くような、悲鳴のような声で呼ばなくてもいいのだ。
子供が恐る恐るその鍵を受け取る。

そして俺は子供の前に膝をつき、その小さな体をそっと抱き寄せた。




「俺が、傍にいる」




お前の傍にいる。
喜びも怒りも、哀しみも全て共に分かち合おう。
だからもう、独りでこんな寂しいところで泣くな。



共に生きよう。
支えあう事は、いけないことではないのだ。



子供の体から力が抜け、柔らかく俺の体に寄りかかってきた。
耳元で子供が小さく呟く。




「…ああ、疲れただろう。今はゆっくりと休め…乾…」



子供の体の輪郭が薄れ、消えていく。
俺の体も見る間に消えていく。
暖かく心地よい消失に身を委ね、目を閉じた。




泣き声は、もう聞こえない。








真田の朝は早い。
季節によっては夜明けより早く起き出し、離れの道場で一人精神統一に勤める。
それが終わると今度はロードワークに出かけ、朝食の出来上がる少し前に帰宅してシャワーを浴びる。
そして朝食の前に、もう一つ彼にはやることがあった。


半年前までは客間だった座敷の前に立ち、今はその部屋の主であるその名を呼ぶ。
しかし応えはない。
これはいつものことだったので真田は入るぞ、とだけ声をかけて襖を開けた。
目ぼしい家具は箪笥と座卓とこんもり盛り上がった布団だけだったが、しかしその座卓や布団の廻りには無数の書籍やファイル、果てには点字器や点消棒、点筆が転がっている。
あれほど転ぶから片付けろと言っているのに、そして夕べも真田がこの手で片付けたはずなのに、それにも関わらずこの有様だ。
真田は一つ溜息を吐いて、転がっているそれらを拾い集めながら布団の盛り上がりの傍らに膝を着く。
「乾、時間だ」
小山を軽く揺すってみると、もそりと蠢いた。が、それだけだ。
仕方なく真田が布団の端を掴んで引っぺがすと、真田よりわずかに身長の高いはずの青年が冬眠中の小動物のように小さく丸まって眠っていた。
「…んむ……」
突然の布団の消失に、彼は無意識にもそもそと一層小さく丸まって暖を逃すまいとしている。
その姿はそれはそれは愛らしいと思うのだが、けれど今は愛でている場合ではない。
「乾」
何度か繰り返して揺さぶると、もしょもしょと何やら呻きながら乾はのそりとその身を起こした。
「おはよう、乾」
「んー…おはよ、真田…」
「着替えは出しておいてやるから先に顔を洗って来い」
乾はこくりと頷くとのんびりとした、しかし盲目とは感じさせない迷いのない足取りで部屋を出て行った。
それを見送った真田は箪笥から着替えを取り出し、散らかった書籍を簡単にではあるが片付けていく。

乾が真田邸に住むことになったのは、半年ほど前。中学生最後の日からだった。
全国大会が終わって、それと同時に視力を失った乾はそれでも卒業まで青学テニス部の頭脳であり続けた。
今まで乾が集めてきたデータやその知識は貴重だったし、眼が見えなくとも触診や周りからのサポートを得て新たなデータを蓄積していった。
確かに以前よりは格段にデータの更新速度が落ちたのは事実だが、しかしだからと彼の地位や周りからの信頼が揺らぐことは無かった。寧ろハンデを背負っていても部に貢献するその姿に後輩らは一層彼に懐いていった。


