浅瀬を歩む君の滑らかな脚
「手塚、お前さえ居ればもう、それでいい。だから俺を選んで。テニスよりも家族よりも。ねえ、手塚。俺を選んで」 手塚編「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」 乾は一通りの検査を済ませるとさっさと退院した。 退屈で倒れそうだった。電話越しに彼はそう言って笑っていた。 明日は一度病院によってから部の方にも顔を出すよ。 その言葉通り、乾は幾ばかりか遅れてコートに現れた。 癖なのかいつもの眼鏡をかけ、しかし手には彼が視覚障害者であると示す白く細長い杖が握られている。 「乾」 駆け寄り、声を掛けると彼はこちらを向いて微かに小首を傾げるような素振りを見せた。 「やあ、手塚」 未だガーゼや湿布がその白い肌の多くを占めており、痛みが無いわけではないはずなのに彼はいつもと同じ様に微笑った。 「乾、大丈夫なのか」 同じくコートを飛び出してきた大石の言葉に、乾はゆったりと頷く。 「うん。コートに立つことはできなくなっちゃったけど、いてもいいかな」 「当たり前だろう。コートに立てなくたって、お前は俺たち青学テニス部の仲間だ。なあ、手塚」 「ああ。たとえテニスが出来なくなろうとも、お前が今まで培ってきたものは変わらない」 「…ありがとう」 「そういえば乾、何で眼鏡かけたままなんだ?」 大石の疑問に、ああ、と乾は眼鏡をくいっと中指で持ち上げた。 「無いと落ち着かないって言うのもあるけど、眼鏡無いと俺だって分かってもらえないかなって思って」 「そんな事無いと思うぞ」 「そう?昔から『お前は眼鏡外すと誰だかわからない』って言われてきたから、そうなんだと思ってたんだけど」 「まあ、見慣れないっていうのはあるかもしれないけど、そんな罅の入った眼鏡を掛けてて、万が一割れたりしたら危ないんじゃないか?」 「え、罅入ってる?どっち?」 「左目の方。結構ハデに入ってるぞ」 「そっか。レンズは触らないからわかんなかったよ。ありがとう、大石」 なら外しておいた方が良さそうだ。そう言って眼鏡を外し、乾は空いた手で鞄を探り始めた。 「手伝おうか?」 「いや、大丈夫。…あ、あった」 手探り、と言うには慣れた手つきで鞄から眼鏡ケースを取り出し、罅割れた眼鏡をケースにしまって再びそれを鞄の中に仕舞いこんだ。 「それじゃあ、いつまでもここで立ち話ってのも何だから、コートに行こうか。大石、コートまで肩に手を置かせてもらってもいい?」 「え、俺?あ、うん、いいけど…」 その申し出に大石は思わず手塚を見る。 しかし手塚もいつもどおりの無表情で一つ頷くだけだ。 「あ、乾、部室には寄らなくていいのか?」 「うん。ご覧の通りジャージだし、鞄には点字用のタイプライターとか入ってるからどっちにしろ持ち歩く事になるし」 「そっか。じゃあ、行こうか」 原因不明の違和感を感じながらも、大石は心持ちゆっくりと歩き出した。 始まりは、ほんの些細な事だったのに。 ぱしん。 乾いた音と共に差し伸べた手に軽い痛みが走る。 睨み付けんばかりの険しさを湛える乾。 また、やってしまった。 「すまない…」 手塚は伸ばした手を引いて謝った。 「あ、いや…俺の方こそゴメン」 気まずげに乾は顔を逸らし、「でも、大丈夫だから」と呟くように告げて部屋を出て行った。 彼の自室に一人残された手塚は叩かれた手をもう片方の手でそっと包み込み、目を閉じた。 乾は、手塚に手を貸されることを極端に嫌っている。 大石や他の仲間たちには遠慮なく誘導を頼んだり、手を借りたりする。 しかし手塚にだけは決して頼ろうとしない。 最初こそその意図が分からず途惑ったのだが、今は違う。 乾は手塚に自分の弱さを見せたくないのだ。 ハンデを背負っているという事は、乾にとって酷く劣等感を煽るものなのだろう。 それでも乾は手塚にだけは、手塚とだけは、対等でありたいと思っている。 受け入れざるを得ないのだからと己を納得させて入るものの、しかし溢れるものは拭い切れない。 だから彼は手塚の庇護の手を過剰なほどに嫌う。 それは、乾とって手塚という存在が他の者達とは違うのだと知らしめているようで。 例え手を差し伸べるたびに手酷く振り払われたとしても、手塚にとってそれは幸福の証でしかなかった。 「おまたせ」 グラスの二つ乗せられたトレイを片手に戻ってきた乾を手塚は迎える。 眼が見えないとは思えないほどのしっかりとした足取りで小さなローテーブルの前まで来ると、彼はそこにトレイを置いた。 「手塚、そこにいる?」 「ああ」 乾は声を頼りに手塚の居場所を確かめ、ぶつかる事無く隣で腰を下ろした。 「ねえ、手塚。キスしてよ」 少しだけ口元に笑みを浮かべ、求めてくる乾の頬に手を沿え、手塚は求められるがままその唇に口付けた。 「ん…」 そのまま何度も角度を変えては触れ、次第に深くなっていく口付けに乾の手が手塚の背に廻される。 「…乾」 「今日は抱きたい?それとも抱かれたい?」 顔をずらし、くつくつと喉の奥を鳴らして笑う乾のその喉仏に軽く口付ける。 「…乾を抱きたい」 「いいよ」 おいで、と誘われるように手塚は乾を毛足の短いカーペットの上に押し倒した。 