花咲く丘に涙して・零
 〜人よ、われらが涙をゆるしたまへ〜

 

君の哀歌を踏み躙ろうとする私を


「ガライ様!」
 呼ばれた男は駆け寄ってくる少年の姿に顔を綻ばせた。
「おお、カーシュ」
 鮮やかな菫色の髪を結い上げた少年は、そのままガライの腰に跳びついた。
「おかえりなさいませ!」
「走って来たのか」
「はい!お姿が見えたので」
 早くご挨拶がしたかったのだと続ける少年は、その深い緋の眼を輝かせてガライを見上げてくる。
「おや、何処へ行って来たのだ?泥が付いておる」
 よく見ると顔だけではなく、彼方此方に土の汚れが散っている。ガライは少年の頬に付いた泥を拭ってやりながら問うと、彼は慌ててガライから体を離した。
「す、すみません!溺れ谷まで行って来たので…」
 謝る必要はないと笑うガライに、それでも少年は申し訳なさそうに口を開いた。
「だって、ガライ様の服を汚してしま…ぅわっ!」
 ガライはしゅんとしてしまった少年の両脇に手を差し入れ、軽々とその体を抱き上げると己の肩の上に座らせる。
「良い。どうせ私も土埃塗れだ」
 そう笑う声に安心したのか、少年は男の肩の上で楽しげな声を上げた。




「ダリオ、この子がザッパの息子のカーシュだ」

 あの時の衝撃は、いつまでも忘れられないだろう。

 その日は母の定期検診の日だった。
 二人目の子供を孕んだ彼女は「今度も男の子かしら?それとも女の子かしら」と嬉しそうに笑っていた。
 父が帰宅した時、自分は本を読んでいてそれに気付くのが遅れた。
 風呂を使う微かな音に父が帰宅しているのだと気付き、区切りのよい所まで読んでから本を閉じる。
 その頃には水音も止んでおり、ダリオはリビングへと向かった。
「それでそこの崖の上に…」
 リビングから聞えてくる少年の声にダリオは訝しげな顔をする。
 誰だろう、と思いながら扉を開き、彼は目を見張った。
「お?」
 少年の声が止まり、きょとんとした表情でダリオを振り返った。
 彼は事もあろうかガライの膝に向かい合って跨り、その髪を拭いてもらっていたのだ。
「お、かえりなさい、父さん…」
 他に何と言って良いのか…まるで、父の浮気現場を目撃してしまったような心境だ。(相手は自分と同じくらいの男児だというのに)
 ダリオは引き攣った笑みで告げると、ガライは一つ頷いて再び膝の上のカーシュへと視線を戻した。
「カーシュ、私の息子のダリオだ。お前より一つ下になる」
 ガライの紹介に、カーシュと呼ばれた少年は男の膝から下り、ダリオへと向き直った。
「ダリオ、この子がザッパの息子のカーシュだ」
 ぱさりとタオルが外され、しっとりと湿り気を帯びた肩までの菫色の髪がぱらりと揺れる。
「宜しくな」
 そう笑った少年の、強い紅の瞳が印象的だった。
 お互い、親同士が仲が良い事や近所と言う事から顔は知っていた。
 けれど特にこれと言った接点が無く、今まで「ザッパおじさんの息子」と「ガライ様の息子」という認識しかなかった二人が、初めてお互いを個々として見た瞬間だった。



 カーシュに対しての第一印象は、正直な所、余り良くなかった。
 姿形が如何こうではなく、子供じみた嫉妬からだった。
 父を取られたと思ったのだ。
 実の息子である自分ですら何年か前を最後に父の膝に乗った記憶はないと言うのに、彼はいとも簡単にその場所を得ていた。
「………」
 だが、そんな彼らを見ている内に、どうでも良くなっていた。
 原因は、カーシュの相手をしている時の父の雰囲気。
 いつもは厳格な父も、彼の前では何処か優しげな空気を纏っている。
 それが、とても自然に思えたのだ。
 これで父がやに下がって実の息子より一つ年上の少年に向かって「かーしゅたんはきょうもかわいいでしゅね〜」とか言い出したら流石に父を見下げ、父をそんな事を言わせてしまうカーシュを目の仇にする所だったのだが。
 とにかく、父とカーシュが共にいる時のあの穏かな雰囲気に毒されたのか、次第に嫉妬心が沸き上がることは少なくなっていったのだ。
 後から思い返せば、この頃の自分が一番冷静だった気がする。いや、冷静と言うより単に自分自身のことで手が一杯で、そちらに気を廻している余裕が無かったのだ。
 ああ、これだと父が家族を放ったらかしてカーシュを構っていたように聞えるが、そうではない。
 父は普段は蛇骨館で寝泊まりをしていて、家に帰って来るのは十日に一、二度程度だった。
 カーシュが父と接するのはいつもその帰宅時のみ。
 帰って来た父に「おかえりなさい」、そして他愛のない話を二、三。そして「さようなら」。
 あの日彼が家に来たのは、偶々だったのだ。
 あの日、二人を迎えた母はころころと笑ってその時のことを口にした事があった。
「窓から二人が見えたから出迎えに行ったら、二人揃って土埃塗れなんだもの。問答無用でお風呂に押し込んでやったわ」
 実際、あれ以来カーシュが訪れる事は無かったし、父も家族との団欒を楽しんだり、俺の剣の稽古を付けてくれたりしていた。


