花咲く丘に涙して2
〜我がひとに与ふる哀歌〜
後に悔いるは、気付かぬ想い也。
「大佐」
声に振り向くと、グレンが神妙な面持ちで自分を見ていた。
「少し、良いですか?」
グレンの言葉に蛇骨は辺りを軽く見回す。船内はざわめいていたが、幸いこの通路に人は殆どいなかった。
「何だね。言ってみなさい」
「はい。三年前、自分の兄は亡者に襲われて亡くなったのだと聞きました。大佐は、それ以外に何かご存知ありませんか」
グレンの問いかけに蛇骨の答えは否、だった。
「居合わせたのはカーシュのみ。半ば自失状態となったカーシュを連れ戻したヤマネコももうおらぬ。カーシュがそう言ったのなら……」
ふと蛇骨は言葉を区切らせる。
違う。
亡者の島での出来事を知らせて来たのはカーシュではなくヤマネコだった。カーシュはヤマネコの傍らに控え、蛇骨が彼に「確かか」と尋ねた際、
「相違、御座いません」
そう答えたのみである。
「大佐、カーシュはヤマネコに脅されていたのだと思います」
「ふむ…しかしカーシュが…」
あのカーシュが、寄りによってヤマネコの言いなりになるなど余程の事だろう。
「以前、カーシュにアルニ村周辺調査やセルジュの捕獲命令を出したのは大佐ですか」
覚えの無いそれに蛇骨は微かに目を見開く。
「いや、初耳だ」
自分に忠実だったカーシュが勝手な単独行動をするとは思えない。すると、やはり彼は何らかの理由からヤマネコに従っていたのか。
「カーシュは何と」
蛇骨の問いかけにグレンは視線を落し、唇を噛む。
「そうか」
蛇骨は暫し考え込むと「わかった」と頷いた。
「わしからも一つ聞いてみるとしよう」
「ありがとうございます!」
蛇骨の言葉にグレンは礼を述べると敬礼をし、その場を立ち去った。
「さて……」
後へ引き伸ばしても仕方ない。
蛇骨はカーシュを探し、船内を進んだ。
(あれは……)
階段を上がり、船首へ向かった蛇骨はそこに探していた姿を認めた。
だが、近付こうとした時、異変に気づいた。
彼は壁に凭れ掛かり、座り込んでいた。その周りには水溜まりができ、彼の全身も濡れそぼっている。それは、まるで頭からバケツの水を浴びせられたような、そんな光景だった。
彼は俯き、濡れた髪をかき上げると何か呟いた。すると、その眼から一粒の涙が零れ落ちた。それに続くように涙は留めなく溢れ、頬を伝う。
「………」
息を殺し、顔を両の手で覆い隠し彼は泣いていた。
いつもの気丈な彼は無く、まるで親から逸れてしまった幼い子供の様だった。
蛇骨は、その小さく鳴咽を上げるカーシュの元へ歩み寄る。
「…カーシュ」
そっと声をかけると、彼はびくりと体を震わせる。普段ならもっと早く気配で気付いたろうに、今の彼にはその余裕すらない様だった。
カーシュは慌てて袖で涙を拭うと顔を上げる。
「大佐?如何なされました」
「うむ…」
立ち上ったカーシュの姿に蛇骨は僅かに目を見開いた。
先程まであれだけカーシュを濡らしていた水は既に無く、足元にあった筈の水溜まりも既に跡形も無い。彼の目に残る微かな涙さえ無ければ、先程の光景は幻ではないかと思ってしまう程だった。
「……三年前の亡者の島での事だが」
その言葉にカーシュの表情が強張る。
「ダリオは亡者に襲われ、命を落した。そう聞き、報告書も受け取った。…カーシュ、今一度問う。その報告に相違無いか」
蛇骨の問いかけに完全にカーシュは色を無くしている。
やはり、グレンの言った通りだったのだ。
だが、これでカーシュが「相違無い」と言ってしまえばそれまでだ。カーシュがそこまで隠し通そうとする事を無理に聞き出すのは困難を極めるだろう。
「……ダリオは…」
絞り出すような、苦しげな声。
「…ダリオは、亡者に殺されたのでは、ありません……」
カーシュは辛そうに顔を顰める。