手の痛みは、疾うに消えていた。 もっと早く、気付くべきだった。 乾の擦り切れた精神の不安定さに。 それが発する小さな警報に。 けれど手塚はそれを見逃した。 気付いた時にはもう、その坂を転がり落ちるしか術はなかった。 手塚がドイツへの留学を取り止めたと大石が聞いたのは、二学期が始まってすぐの事だった。 詳しい理由を手塚は語らなかったが、彼なりの葛藤や考えがあっての事だろう。大石は深く問い詰めたりはしなかった。 手塚ならば高校を出てからでも十分上を目指せるだろうし、成長期の今、左腕の不安材料を抱えたまま無理に渡独する必要もないと思ったのだ。 そうして青学高等部に進学し、大石は当然のようにテニス部に入部した。 そこには懐かしい顔もあれば、高等部から入部したのだろう、見慣れない顔もあった。 乾や河村、そして桃城たち後輩はここには居ないけれど、手塚や不二、菊丸が居る事はとても心強かった。 大石を含む四人は入部してすぐレギュラー入りした。 高等部は中等部ほど目立った戦績は無く、それを思えばなるべくして、というのは慢心かもしれないが、誰もが予測できた結果だった。 そして高等部に上がって初めての夏。 大会を間近に控えたある日、大石は着替える手塚の背に青黒い痣を見つけた。 その時はどこかでぶつけたのだろうとその程度に思っただけだった。 けれど、翌々見ていると手塚の体には常に何処かしらに痣があった。 ぶつけたような、というよりは、殴られたような。 大石の脳裏に三年前の出来事が甦る。 またあの時のように上級生からの嫌がらせを受けているのだろうか。 手塚に何度問い質してもそんな事は無い、転んだだけだと判を押したような応えをするばかりだ。 見守るしかないのだろうか。そう思っていた。 しかしそれは一つ消える頃にはまた別の場所に新しい痣が増え、秋も終わりに差し掛かる頃には増えていく一方となったそれに大石は居ても立っても居られなくなっていた。 だが問い質せば質すほど手塚は頑なになるばかりで八方塞だ。 こんなとき、乾がいてくれたら。 大石は今ではコートから身を引いた彼を思う。 不器用で人間関係に角が立ちやすい手塚を常に支え、さりげなくその身を挺して手塚への敵意から彼を守ってきた乾。 乾は視力を失った今も変わらず特進クラスに籍を置いている。高等部になると一般クラスと特進クラスは棟自体が違っており、滅多に会うことは無い。 しかし手塚はいつも乾と帰路を共にしているはずだ。 彼ならば、何か知っているのではないだろうか。 けれど乾も知らなかったとして、彼に余計な負担をかけてしまうのも気が引ける。 ただでさえ自身のハンデに対し、苦悩や葛藤を抱えているであろう彼にこれ以上頼るのはどうだろうか。 「大石君」 大石は我に返って顔を上げた。 「どうしました。難しい顔をして」 「大和部長…」 そこに立っていたのは、高等部でも変わらず部長の地位にいた大和祐大だった。 「私はもう部長ではありませんよ」 つい先日引継ぎを済ませたばかりの彼は、サングラスの位置を指先で直しながらそう薄い笑みを浮かべた。 そういえば、この人にもまた目に障害を持っているらしい。 視力には問題ないが光に弱いとか何とか。そんな噂を聞いた事がある。 だからだろうか。中等部で大和が部を纏めていたあの当時、乾と大和が話している姿をよく見かけたのは。 珍しい組み合わせだと思ったのを今でもよく覚えている。 「大石君?」 「あ、す、すみません。ちょっと考え事をしていて…」 「手塚君の事ですね」 それは疑問ではなく、確認の口調だった。 「ええと、その…」 大石が口篭っていると、大丈夫です、と彼は相変わらずの薄い笑みを浮かべたまま頷いた。 「他言はしません。と言っても部員の何人かは大石君と同じ様に手塚君の体の痣について気にしているようですが」 「そう、ですか」 やはり自分の他にも不審に思っている者はいたらしい。 菊丸も何か言いたげにしているし、不二は何か知っている様だったが傍観者に徹するつもりらしく見て見ぬふりを決め込んでいる。 「手塚を問い質しても転んだとか、ぶつかったとかそんな答えばかりで…」 そうでしょうね、と大和は頷く。 「例え私が聞いた所で結果は同じでしょう。そうですね、乾君に聞いてみましょうか」 「え?」 大石自身、乾に助力を仰ごうかと思っていただけに、大和の口から乾の名が出たことが逆に意外さを感じた。 「乾に、ですか」 「ええ、君も知っているでしょう?手塚君と乾君が親密だと」 「はあ」 仲が良い、でも親友、でもなく、親密と含みのある物言いに大石は何か引っかかりを感じたが、しかし大和は常にそういった思わせぶりな物言いをする人だ。気にするほどでもないだろう。大石はそう判断して頷いた。 「幸い、私は部活を引退して時間を持て余している身です。私から乾君に探りを入れてみましょう」 乾なら何か知っていると、例え知らなくとも彼なら手塚のガードを崩せると大石は期待していた。 「お願いします」 きっと、乾なら何とかしてくれる。 そう信じていたのだ。 