花咲く丘に涙して2
 〜我がひとに与ふる哀歌〜

 

せめて聴き給う。此れ、我がひとに与ふる哀歌也。


 テルミナの喧騒を僅かに外れた海辺の岩に、一人の少年が座っていた。まだ五、六歳だろうその少年は、その小さな足をぶらぶらとさせながら水平線を眺めている。
 今日は父が帰ってくる。
 父はこのエルニドを守る龍騎士団の四天王だ。大抵は蛇骨館の私室に泊まり込み、十日に一度の割合でしか家には帰って来ない。
 幼心に仕方ないのだと思っていても、寂しさを拭えるわけも無く。
 それでも、自分の父を誇らしく思っている。
「よいしょっと」
 少年は逸る気持ちを抱きながら座っていた岩の上から飛び降りる。
「こんにちは」
「え?」
 不意に声をかけられ、自分一人だと思っていた少年はきょとんとして声をかけて来た青年を見上げる。
「君はお母さんに良く似ているね。髪の色はお父さん譲りだけれど」
「おじさん、誰?」
 おじさんと言われてしまった青年は「酷いなあ」と苦笑した。
「僕はセルジュ。これでもまだ二十六歳なんだよ?」
「せるじゅ?」
 小首を傾げてセルジュと名乗った青年を見上げると、彼はにこっと笑って少年に視線を合わせるように膝を折る。
「そう。君は?」
「ぼくはね、」
 名を言い掛けた少年が突然きょろきょろしだした。
「どうしたの?」
「お父さんの声がした!」
 少年は街へ続く階段に父の姿を認めるや否や、満面の笑みで駆け出した。
「お父さん!」
 セルジュは駆け出した少年の後をゆったりと追いながらその父親を見る。
 記憶より幾分か更けた彼の眼に、自分はどう写っているのだろう。
「ヨグ!」
 彼が階段を降りきった所でヨグと呼ばれた少年は彼に追いつき、その腕に跳び付いた。
「おかえりお父さん!!」
「おお!イイコにしてたか」
 男は片腕一本で軽々とヨグを抱き上げると、息子に付いて来た青年に視線を向ける。
「久し振り、カーシュ」
 にこりと笑ってそういう青年にカーシュは微かに片眉を上げる。
「悪ぃ、どっかで会った事あったか?」
「うーん、どうだろ」
「は?」
 赤いバンダナを頭に巻いた青年は人の良さそうな笑みを浮かべるばかりで、カーシュは首を傾げる。
「あのね、セルジュってゆーんだって」
「セルジュ?……やっぱ知らねえな」
 記憶を浚ってもやはり目の前の青年を自分は知らない。
「あ!お母さん!」
 腕に座る子供がカーシュの背後へ手を振る。カーシュがそちらを振り向くと、階段をゆっくりと降りてくる妻の姿があった。
「なんだ、お前も来たのか」
 カーシュがそう声をかけると、階段を降りきった女は高く結い上げた金の髪をさらりと揺らして微笑んだ。
「妻を放っぽって息子を迎えに行く旦那に文句の一つでも言ってやろうかと思って。「一緒に行くか」ぐらい言いなさいよ。ねえ?ヨグ」
 そう言い、手を伸ばしてくる息子の少し霞んだ藤色の髪を撫でてやる。
「それより、こちらの方は?」
「久し振り、キッド」
 青年の言葉に、今まで穏やかな笑みを浮かべていたキッドは、はっとしたように目を見張った。
「オマエ…覚えて、いるのか…?」
 妻が出会った頃の口調に戻った事に驚き、カーシュは僅かに目を見開く。この青年とは古い友人なのだろうか。
「うん。本当は、もうずっと前から戻ってたんだ」
「お母さんのお友達?」
 割って入った甲高い声にキッドははっとすると、途惑ったようにカーシュを見上げる。
「先、戻ってっから」
「ごめんなさい…」
「気にすんな」
 カーシュはそう言うとヨグを抱えたまま階段を登っていく。
「あれ?お父さん、お母さんは一緒に帰らないの?」
「お母さんは用事があるからお父さんと一緒に帰ろうな」
「えー?」
「えーってこたねえだろ〜」
 他愛の無い会話が遠ざかり、二人が見えなくなるとセルジュが口を開いた。
「やっぱり、カーシュは覚えて無いんだね」
 セルジュの言葉にキッドは小さく頷く。
「…遠くからカーシュと一緒にいるお前を見つけて、すっげえ驚いた」
 大丈夫だと、覚えていないからと言い聞かせ、早まる鼓動を抑えて三人の元へ向かった。偶然だと、そう広くはないこの島で偶然出会っただけなのだと。
 なのに、セルジュは覚えていた。
「キッドってば、随分淑やかになっちゃっててびっくりしたよ。みんなと戦っていたあの頃のキッドと全然印象が違うんだもん」
「でも、どうして記憶が……」
 蘇る筈が無い。彼はオパーサの浜で倒れたその瞬間まで溯ったのだ。
 そうして、多くの仲間たちと戦った日々は存在しなくなったのだから。
 存在しない記憶が蘇るなど、有り得ない。
「違うよ、キッド。僕らは帰って来たんだ」
 ヤマネコを、フェイトを倒し、龍神を倒した。そして、時を喰らうものも解き放った。
「そして一つに戻ったこの世界に「帰って来た」んだよ。溯ったんじゃないんだ。ただぐるっと遠回りをして、また同じ道に出ただけであの日々は喪われていない。僕らの中に、ちゃんと残ってる。実際、僕があの浜で目を覚ました時、僕は覚えていた」