 やがてグレンが誕生し、弟に掛かり切りになった俺はカーシュの事を気に掛けなくなっていった。
 時折街で見掛けもしたけれど、挨拶を交わす程度でお互い積極的に関ろうとはしなかった。
 カーシュはどうだったのだろう。
 カーシュは一見、誰にでも声を掛けて仲良くなっていそうなイメージがある。確かに今でこそそうだが、この頃のカーシュはどちらかと言えば人見知りの激しい方だった。幾ら俺がガライの息子だといっても、気軽に声を掛けてくる事は無かった。もしかしたら、ガライの息子だからこそ声を掛け辛かったのかもしれない。
 彼は見掛けに依らず(おっと失礼)人の心の機微に敏感だ。カーシュが父に近付くのを俺が快く思っていない事をきっと察したのだろう。
 だが、グレンの事で頭がいっぱいだった俺は、そんな事に気付きもしなかった。


 やがて、グレンが三歳になった頃、当時の龍騎士四天王だった父と蛇骨大佐、ザッパおじさん、ラディウスおじさんが大陸へと遠征に行く事になった。
 帰って来るのは何年先になるか分からない。
 軍人の妻たる母は寂しそうにしながらもそれを受け入れた。
 駄々を捏ねても父を困らせるだけだと理解できる年になっていた俺も、受け入れるしかなかった。
 遠征当日、港まで父を見送りに行った俺は、先に来ていたザッパ夫妻とカーシュを見つけた。
 ザッパおじさんは既に桟橋を渡って船に乗り込んでいく所で、俺たちに気付く事はなかった。
「ガライ様!」
 けれど、当然のようにカーシュが気付いてこちらに駆け寄って来た。
 父と俺が一緒に居る時は遠慮の色を見せていたカーシュだったが、さすがにこの日ばかりはそうも言っていられなかったらしい。
 駆け寄って来た彼は手にしていた巾着を父に差し出した。
「御守です。お荷物にならなければどうか受け取って下さい」
 父はふと視線を緩め、差し出された巾着を受け取った。(御守にしては大きめだ)
「喜んで頂こう」
 父の掌に丁度収まるくらいの大きさの、藍地に銀の刺繍がされたその巾着の中には何が入っていたのか……俺は、十年以上も後になって知る事になる。
「有り難う御座います」
 するとカーシュは拳同士を突き合わせて一礼をした。
「ガライ様に、海と大地の御加護を」
 その祈りはこのエルニドで一番ポピュラーな相手の無事を願う祈りだ。
「有り難う。カーシュも私たちが戻るまで息災に」
 そう微笑んだ父に、彼の気が弛んだのだろう。つ、と彼の頬を涙が伝った。
「ああっ!しまった!つい!!」
 己の涙に気付いた彼は騒々しく自分の頬を伝った幾つかの涙を拭う。
「カーシュ」
 父が優しい声音で彼を呼び、その無骨な親指で彼の目元を拭った。
「また会おう」
「はい、ガライ様……」
 そこでカーシュははっとして俺を見た。
「そ、それでは失礼します!」
 俺にいつまで居るのだと責められているとでも思ったのだろう、カーシュはがばっと一礼をして母親の元へと去っていった。

 俺は彼を責めてなどいなかった。
 ただ、彼の流した涙が綺麗だと思っていただけだった。
 俺はガライの息子という肩書きに傷を付けないよう子供ながらに振る舞って来た。
 その中には当然のように「泣かない事」も含まれていた。
 けれど、彼は違った。
 確かに不覚にも泣いてしまった事を慌ててはいたものの、恥じてはいなかった。
 俺と同じ、龍騎士四天王の息子と言う肩書きを背負って生きてきた筈なのに。
 初めてカーシュを好ましく思った瞬間だった。






+−+◇+−+
・・・これ書いたのっていつだっけ・・・(遠い目)
UPしなきゃ、UPしなきゃと思いつつ早(自主規制)・・・。ある程度、話の全体図が見えてこないとサブタイトルを入れる間隔がわからないので、それが放置プレイの第一の原因だったんですが。
漸くUPできました、花咲く零の第一話。
取り敢えず、くどいくらいあちこちに明記してますが、花咲くシリーズはカーシュ総愛です。不自然なまでにみんながカーシュを愛してます。家族愛、親愛、情愛、とにかく様々な愛の形でカーシュを愛しちゃってるのでカーシュ至上主義じゃない人にはこの先を読むのは辛いかも。
(2003/09/19/高槻桂)

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