「乾と大和部長って、なんか似てるよね」 そう言ったのは、誰だったか。 柔らかな日差しの差し込む教室内に、カタカタと軽い音が響き渡る。 細く長い指を操り、乾はもう随分昔から使い込んでいるそのタイプライターを打ち続けた。 高等部に上がってからは文芸部に身を置いている乾の所在は、専ら歴史資料室の片隅にあった。 最初こそ部に宛がわれた教室で打ち込んでいたのだが、その打ち込む都度の音が他の部員の迷惑ではなかろうかと顧問に相談した所、教師からの信頼も厚い彼はこの資料室の鍵を手にしたのだった。 最初は埃っぽくて咳き込むこともあったが、気の良い仲間たちが掃除を手伝ってくれたおかげで今は古紙の匂いが微かに漂うだけの心地よい空間となっていた。 からり、と扉を引く音に乾はタイプライターを打つ手を止めた。 瞳を閉ざしたまま扉のほうへと顔を向ける。 ここを訪れるのは文芸部の顧問でありこの部屋の管理人である教師か、または部員、そして手塚だけだ。 けれど彼らは乾がここに居ると知っている。だから必ずノックなり一言声を掛けるなりする。けれど今はそれが無かった。 「……」 自分に用なのか、それともこの部屋に用があるのか。 無言で気配を探っていると、再びからりと音がして扉が閉ざされた。 近づいてくる足音。 「お久しぶりです、乾君」 思わぬ声に乾は一瞬言葉を失う。 二年以上、聞く事のなかった、けれど忘れる事も出来ない声。 「…大和、先輩」 呆然としたようにその名を唇に載せ、しかしすぐに彼がここを訪れた意図を察して微かに唇の端を持ち上げた。 「お久しぶりです」 「少し、お話しても宜しいですか」 「どうぞ」 「手塚君の事です」 ほらみろ。 乾は内心で嗤う。途端、馬鹿馬鹿しくなってくる。 「手塚がどうかしましたか」 止まった手を再び動かそうとするがしかし疾うに気は逸れていて、乾は諦めてキィから手を放した。 「乾君は手塚君の体の痣について何か知っていますか」 「分かっているくせに、聞くんですか」 くすり、と微かに笑う気配がした。 「それもそうですね」 昔と変わらぬ、穏やかな笑い方に乾は微かに苛立ちを感じる。 この人は苦手だ。 失う怖さに怯えていた乾の手を取り、図らずとも道を示した。 大和祐大という男は柳蓮ニを失ってからの「乾貞治」の形成に大きく影響している。 乾はそれを余り考えたくない。 認めたくないわけではないのだ。 ただ、思い出したくない。 この身が張りぼてだと、思い出したくないのだ。 「欲しかったものは、手に入りましたか」 その問いかけに乾は苛立ちを嗤いに変換し、小首を傾げた。 「俺の傍らには手塚がいる。それが答えです」 光を失ったはずの眼の奥で、ちかりと何かが光った気がした。 手塚はその扉の前に立つたび、一層背筋が伸びる様な感覚に囚われる。 それは恐らく、この扉の向こうにいるであろう、この部屋の主の存在が原因だ。 否、そもそもここは学校であり、その学校が管理している一資料室に主など存在するはずも無いのだが、しかしこの空間にて作業に没頭する時の彼が纏うものはまさにそういう類のものだった。 そんな彼が自分の存在を認めた途端、ふと纏う空気を柔らかなものに変貌させる。 手塚は、その瞬間が好きだった。 「……」 すぅっと息を吸い込んで利き手を持ち上げる。 二度、軽くノックすると、扉越しに耳に心地よい低温が聞こえてきた。 静かに扉を横に滑らせ、その空間に足を踏み入れる。 ぴりりと頬に何故か痛みを感じた気がして、手塚は扉を後ろ手に閉めながらその先へと視線を向けた。 そこには、乾がいた。 乾、とその名を呼ぼうとして、けれど手塚はそれを飲み込んだ。 乾はいつもと同じ、大小様々な膨大な数の資料とそれを収めきれていない棚たちに守られるようにしてそこにいた。 それはいつもと変わらぬ風景のはずだった。 しかし確実にいつもとは違う空気が室内を満たしている。 「い、ぬい…?」 漸く搾り出すようにしてその名を呼ぶ。 いつもならそこで乾は柔らかく微笑み、手塚、とあの心地の良い声で手塚を迎え入れてくれるはずだった。 しかし、乾はただ無言で椅子に凭れ掛かっている。 「いぬ…」 「ねえ、手塚」 手塚の声を遮って乾の低音が室内に響いた途端、またあの痛みが頬に走った気がした。 思わずそこに指先を滑らせてみる。 しかし何もない。 そうしている内に乾はゆっくりと立ち上がり、漸く手塚へと顔を向けた。 「…っ…」 その瞳は相変わらず閉ざされたままだったけれど、まるで射抜かれたように手塚の体は強張り、そして先ほどから感じていた微電流のような痛みの正体を知った。 乾は、怒っている。 不機嫌だとか、拗ねている乾の姿は少ないながらもこれまでに何度も見てきた。 しかしそれとは明らかに違っている。 どうかしたのかと、たった一言すら口にすることが出来ない。 これ以上彼に近づけば、彼の発する怒気でこの身は切り裂かれるだろう。 それ程の苛烈とも言える、しかしその表情はいつもどおりの無表情で乾は手塚を見下ろしていた。 「聞いてる?手塚」 淡々とした声音にはっとする。 「ああ」 短い応えに、乾は「それならいいんだ」と唇の端だけを微かに持ち上げて笑みの形を象った。 