――星の塔?フェイト?何を言ってるの?

 あの時は、朦げな断片的な記憶だけだった。
 けれど、その断片を頼りに記憶を溯る。

 ああ、そうだ。僕は帰って来たのだ。
 遠い、遠い時間の旅から。
 もう、同じ未来は紡げないけれど。
 その未来への道は失われてしまったけれど、僕らの中にちゃんと残っている。

「八年前、僕に会いに来てくれたよね」
「ああ…」
 会いに行く、と約束した。
 全てが終わってから一年。キッドはとうにセルジュを見つけていた。
 記憶を持ったままのキッドにとって彼を探し出すのは容易だったが、会いに行く決心がつくまでに時間がかかってしまったのを今でもよく覚えている。
「うん。あの時は、まだ殆ど思い出していなかったんだけどね」
 それでも、わかった。
 どうしても思い出せない記憶に苛立った時はいつもオパーサの浜へ行っていた自分。
 トカゲ岩を抜け、浜へ出る。
 何故か視線を感じて振り返った。

 そこに、少女はいた。

 切り立った岩の上。金の髪の少女が自分を見ていた。

 誰。

 何故かとても懐かしい気がしてつい微笑んでしまった。
 すると少女も笑い返し、桜色のワンピースの裾を翻して去っていった。
「その時に思い出したんだ」

 ああ、キッドだ。

 誰より僕の深い所にいる君。
 それは恋ではないけれど。


「今、幸せ?」
 セルジュの問いに、キッドはふわりと微笑んだ。
「ああ」
 よかった。セルジュもそう微笑む。


 ああ、セルジュだ。

 誰よりもオレの深い所にいたオマエ。
 それは恋ではなかったけれど。


「そういえば、ヨグって変わった名前だね。誰が考えたの?」
「ん、カーシュ」
 名前、どうする?
 そう聞いた時、カーシュが何気なくぽつりとその名を呟いた。カーシュ自身は慌てて「今の無し!」と否定したが、あれこれ候補を出した結果、結局ヨグになってしまったのだ。
「ヨグってな、神様の名前なんだぜ」
「神様?」
「そう。あんま良い神様じゃねえけどな」
 その応えにセルジュは首を傾げる。
「良い神様じゃないならなんでその名前にしたの?」
 その問いにキッドは苦笑した。
「何か、昔ゾアが話してたのを覚えてたんだとよ。この世界の外にいる神様だと」
「それって……」
 セルジュの言葉にキッドは小さく頷く。
「何と無くフェイト……ヤマネコの野郎みてえだろ」
 外部との接触を完全に断った神の庭に存在した「フェイト」。そしてクロノポリス。その進化した技術、構造を目の当たりにした時はまるで異世界にいるようだった。
 その最奥で彼は運命の書を使い、人々に歴史を歩ませて来た。
「でも、カーシュは……」
「ああ、何も覚えちゃいねえ。でも、奥底にはきっと何か引っ掛かってんだろ」
 だから、もしかしたら、と思っていた。
 だが、ある筈の無い日々の記憶が戻るわけが無いと信じていた。
「でも、現にこうしてお前は記憶を取り戻してここにいる」
 ならば、彼が記憶を取り戻す可能性も皆無ではない。
 セルジュの言う通り、自分たちは時間を溯ったのではなく、「帰って来た」のだとしたら。
「なあ、セルジュ……」
 キッドはセルジュから視線を外し、青い海へと向ける。
 自分たちにとって、あの日々は辛い事もあったけれど、良き日々だった。
 だが、彼にとってはどうなのだろう。
「もし、カーシュが記憶を取り戻したら………」