手塚は、卒業と同時にドイツへ渡った。
渡独する数日前、真田は手塚に呼び出された。
真田が手塚と会うのは乾が手塚でも柳でも無く真田を選んだあの日以来だった。
少し痩せたと思った。乾ほどではないが、手塚も元々細身だった。しかしそれを抜きにしてもどこか痩せた印象を抱いた。
――乾を、頼む。
彼はそう言って頭を下げた。
恨んではいないのか、と思わず問いかけた真田に、彼は何とも言えぬ、強いてあげるなら自嘲気味な複雑な表情をした。
乾は手塚を大切にしていた。
けれどそれは手塚が乾に対して抱いていた愛情とは違っていた。
柳が「人形遊び」と称したとおり、乾はあくまで自分の思い通りに創り上げた手塚を愛していたのであって、乾の本位から逸脱した要求、つまりは見返りを求めた手塚をいつまでも手元においてくれるはずが無かった。
人形は愛玩物であり、伴侶ではない。傍らに立てる存在ではなく、そして乾は真田と出会ってしまった。
真田は常に喪失と孤独に怯え、警戒し続けてきた乾に安堵を齎した。
お気に入りの人形で孤独と喪失感を埋める必要が無くなったのだ。
幼子がいつか人形を手放して一人で歩いていくように、四年前のあの日から歩みを止めていたその足で再び歩き始めた乾に手塚は不要であった。
手塚は自分が乾にとってそういう存在なのだと気付いていた。
それでも手塚は乾から離れることは出来なかった。
手塚は乾を愛していたし、例え愛玩物に対するそれであっても乾の温もりは離れがたいものだった。
けれど終わりはとうとう訪れてしまった。
手塚はそれを止める術を持たない。
ただそれに従うしかないのだ。
追い縋った所で乾は手塚を蔑視こそすれ愛してはくれまい。
否、彼は優しいからもしかしたら縋る手塚を傍に置いてくれるかもしれない。
けれどそれはもう愛情ではなく、同情や哀れみでしかない。
ならば彼の元を離れるしか道は残ってはいなかった。
けれど例えどれほど離れたとしても、時が流れようとも、乾貞治という存在は手塚にとって特別な意味を孕み、そしてその身を食い潰す様に在り続けるだろう。
もしかしたら一生誰を愛することもなく、ただ乾との思い出だけに縋って生きていくことになるのかもしれない。
例え誰かを愛することが出来たとして、しかし乾の存在がこの身の内から消えることはきっと永遠にないだろう。
乾は手塚の現在も未来すらも揺るがせた。
しかし手塚はそれを責めようとは思わない。
彼が与えてくれた幸せも不安も痛みも苦しみも、全てが手塚にとっては愛しかった。
それは手塚は乾にそう、俗な表現をするならば躾けられたのかもしれないとも分かっていた。
それでも手塚が乾を憎む気持ちになれない事は確かであり、そして今も尚、彼を愛しいと思っているのも確かだった。
乾に捨てられたことは哀しい。
けれどもう乾が手塚を必要としないのならば、そしてそれによって乾が幸せになれるのであれば、もう、それでいいのだ。

「乾が幸せである事が、即ち俺の幸福に繋がる」

この身を切り裂くような痛みも、涙を流すことすら許してはくれない哀しみも、全ては乾の幸せの為の供物であるのであれば。



「何の悔いもない。俺は愛した人を幸せにしたのだと、胸を張って生きていける」



そうして手塚は最後にもう一度、乾を頼む、と言って去っていった。
その凛とした後姿に謝罪を投げかけるのは傲慢でしかなく。
真田は、その後姿にただ頭を下げるしか出来なかった。



「真田?」

はっとして我に返った。

目の前では乾が小首を傾げてこちらを「見て」いる。
そうだった、今は乾と話している最中だった。
「どうかしたのかい」
「ああ、いや、少し呆けていたようだ。鍛錬が足りんな」
「まあ、これだけ天気もいいと、ね」
乾が薄っすらと微笑んで手にした湯飲みから緑茶を啜る。
縁側で二人並んで茶を啜る。
まるで夫婦のようだ。真田は僅かに赤面した。
「…なあ、真田」
「うむ」
「俺は、変わろうと思う」
乾は閉ざした目で青空を見上げる。
「ずっと流れに身を任せてばかりだったけれど、もう、止めにする。流れに逆らうことになったとしても、俺は自分の足で立つよ」
真田の傍に、いたいから。
「乾…」

「一緒に歩いていこう、真田」

微笑んで差し出された手を、真田は迷わず取った。
「ああ、望むところだ、乾」
乾の瞳は物を映す事は無くなってしまったけれど、しかし彼にはきっと見えている。
暗闇の世界に伸びる、無数の光の道が。
(乾は大丈夫だ。手塚…)
彼はその道への一歩を、踏み出したのだ。
真田というパートナーと共に。



「二人で、生きていこう」



そうしてここから、全てが始まるのだ。








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