しかし目元は笑っていない。 そうして口元だけの笑みを浮かべた乾はまるで子供に言い聞かせるように、ゆったりと丁寧に手塚に告げた。 「さっきね、大和先輩が来たよ」 部活を終え、身支度を整えた大石がテニスバッグを提げて部室を出ると、こちらに向かって歩いてくる大和の姿を見つけた。 大和は大石の姿に気づくと、ちょいちょいと手でこちらに来るよう示した。 大石はそれに小さく頷くと、傍らにいた不二に一言謝ってその場を駆け出す。 「……」 その後姿とその先で相変わらずの薄い笑みを浮かべている大和の姿を、不二はその形の良い柳眉を歪めて見送った。 「大和先輩!」 駆け寄ると、彼は軽く片手を上げて挨拶とした。 「やあ。早速ですが乾君の所に行って来ましたよ」 もうですか、の言葉は何とか飲み込んだ。 この人は一見のんびりしている様に見えるが、仕事は早いのだ。 「それで、どうでしたか」 「そうですねえ…」 大石は大和の事は奇特な人だとは思えど尊敬の念も抱いていた。 それはきっと乾とて同じだと思う。 だからこそ、その大和の問いならば例え手塚が乾に何か口止めをしていたとしても何かしら収穫があるだろうと期待していた。 しかし、大和の口から出たのは予想外のものだった。 「問題は解明されましたが解決はされませんでした」 「え?」 大石が思わず首を傾げるが、しかし大和はお構いなしに言葉を続けていく。 「そしてそれは私が介入していいことではありません」 「はあ」 「だから放置してきました」 「はあ?」 昔からそうだが、たまにこの人の言うことが理解できなくなる。 「ええと、大和先輩は、乾から何か聞き出せたんですね?でも大和先輩ではどうしようもなかった、とそういうことですか?」 何とか自分なりに噛み砕いて聞き返せば、大和はそうですねえと無精髭を指先でこすりながらあらぬ方向を見た。 「どちらかといえば、傷を抉っただけなのかもしれません」 またわけがわからない。 「手塚の、ですか?」 傷、と言われて咄嗟に浮かんだのは手塚の体に散ったあの無数の痣だった。 しかし大和はそれをあっさりと否定した。 「いいえ、乾君です」 「乾の?」 ますます分からない。 正直な話、この人と話していると自分の使っている言語とこの人の使っている言語が本当に同じなのだろうかとすら思う時がある。 しかし大和は大石のそんな複雑な心境を知ってか知らずか、のんびりとした声で「うーん」と茜色の空を見上げた。 「そうですね、それがいい」 「はあ」 何がそうでそれなのかさっぱりだったが、この人の思考を理解することは多分無理だろうことを察している大石はもう曖昧に頷くだけだった。 「大石君」 「はい」 「手塚君はもう帰りましたか?」 「はい、多分乾を迎えに行ったんだと思います」 そうですか、とだけ返して彼はまた何やら考え込んでしまった。 大石が忍耐強くそれを見守っていると、やがて大和は顎を弄っていた手を下ろし、腕を組んで大石を見た。 「知りたいのであれば手塚君を追いなさい」 「え?」 「ただしその答えが君の意に沿わないからと、理解そして許容できないからといって否定してはいけません。彼らとて、そうなりたかったわけではないのです。けれどそうすることでしか保てないでいるのです」 「?はあ」 先ほどまでは何とか理解できていた大和の言葉も、ここに到ってさっぱり分からなくなっていた。 けれど大和が大切な事を言っているのだということは何となく理解できた。 彼は相変わらず胡散臭い笑みを浮かべていたけれど、しかしサングラス越しのその目は、何処か憂いを帯びていたから。 「…はい」 だから、例え今は理解できなくともきっと答えが見つかった時にその言葉の意味も分かるのだろう。 すると大和は満足そうに笑って頷いた。 「さあ、行きなさい」 「ありがとうございました!」 大石は大和に一礼してその場を駆け出した。 「…さて」 その後姿が見えなくなると、大和は木陰に視線をやる。 「キミは行かないのですか?」 かさりと枯葉を踏み分けて太い幹の影から現れたのは不二だった。 「…僕は、貴方が嫌いです」 大和は一瞬きょとんとしたが、しかしすぐにいつもの笑みを浮かべて頷いた。 「そうでしょうね」 「……」 不二は数秒の間、じっと大和を睨む様に見ていたが、しかし不意に視線を逸らして歩き出した。 「…さようなら、大和先輩」 先ほどまでの険を含んだ視線など無かったかのようないつもどおりの柔和な笑みを浮かべ、不二は大和の傍らを過ぎていく。 その足は、校舎へと向かった大石とは別方向、校門へと向かっていた。 手塚が部室を後にして暫く立つが、昇降口を通った際に下足箱をチェックしたら乾も手塚もまだ残っているようだった。二人がいつもどの道順で降りてくるのかは知らなかったが、擦れ違わないことを祈りながら大石はその扉を目指す。 ああ、あそこだ。 大石は目的の扉を視界に入れると足早にそこへと近づいた。 がたん。 辿りついた扉の前に立ち、手をかけようとするのと同時に中から何かが倒れる音がして、大石は思わずその手を止めた。 ――違う乾、大和部長、のは、じゃない! 