 息子に部屋で大人しくしているよう言いつけると、カーシュは明日の騎士達の訓練メニュー作成のために紙とペンを引っ張り出した。
「ん?」
 見るとペンのインクが無い。紙の余白に試し書きをすると、案の定、薄らとした線が走るだけだった。
「チッ…確かアイツの所にあったよな」
 小さくしたうちをして腰を据えたばかりの椅子から立ち上がり、自室を出た。
 いつもの様にキッドの部屋の前でノックしそうになったカーシュは、そう言えばまだ彼女が帰ってない事を思い出す。
 カーシュはノブを回すと、灯かりが無くても十分明るいその部屋へ入り、机の引き出しを開けた。
「……ん?」
 適当に数本見繕い、引き出しを閉めたカーシュはふと机の上に置かれた本に視線を写す。
 その本は開け放たれた窓からの風に煽られ、ぱらぱらとページを捲っている。カーシュは窓を閉めるとその本に目をやった。
「?」

 それは、何かの物語が綴られている様だった。

『…月…日
  私とセルジュ、アルフは切り立った崖を登り、蛇骨館へ侵入した。』

「何だ……?」
 セルジュとは先程の青年の事だろうか。
 表紙を見ると「サラ・キッド・ジール」とある。とすればこれはキッドが自ら書き綴ったものだろう。
 日記のような物語のようなそれはどのページを捲っても文字がびっしりと書き込んである。
 カーシュはぱらぱらとページを進め、ある一点でびくりと動きを止めた。
『……隠し部屋から出て来た蛇骨大佐とヤマネコは……』
 ヤマネコ。
 誰だ。
 誰。
 何故、こんなにも胸騒ぎが湧き起こる。
『……ヤマネコはカーシュを使い、セルジュを捕らえるよう……』
『…月…日
  ……私たちが古龍の砦の祭壇へ辿り着いた時、既に蛇骨大佐とヤマネコは……』
「……何なんだ、これは……誰だ…ヤマネコって…」
 カーシュは延々と綴られたそれをバラバラと捲りながら先へ進んでいく。
 何故か、これが夢物語であると思えなかった。
 どうして、自分はこの情景を知っているのだろう。

――おまえ、ヤマネコ様が怖いんだろ。

 蘇る、無邪気な少女の声。
 それは、誰だったのか。

――何でっ…何でもっと早く……!!

 痛みを抑えるような自分の声。

――理由が必要か。

 素っ気無く返される声。

「あ……」
 手から本が滑り落ちる。だが、それすら気付かないように本を持っていた両手を食い入るように見る。

――お前の主は誰だ?

 微かに嘲りを含んだ、低い声。


――カーシュ


「カーシュ」
「!!」
 弾かれたように振り返ると、戸口にはキッドが立っていた。
「キッド……」
「ただいま」
 何故か珍しいものを見るようなカーシュの視線にいぶかしみながら彼に近寄った。
「またインクが無くなったのか?あら、それ、私のよ?」
 カーシュの足元に落ちた本に視線をやったキッドは少し呆れたように肩を竦め、さり気無くその本を拾い上げようとする。
「カーシュ?」
 だが、カーシュは本を拾おうとするキッドの手を掴み、それを阻んだ。
「勝手に見た事は謝る。ただ、一つだけ答えろ」
 彼は本を拾い上げると、キッドをじっと見据える。
「なんだ?」
「どうして小僧じゃなく俺を選んだ」
 小僧。
 かつて共に戦っていたあの時間、カーシュはセルジュをそう呼んでいた。
「お前…記憶が……?」
「……答えろ、キッド」
 途惑うわけでもなく、ただ静かにカーシュはキッドを見つめる。
「……似てたからだ」
「似ていた?」
「オレは家族を、お前はお前自身をヤマネコに奪われた」
 お互いが、ヤマネコに虐げられた存在だったから。

 初めは同情。

――お前、四天王のカーシュだろ。オレ?オレはラジカルドリーマーズのキッド様だ。覚えときな。

 記憶を無くし何も覚えていない彼の前に姿を現わしたのは、もう八年以上も前の事。
 セルジュの傍に居れば彼の記憶が戻ってしまうかもしれない。だが、彼を見守っていたい。その思いからキッドはテルミナで過ごしていた。カーシュと会っていたのは、気の合う彼と居るのが楽しく、単に彼ならば記憶が戻る事は無いと思っていたからだった。

――なあ、キッド、あー……つまりだ、その……一緒に暮らさねえか?