「ですが…話すわけには、いかないんです」
「何がお前をそこまで頑なにするのだ」
カーシュはただ視線を伏せると、一礼して蛇骨の傍らを通り過ぎる。
「グレンから聞いた」
背後からかかった蛇骨の言葉に縫いとめられたように、カーシュは足を止めた。蛇骨は振り返るとカーシュの背に語り掛ける。
「お前が、ヤマネコに脅されていたのだと」
「……確かに、それは事実です」
ですが、と体ごと振り返ったカーシュの表情に蛇骨は息を飲んだ。
「それを望んだのは、俺自身です」
カーシュは泣いていた。
その両の眼から涙は溢れていなかったが、哀しみの笑みを浮かべた彼は泣いているのだと蛇骨は感じた。
「……失礼します」
カーシュは今一度敬礼をすると、今度こそ船内へと戻っていった。
蛇骨も、今度はそれを止めようとはしなかった。
もしかしたら、と思っていた。
まるで、全身が心臓になったような気分だった
もう一つの世界で、俺は死んでいた。
記憶よりも少し痩せた顔
見つからない遺体。
棚に置かれた大きな鎧
もしかしたらと…願っていた。
変わらぬ穏やかな微笑み
赫い悪夢が、蘇る。
「どうかしました?」
声をかけられ、はっとして苦笑する。
「少し、考え事をしていたんだ」
テーブルを挟んだ向かいに腰掛けた女は「あら」と僅かに小首を傾げた。
「そうだったの。じっと見てくるものだから私の顔に何かついているのかと思ったわ」
その応えに女はくすりと笑った。その笑い方や口調は、時折何かを思い出させる。
「あら?」
不意に扉を叩かれ、女は立ち上がる。
「先日の方かしら」
女が扉を開けると一人の青年が姿を現わした。
「あら、やっぱり貴方達だったのね」
「ども。ちょっとそいつに用がありまして」
軽く会釈をした弾みで彼の髪が肩から滑り落ちる。
ざんばらだが、美しい藤色をした長い髪。
強い意志を宿した、紅く鋭い眼光。
太陽の光を吸収した肌。
その全てが自分を捕らえ、何故だかとても懐かしい気がしてならない。
じっと何かを訴えるように向けられていた視線が逸らされ、彼は一歩横へ退き後ろに控えているらしい誰かを呼んだ。
「リデルお嬢様」
彼の背後から、線の細い女性が赤いバンダナを付けた少年と共に室内へと入って来た。
「ダリオ!!」
その女は泣きそうな笑顔を浮かべ、私の前に立つ。
「ダリオ…!ああダリオ…生きていたのですね…!!」
ああ、似ている。
戸口で私たちをそっと見守っている彼女に。
だから、気になっていたのか。
ならば、彼は?
「貴方たちは一体………」
何故、そんな哀しそうな眼をするんだ。
「そうだわ、ダリオ、これを見てちょうだい!」
女の声にはっとして彼女の取り出した物へ視線を移す。
細かな細工の施されたペンダント。一見しただけでも価値のある物だと分かる。
「これは……」
そうだ、思い出した。
母が、いつも身につけていた……。
そして今は……
私の、罪の証。
中途半端な優しさで彼女を受け入れ、彼を傷付けてしまった。
そして……
「リデル……に、逃げろ…」
ざわりと体の底から赤暗い靄が沸き上がってくるような感覚。
耐え切れず、固く閉ざした瞼の裏が真っ赤に染まる。
カーシュ、カーシュ……!!
汚れから何よりも遠く、強くしなやかな美獣……。
愛しい、俺だけの……
ダカラ、汚シタ。
お前の目の前でリデルを斬ったらお前はどんな顔をするのだろう。
その眼に怒りと哀しみを滾らせ、俺に向かってくるのだろうか。
亡者の島の時の様に。
その緋の眼を見つめながら、その胸を貫く事ができたなら、どれほどの快楽を齎すのだろう。
剣を取れ。
お前の獲物はそこにいる。
さぁ、狩りの時間だ。
こうするしか、無いのか。
剣を交え、生命を削りあう事でしか、終わりを迎えられないのか。
なぁお前、俺の事、憎かったのか?