潜もってよく聞こえないが、確かに手塚の声だ。 この扉の向こうには確かに手塚と乾が居るようだった。 けれど聞こえてきた手塚の声が今まで聞いたことの無い、縋るようなその声に大石の手は扉に掛けられたまま動かすことが出来ないでいた。 何か、嫌な予感がする。 この扉は開けても良いのか?(開けたらきっと戻れなくなる)(戻れない?何処へ?)(いいや寧ろ何処へ行くというのか) しかし。 「!」 また何かが倒れる派手な音が聞こえてきて、反射的に大石は扉に掛けた手に力を込めた。 一瞬、自分の目が何を映しているのか理解できなかった。 机や椅子が倒れていた。音の正体はこれだろう。 そしてその中心には何の表情も無い乾が俯いていて。 その俯いた先には彼の長い脚があって。 その足がまるで昆虫をピンで標本にしようとせんばかりに、そう、倒れ込んで体を丸めた手塚の横腹を、乾が。 「手塚!!」 それはもう咄嗟という他無かった。 駆け寄って乾を突き飛ばすと、不意を付かれた乾は踏鞴を踏んで後ずさりそのまま身長のわりに軽い音を立てて座り込んだ。 「手塚!大丈夫か、手塚!」 「……大石…?」 大石に抱え起こされた手塚は何故ここに大石がいるのか理解できていないようだった。 どこか呆然と、けれど怪訝そうに大石を見上げていた手塚ははっとしたように視線を廻らせた。 「乾!」 呆けているとしか言いようの無い面持ちで座り込んだまま固まっている乾に手塚が駆け寄ろうと身を起こす。 「手塚!」 けれど大石に阻まれ、手塚は己を阻む者をきっと睨みつけた。 「離してくれ、大石」 「駄目だ、手塚。何があったんだ…!」 「大…」 「手塚…」 呟く様なその声に、二人は弾かれたようにその声の主を見た。 乾はゆっくりと身を乗り出し、片手を眼前に伸ばした。ゆらりとその手が何かを探すように揺れる。けれどその手には空気以外に触れるものは無い。 きゅ、と乾の眉根が不快げに寄せられる。 「手塚」 咄嗟に身を乗り出そうとした手塚を大石が反射的に引き止める。 しかしそれが見えるはずの無い乾は近づいてこない気配に小首を傾げ、辺りを探るように閉ざしたままの眼でぐるりと見回した。 天井を見上げた途端、ぴたりと動きが止まる。 彼の考え事をしているときの癖と同じ様に薄っすらと唇を開き、その手はだらりと床に垂れている。 「…は…」 ひゅ、とその反らされた喉が微かな音を立て。 途端、大石は己の鼓膜がびりびりと震えるのを感じた。 「…い、ぬい…?」 それが乾の笑い声だと気付くのに数秒の時間を要した。 がくんと仰け反っていた乾の体が前のめりに倒れ込み、けれどその哄笑は治まる事無く大石の鼓膜を震わせ続けている。乾、と傍らで声が上がり、今度こそ手塚は大石の手から逃れて乾の元に駆け寄った。 「乾!」 手塚が乾の肩を揺さぶるがしかし乾は一向に構わず哄笑を高らかにあげ続けている。 「乾、大丈夫だ俺はここにいる、乾、乾!っ大石!そこの鞄から薬のケースを探してくれ!あと水のボトルも頼む!」 「っあ、ああ!」 混乱したまま大石は言われたとおりに転がっている鞄の中を探る。乾の鞄なのだろう、点字用具やファイルが乱雑に入れられている。その中からまず水のボトルを取り出し、薬のケースを探す。 それがどのような外観の物か分からなかったが、とにかく探した。 その間にも乾の哄笑は次第に悲鳴じみていき、最早狂気に駆られた咆哮となりつつある。手塚が大石を呼ぶ。見つからないケース。焦りと乾の叫び声で脳内がパンクしそうだ。焦りばかりが先走って大石は自分が今何を探しているのかすら分からなくなってくる。 「!」 しかし、内ポケットに手を突っ込んだ瞬間、その混迷した脳内に光が差し込んだ。 「あった!あったぞ手塚!」 半透明のピルケース。そこには色とりどりの薬が分封されており、半分近くは既に空だった。 暴れる乾を何とか押し留めている手塚の元へそれらを持って行くと、偶然かそれとも大石が近づいたからなのか、途端に乾の叫びもあれほど我武者羅に暴れていた体もぴたりと止まった。 「すまない。…乾、薬だ。飲めるか…?」 乾は力無く俯いたまま反応を返さない。手塚はゆっくりと拘束していた腕を解くとその肩をそっと揺すった。 「乾…頼む、飲んでくれ」 「……」 のろりと乾が頭を持ち上げる。その眼はもう眼としての役割を果たしていないというのに、まるで手塚を見つめるように彼は手塚に顔を向けた。 「だったら、手塚が飲ませてよ。いつもみたいに」 乾の肩に置かれた手塚の手がぴくりと震えた。 手塚の視線が戸惑うように左右に揺れ、不意に大石を見た。 けれど手塚の視線に籠められた困惑の意味が分からない大石が目を丸くして見返すと、やがて視線は逸らされ、手塚は手にしたピルケースを見下ろした。 「……冗談だよ」 手塚が口を開こうとしたその時を狙ったかのように、乾が失笑交じりにそう呟いた。 「大石がいるのに、そんな事出来ないよね?手塚は。大丈夫、薬くらい自分で飲めるよ」 薬、くれるかな。そう差し出された手に、手塚は白地にほっと肩の力を抜いて乾の差し出した手の上にピルケースを置いた。 「ありがとう、手塚。