 セルジュが好きだった。
 だから、気付いた。
 セルジュへのそれは、恋ではなく、友情や、親愛なのだと。
 自分は、気恥ずかしさから憮然とした表情で視線を逸らしたこの男を必要としていたのだ。
「なあ、カーシュ。オレは伊達や酔狂で結婚して子供作るほどユカイな精神してねえぜ」
 キッドの言葉にカーシュの表情がふっと和らぐ。
「…知ってる」
「オレは、ちゃんと自分の意志でお前を選んだんだ。ただ、いつかお前が記憶を取り戻した時、それが怖かった…」
 共に戦っていた時は、出会いの印象がお互い最悪だった事から殆ど口を利いた事がなかった。自分自身、こちらから声をかけようとも思わなかったし、向うも声をかけてくる事はなかった。
 自分と似た存在というものは、大抵、反発するか意気投合するかのどちらかだ。
 自分たちは明らかに前者で。
 だが、再開した自分たちはそういった蟠りが無く、後者となった。

 だから余計、怖かった。

――もし、カーシュが記憶を取り戻したら………

「後悔してるだとかそんなんだったら口にするな。俺は後悔なんざしてねえ」
 そう言い切ったカーシュに淀みは無く、キッドはずっと胸の内に仕舞い込んでいた翳りが取り除かれるのを感じた。
「……ありがとう…カーシュ……」
 嬉しさに涙が滲み、目の前がぼやける。
「でも……」
 だが、まだ言わねばならぬ事がある。キッドはきゅっと唇を噛み締めた。
「……ヤマネコとの事も、覚えてるんだろ?」
「……ああ」
 カーシュの表情が、僅かな悲しみの色に染まる。
「記憶、封じた方が良いのならオレが…!」
「いや、いい」
 彼は大丈夫だと笑ってキッドの頬に唇を落した。
「一生、忘れたくねえんだ……」
 今となっては忌まわしくも、懐かしくもあるあの戦いの日々、そしてヤマネコとの記憶。
「あんな事でも……大切な、記憶だから」
「もし、辛くなったら言えよ…慰めてやる事くらい、オレにもできるんだぜ」
「さんきゅ……」
 きつく抱きしめられ、キッドは彼の背に腕を回す。彼の手から本が滑り落ちたが、そんな事はどうでも良かった。
 今、ここにあるこの温もりが確かである事。
 それが、何よりも大切だった。





 影切りの森より遥か東、切り立った崖の上に一人の男の姿があった。
「………」
 遥か眼下で寄せては返すその波を見つめ、そして水平線へと視線を転ずる。
 このエルニド諸島の果てにあるのは大陸。ただそれだけだ。
 なのに、もしかしたら、あの先は別世界なのではないだろうかと思ってしまう。
 ここから見える筈の無い、不可侵の神の庭。
 そこにも、彼はいない。
 たとえ、あのクロノポリスが存在していたとしても。

 彼はもう、存在しない。

 セルジュはこの世界で生きているし、彼の父、ワヅキも、そしてレナの父、ミゲルもあのアルニ村にいる。
 フェイトがワヅキへ乗り移り、変貌を遂げた存在である彼。ワヅキの生が、彼が存在しないという証であった。

――理由が必要か。

 いつだったか、何故と問い質した自分に返って来たその素っ気無い応えに、あの時はどう答えて良いか分からずに「別に」と逸らかしてしまった。

 だが、今なら分かる。
 本当は、理由などどこかで感じていた、未必の故意。

「………」
 ここから見える筈も無い神の庭へ視線を向け、ふっと微笑む。
「……理由なんざ、いらねえ」
 そうだろ?
 応えはある筈も無く。
 だが、漸く分かったのかと呆れる彼の姿が脳裏に浮かび、少しだけ、むっとした。











(花咲く丘に涙して・完)
+−+◇+−+
この話、本当はグレンやリデル、ゾア、マルチェラ、そしてダリオがどうなったかも書きたかったのですが、話がどんどん脱線していくと気付いたので止めました。特にダリオやリデル、グレンに関してはこれでもかと言うほど設定を作ったんですが・・・取り敢えず、私の脳内に納めておく事にします。
(2003/09/19/高槻桂)

TOPに戻る1へ戻る