年下の癖に何やっても俺より出来が良くてよ。
昔っから、お前が羨ましかった。
………妬ましかった。
アクスをダリオに向けて振り下ろすがそれは彼の件に防がれ、幾つもの火花を散らした。
「なあ、ダリオ…俺は、お前が……嫉ましかったよ」
それでも。
グランドリオンの刀身から闇が吹き出し、カーシュのアクスを絡め取る。
「…それでも、お前を愛していた」
ぴくりとダリオの動きが止まり、カーシュは闇が絡みついたアクスを地へ落す。カーシュはその両の手をダリオの頬に添え、闇に揺れる彼の瞳をじっと見るめる。
「お前も、同じだったんだな」
いつも、後で気付く。
お互いが、同じ思いだったのだと。
いつも、後で知る。
もう、戻れはしない頃になって漸く。
ダリオは無言でグランドリオンを変えると、その切っ先をカーシュの背に向けて振り下ろした。
「カーシュ!!」
セルジュの叫び声が辺りに響く。
あの時、怒りに任せてお前を斬った罪と、いつかお前がリデルと結婚するとわかっていながらお前を拒まなかった罰。
だから……
「だからと言って、斬られても良いなんて…思わないでくれ……」
グランドリオンがダリオの手を離れ、重い音を立てて地に突き刺さった。
「……ダリオ……」
添えた両手をそっと外され、きつく抱きしめられる。
「長い間、辛い思いをさせてすまなかった……」
「けっ…何言ってやがる…」
懐かしい腕の中、カーシュは小さく笑った。
テルミナで宿をとったカーシュたちの元へダリオがやって来たのは夜も更けてからだった。話しがあると言うダリオを、カーシュは既に人気の無いロビーへと誘った。
「リデルとの婚約を破棄して来た」
「へえ…」
気の無い返答にダリオは微かに苦笑する。婚約の話になると昔から彼はこうだった。
そして、それが精一杯の彼なりの虚勢だという事も知っていた。
「全て、話して来たよ」
「全てって……俺との関係もか?」
「ああ。話して来た」
驚きの表情のカーシュとは打って変わってダリオの表情は穏やかだった。
「お前が負い目を感じる必要はない。今度こそ、俺の意志で選んだ事だ」
なあ、カーシュ。ダリオは照れ臭そうに笑った。
「一緒に暮らさないか」
ダリオの言葉に、カーシュは目を見開き、彼を食い入るように見詰める。
「今でも、俺はお前を愛している」
「………」
呆然としたようにダリオを見つめていたカーシュは、不意に少し困ったような笑みを浮かべた。
「…さんきゅ」
その応えの意味を察したダリオは苦笑した。
「そうか…。……何となく、わかってはいたよ」
「……なあ、ダリオ…三年だ。お前を斬って、それをネタにヤマネコの野郎に隷従し続けて……」
一日が、長く感じていた。
「今思えば、たったの三年だったんだ……」
自らの両手を見つめ、顔を覆う。
「何でっ…何でもっと早く……!!」
気付く事ができたなら。
何か変わっただろうか。
否。
変わるわけが無い。
気付いたとて、それを認める事も、告げる事も無かっただろう。
何より、告げてしまえば彼は自分に飽きてしまっただろう。
初めから、この結末しか有り得なかったのだ。
虐げ、それに反発する事でしか、お互いを繋ぎ止めておく術を持たなかったのだから。
「悪い…お前の元に戻る事はできねえ……」
顔を上げ、そう告げると彼は気にするなと笑った。
「何と無く、感じていたんだ。お前にとって、あの頃は既に遠い過去でしかないのだと」
「俺は…!」
言葉を発しようとするカーシュの唇にそっと人差し指を当て、続く言葉を止める。
「カーシュ、例え世界が違えど、お前は掛け替えの無い親友だ」
お前に斬られた事、そのお陰でグランドリオンの暴走を止めてくれたのだと感謝こそすれ恨んだ事など無い。
ダリオはそっとカーシュの唇から指を離すと、ふっと微笑してその場を立ち去っていった。
「ダリオ……さんきゅ」
親友、と敢えて言った彼の優しさに、カーシュは感謝の想いで満たされた。
+−+◇+−+
美獣発言を何度消してやろうと思った事か。が、これを考えてるのがダリ兄さんだと思うと妙に納得してしまい、このまま残留。(爆)
ああ結局、特にこれと言った手直しや加筆はしませんでした・・・そしてUPする事をすっぱり忘れていた私。
(2003/09/19/高槻桂)