ついでにもう一つ、お願いして良いかな」 「何だ、乾」 「大石を連れて今すぐここから出て行って欲しい」 安堵に緩んでいた手塚の表情が再度凍りついた。 「乾、それは…」 「もう潮時だ。大石に知られたし、祐大さんが来た。もう、二人だけの問題で済まなくなっているんだ」 祐大、と聞きなれない名だったがけれど、すぐにそれが大和の名前だと気付いて手塚は背後から首筋を掴まれたような嫌な気分になった。 中学時代、彼と乾が時折二人で居ることがあった。二人は雰囲気が似ていたし、気が合うのだろうと今の今まで思っていたのだが。 しかし乾が無意識に呼んだそれは呼びなれた響きを含んでおり、邪推するに十分だったし苛立たしい事にそれは事実なのだろう。 手塚は衝動のままに手を伸ばすと乾の手からピルケースを奪い取った。 「手塚?」 訝しむ声を無視してケースの蓋を開け、幾つもの薬をざらりと掌に落とす。それを落とさないようにしながらペットボトルの蓋を開けて薬と水を口に含んだ。 「てづ…っ…」 手塚は乾の胸倉を掴んで引き寄せるとその声を奪うようにして口づけた。 瞬間、おろおろしていた大石が硬直したが構わず手塚は含んだそれらを乾の口内に流し込み易いように首を傾けて交わりを深くする。 口付けた時点で意図を察したのか乾の唇は薄く開かれており、幾つもの小さな塊と温くなった水は重力に従って手塚から乾へと移っていった。 「……水」 喉が鳴ると同時に唇を離すと、移しきれなかった水が乾の唇の端から弧を描いて形のよい顎を伝い、床に滴り落ちる。 その囁きに近い声に手塚はミネラルウォーターのボトルを取り、乾の手に握らせてやった。やはり飲み下しきれなかったのだろう、乾はボトルの水を煽るともう一度喉を小さく鳴らした。 その上下する喉仏を美しいと思いながら見つめていると、ずいっと眼前にボトルを突きつけられた。 「もういいのか」 「うん。本当にやるとは思わなかった。計算外だ」 受け取ったボトルの蓋をして傍らに置く。 「乾」 そして改めて手塚は彼に告げた。 なぜ、こんなことになってしまったのか。 母はとても優しい人だった。父も俺を愛してくれた。 俺をとても理解してくれるパートナーも居た。 幸せだった。 俺の背後にはいつも俺の背と同じだけの高さを持つ扉が存在していたけれど、俺はそれを振り返る必要も無くただ無邪気に歩いてきた。 小さな箱庭が、いつまでも続くのだと信じていたのだ。 けれど。 ――うそだ!蓮二が俺をおいていくわけない!! 裏切られたのでもなく、愛想を吐かされたのでもなく、捨てられた。 そう、彼は己の未来に不必要になった所有物を捨てていったのだ。 捨てられたゴミは風化し、朽ちていくしかない。 ――蓮二、れんじ…!!! 泣き叫ぶ俺の背後で扉が開かれた。 俺は、振り返ってしまった。 鍵はなくしてしまった。閉じる事は出来ない。 もう、行くしかないのだ。 扉の中へ踏み込んだ瞬間、誰かの呼び声が聞こえた。 それからはもうただ暗闇の中を転げ落ちていくだけだった。 足掻いたとて虚しく、その指先は空を切るのみだ。 自分自身は確かにここにいるのに、常に落ちていく感覚が後ろ髪を引くように纏わりついて離れない。 吐き気がする。 いっそ全てを吐き出してしまえば楽になれるかもしれないのに、溢れるものは無くただ延々と不快な吐き気だけが続くのだ。 たまに意識が遠のく。 気付くと俺の足元で手塚が怪我をして蹲っている。 またか、と思う。 なんとなく、ぼんやりとはその時のことを覚えはいるのだが、その程度だった。 けれど。 芋虫のように丸くなってぴくりとも動かない手塚の手には何かが握られていた。 それを取り上げると、錆びて矮小な鍵だった。 見回すより早く、鍵穴を使うべき場所を見つけた。 蹲る手塚の体の下に扉があった。 こんな奈落の底でどこへ繋がっていると言うのか。 光の下へ還れることは無いだろう。 ならば、扉の存在意義は。 鍵穴は手塚の左手の中心にあった。 小さなそれはぽっかりと口を開けていた。 「手塚」 横たわる彼を呼ぶと、手塚はぱちりとその切れ長の双眸を見開いて視線だけでこちらを見上げてきた。 薄い唇が開く。 いぬい それは音ではなく、この鼓膜を震わせることは無かった。 けれど手塚の声は確かにこの無意味なものばかり詰まった脳内に響いた。 おまえがのぞむならなんでもしようなんでもかなえようことばがほしいのならなんどでもいおうおれはおまえをあいしてるおれはずっとおまえのそばにいるはなれたりなんかしないなんどだってちかうだからいぬいそんなざんこくなことをいわないでくれたのむいぬいおれをそばにおいてくれ いつ聞いたのだろう。手塚の掌の鍵穴をぼんやりと見下ろしながら考える。 ああそうだ、あの日、資料室で、祐大さんが来て。もう潮時だなって。 だから、手塚が…ああそうだ、大石もいた。 あれからどうしたんだっけ? ぼんやりとしてる。よく覚えてない。 最近は記憶が飛ぶことは無かったのだけれど。 ああでも。 手にした鍵は、握り締めたら粉々になってしまいそうなほど錆び付いている。 この手にある錆びた鍵。 手塚の掌にある小さな鍵穴。 手放すのなら、これが最後の機会だ。 その扉を開けてしまったらもう、帰ることはできない。 俺も、手塚も。 コンコン。 「………」 ノックの音にふと意識が浮上する。 手の中の鍵を見下ろすとそこに錆び付いた鍵は無く、何錠もの薬が手の動きにあわせてころころと転がっているだけだった。 貞治、と扉の向こうから声がする。 「今、行くよ。父さん」 掌のそれらを口内に放り込み、机の上に置かれたグラスの水と共に飲み下した。 立ち上がって窓を見る。外は虚しいほどに晴天だ。 さあ、行こう。 これで、最後だ。 乾は父親の車に送られて手塚の家へとやってきた。玄関口まで父親にエスコートしてもらい、そこからは母親の声に呼ばれて降りてきた手塚の手によって彼の部屋へと向かった。 本来ならここで手塚の手を借りる事も彼の劣等感を煽るものであったが、しかしこればかりはどうしようもないと自らに言い聞かせてその手を握った。 「乾」 部屋に入ると乾を迎えた聞きなれた声に、やあ大石、とそこにいるだろう方向へと向かって笑いかける。待たせたね、と言えばいいや、と硬い声が応えとなった。 乾が座ると同時に彩菜が冷茶を持って入ってきた。乾くん、右手側に置いておくからね、と気遣う声にありがとうございます、と彼は笑った。 どうしてだろう。彩菜や大石の気遣う声にはこんなに素直に受け止められるのに、何故手塚だけ苛立つのだろう。 簡単だ。その答えを回転の速い乾の脳は瞬時に引き出した。 そうだった、俺は手塚を自分より下に見ているのだった。 基本的に乾は自身を劣った存在だと認識している。それは仕方の無いことであると聞き分けているつもりだ。 けれど手塚は違う。当たり前のものを当たり前に享受し、乾より多くのものを手にしている。少なくとも、乾はそう思っている。 それなのに手塚は乾に依存している。乾に言わせれば、自分なんかに、依存している。 自分なんかに依存するような人間は、自分とはまた違った欠陥を持っているに違いない。乾はそう無意識に結論付けていたのだろう。喩えそれが自分自身の招いたものであったとしても。 「乾?」 「……ああ、すまない、ちょっと考え事をしていた」 大石の声にはっとする。そうだ、今はそんな事を考えている場合ではない。 「……それで、これからの事だけれど……」 大石の言いづらそうな声音にふと苦笑する。手塚からどこまで聞いたのだろうか、と思っていると聞かずとも彼は「手塚から粗方は聞いたけれど」と教えてくれた。 手塚がどう説明したのかは知らないが、こちらとしても説明のし様が無いので勝手に納得してくれると有り難い。 「俺は、二人がこのまま一緒にいるのはよくないことだと思う」 相変わらず、大石は乾の想定通りの動きをしてくれる。丁度いい。 「……俺も、そう思っていたところだ」 乾、と手塚が縋るような声で呼ぶ。けれどその声に薄い笑みすら刷いて乾は言った。 「俺は多分、手塚を傷つけることしかできない。だったらもう、一緒にいないほうがいい」 幸いにも乾と手塚は特進科棟と普通科棟に分かれていて部活ももう違う。逢おうとしなければ逢わずに済む。 「嫌だっ」 そうだな、と言う大石の言葉を遮ったのは手塚だった。手塚は乾の腕を掴むと文字通り縋った。 「嫌だ乾、俺を捨てるのか、俺さえ居ればそれでいいと言ったじゃないか、そのために全てを捨てろと言ったのもお前だろう、俺は言われたとおりに留学も取り止めた、テニス部を止めろと言うなら辞める、お前を支えるためだけに生きる、だから乾、俺を捨てないでくれ……!」 「手塚、落ち着け!」 大石が縋る手塚を引き剥がす。けれどそれも振り払って手塚は乾に縋りつく。 「お前を失ったら生きていけない、お前がそうしたんじゃないか、乾っ」 「手塚、落ち着いて」 しがみ付く手塚をそっと引き剥がし、その頬に手を添える。 「そうだね、手塚の言うとおりだ。全部、俺が悪い」 「悪いとか悪くないとか、そんな事が聞きたいんじゃない……!」 「うん。分かってる。ねえ、手塚。三年だけ、いや、もう二年半だね。お互い、自由になろう」 「じ、ゆう?」 「そう、卒業まで。それまでは普通の友達に戻ろう。それで、卒業式の日にもう一度聞くよ。手塚がどうしたいかを」 大石、と乾は手塚の頬から手を放して彼の方を向く。 「俺たちはきっと傍にいすぎたんだ。だから悲劇を生んだ。でも、一度離れてゆっくり考えれば手塚もわかるはずだよ」 「……ああ、きっとそうだな。うん、そうだ」 頷いているだろう大石ににっこりと笑いかけながら、乾は声を上げて笑い出したい衝動に駆られた。 悲劇?こんなものは悲劇なんてモンじゃない。道化と道化が踊るただの喜劇だ。 大石はきっと二人が離れれば手塚も眼が覚めて全うな道を歩んでいくと思っているのだろう。それもいい。けれどきっと結末はそんな簡単なものじゃない。手塚が時間を置いたくらいで乾の元を離れられるほどやわな躾け方をしてきた覚えは無い。真綿で首を絞めるようにじわじわと手塚という人間を殺してきたのだ。あとはきゅっと締めるだけ。 今更足掻いた所で首に巻きついた真綿は解けやしないし、手塚ももうその真綿を取り除こうとはしないだろう。 ただ最後の一捻りの瞬間を待ち望んで一時の眠りに就くだけだ。 否、眠りに就くなんて事はせず、その時を痛みと共に待ち望むのかもしれない。手塚は痛めつけられる事が好きだから。乾への想いに日々身を貫かれながら茨で敷き詰められた道を素足で歩くのだろう。 「じゃあね、手塚」 その時まで、とろとろと鍋に煮込まれるようにして俺への執着を煮詰めていけば良いよ。 卒業式まではあっという間だった。少なくとも、乾にはそう感じられた。 あの日以来、手塚とは碌に顔を合わせてはいない。それもそうだ。科も違えば棟も違い、部活も違う。偶然ばったりと出会うことなんてそうそう無かったし、会う気も無かった。 手塚も手塚で、会えば辛いだけだと思っているのか友達というカテゴリであっても会いに来ることは無かったし、二人が顔を合わせるのは専ら中学時代のテニス部での集まりだけだった。 そして卒業式を終えて、乾は手塚に声を掛けられた。来たな、と思った。手塚から来なければそれはもうそれで良かった。手塚が乾の呪縛を破り、一人で立つのならばそれも良いと。 けれど手塚は乾を呼び止めた。二人きりで話がしたい、というのでマンションの自室に招き入れた。 乾の両親は乾と手塚をマンションの前に下ろすと二人で何処かへと出かけてしまった。二人に気を使ったのかただ二人で出掛けたいだけなのかはわからなかったが、恐らく両方だろう。 「それで、話って?」 最後に訪れた時より少しだけ模様替えのされた部屋で乾はそう切り出した。 「……俺はまだ、お前にとって必要だろうか」 「……必要だって言ったら、この手を取ってくれる?」 すいっと手塚へと向かって手を差し出すと、ぐいっとその手を引かれて抱きしめられた。 「当たり前だ……!この二年半、俺がどんな思いでいたと……!」 乾、乾と掻き抱いてくる腕を受け入れるようにその背に腕を回し、乾もまた手塚を抱きしめた。 「馬鹿だなあ、手塚は。折角の最後のチャンスだったのに」 唇の端を歪めてそう呟けば、馬鹿はお前だ、と返された。 「俺をそうしたのは誰だと思っている」 「俺だね、そういえば」 「責任をとって最後まで面倒見てもらうぞ」 「俺が面倒見るの?手塚が俺の面倒見てくれるんじゃないの」 「勿論お前の面倒は俺が見る。だが……」 「だが?」 「……お前も構ってくれないと、嫌だ」 「ははっ!」 乾は声を上げて笑った。ああ、確かにこれは喜劇だ。悲劇だと思い込んで自惚れていた自分の馬鹿馬鹿しい喜劇。 手塚は相変わらず乾の理想を具現した存在だったけれど、人形は始めから人間だったのだ。感情のある、人だったのだ。感情のあるものに心を寄せられて、この自分が心を寄せないはずが無い。 ああ、なんだ。乾は手塚を抱きしめて笑う。 「笑うな!」 「だって!」 手塚って、こんなに愛しい生物だったんだな。 創り上げることに夢中で、その本質を見失っていたのかもしれない。人とは、欠陥があるからこそ愛しいのだと。 「やっぱり一度離れたのは正解だったね」 その笑顔を見て、手塚は瞠目した後泣きそうに顔を歪めて笑った。 「ああ、この二年半で思い知らされた。俺はお前を愛している。もう、二度と離さない」 そうしてその胸元に顔を埋め、ぎゅっと目を閉じる。 「うん、ずっと傍にいて、手塚。俺だけの手塚でいて」 耳に響く甘い声に、ぞくりとその背を振るわせた。 乾は真っ暗闇の中で立っていた。 手の中には錆び付いた鍵。 足元には横たわる手塚。 その左の掌には鍵穴。 乾はその鍵をぺきりと二つに折り曲げて放り投げた。 かしゃんと軽い音がする。 それには見向きもしないで乾は横たわる手塚を呼んだ。 「起きて、手塚」 その声に手塚が目を覚まし、起き上がる。 良かったのか、と問う声にいいんだ、と乾は笑う。 「俺が開けるべき扉はその扉じゃない」 どこにあるかはわからないけれど、一緒に探してくれる? そう問えば、手塚は微笑んで利き手を差し出した。 その手の平にはもう、鍵穴は無かった。 「さあ、行こう」 二人は手に手を取り、暗闇の中を歩き始めた。 その手が離れる事は、もう、ない。 (完) *** 終わっ……た……これ書き始めたの2001年だぜ……じゅうねん。ばたり。 始めは手塚EDも柳EDの様に救いようの無い話になる予定でした。扉を開けて二人で奈落の底へまっしぐら、みたいな。 二人は卒業してから一緒に暮らし始めるんだけど乾のDVは相変わらずで手塚はどんどんぼろぼろになってっちゃって。見かねた大石や家族が今度こそ二人を引き離そうとするんだけど二人で逃避行しちゃって行方不明になっちゃって。 そんで数年後にニュースで手塚が乾のDVによって死んだ事を知るんだよ。そんな話の予定でした。が、年月が経って私も丸くなったのか、とりあえず強引にぎゅんとカーブを切ってハピエンにしてみました。 あっちこっち浮気しまくって頓挫しまくって十年かかりましたが漸く完結を迎えることが出来ました。 当初考えていた番外編もまだまだ何とか記憶に残っているのでそちらもいつか形にできたらいいなと思います。 それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。 |